「みぃつけた!」

サイコロの人生

 伊藤晴樹という少年が奇妙な持論で僕を驚かせてみせたのは、彼と話すようになってひと月ほど経った頃、つまりは一年前の五月半ばのことであった。

 まったく不名誉なことに彼は僕に変人の気質を見出したらしく、僕になら気取って接しなくてもよいと判断したらしい。誠に遺憾であるが、まあ良いように言えば、僕は晴樹に信用されていた。それゆえに彼は放課後、駅まで歩く道の半ばで僕にとんでもないことを打ち明けたのだった。

「杞憂って言葉がさ、俺は嫌いなんだよ」

「どうして?」

「空が落ちてこないなんて、誰が決めたんだって思わないか?」

 ああそうか、こいつは阿呆なのだ。

 呆れる僕が首を傾げるのに構わず、彼はフンスと鼻息を荒くした。

「六までしか目のないサイコロで七が出たらびっくりするが、空は落ちてくるかもしれんだろ」

「お前、この青いやつがなんだか知ってるか?」

「レイリー散乱だろ。知ってる」

「だったらなぜ?星は落ちても空は落ちないでしょう」

「それはそうだ。だがな、この杞憂のエピソードが、空の正体が判るよりもずっと前のことだったらどうだ?頭上に浮かぶ巨大な青は、もしかしたら落ちてくるかもしれないと考えないか?」

「…まあ、直感的には解らんでもないね」

「だろう?つまりな、一つの確率が絶対的に排除されるのは、それを裏付ける確かな前提が在る時だけなんだ。だから俺は、生きているのがとても怖い」

「明日死ぬかも、みたいな話?」

「いいや。むしろ、明日誰かを殺してしまうかもしれないって話だ。俺が何かやらかさない保証なんて、どこにも無いんだからな」

「はあ」

「だからな、俺は、自分の人生に責任を持ちたくないんだよ」

 この思想に伊藤少年が目覚めたのは中学二年生の頃、奇しくも僕が変態的な怠惰に取り憑かれたのと同時期である。

 かくして彼は、奇妙な儀式によって一日の行動パターンを決めるようになった。数十個あるらしい謎の独立変数をランダムに決定してやることで、人生という名の関数の値がただ一つ定まるのだそうだ。何を言っているのか解らないだろうが、大丈夫、僕にも解らない。ただ、あまりに衝撃的なカミングアウトだったから、忘れようにも忘れられないだけだ。

 何かやらかしても、それは関数の値が決めたことだから避けようがない。どうやら彼にはランダムな方法によって決められることが、この世で最も平等で何者にも非が無い物事の起こり方であるように見えているらしかった。

 ある意味で彼は、誰よりも決まりきった日常を送ることに徹している。それでもなお陽キャの皮を被り、器用に生きているのだから大したものだ。

 だが、彼の生き方には問題がある。

 それは自ら定めたこの鉄の掟に、自分自身でさえも決して逆らえないということである。

 何があっても、だ。

 ──だから、先輩たちから愛の告白に対して茶を濁し続け、激昂したデカルトに追い回される羽目になる。


 時刻は午後四時を過ぎたところで、夏陽はまだ高かった。あと二週間で夏休みが始まろうとしている。テレビのニュースは決まって毎日、ぽっかり消えてしまった人たちの話と、季節外れな勿忘草の話を取りあげている。

 本日の日課を全て消化した僕は、あの阿呆のせいで教室に残されていた。すでに教室は無人の伽藍堂だ。僕は教卓に腰掛けて、まもなくやってくるであろうターゲットを呆と待っていた。

 窓外で蝉が鳴いている。夏の色は淡くて儚い。

 まるでアイツの命みたいだなあ。

 なんて思っていると、教室のドアが勢いよく開いた。

「青井。伊藤のやつがどこにいるか知らないか?」

「ああ、食堂のほうへ行ったよ」

「お、サンキュー。じゃあ早速ブッ殺してくるわ」

「待てデカルト」

「ん?なんだ、まさか庇いたてしようってんじゃないだろうな?」

「いいや。むしろあの腐れ童貞野郎は殺してもらって構わない」

「だったらなんだ?」

「あいつがどうやって死ぬのか興味がある」

「うむ、そうだな。ヤツが泣いて俺の靴を舐めるなら命は助けてやってもいい。だが最低でも骨の二、三本は覚悟してもらう」

「そうか、そいつは楽しみだ。ぜひ写真を送ってくれ」

「任せておけ」

 鼻息荒げたデカルトは血走った目をギョロリと動かして、体育の授業でも見たことのない俊敏さで教室を飛び出した。僕は微笑とともに手を振って彼を送り出す。

 あれはヤバいな。目がヤバい。友人を川に突き落としただけのことはある。

「──だとさ、晴樹。最低でも骨の二、三本らしい」

 そのままの姿勢で低く呼びかけると、背後の掃除用具入れがキィと音をたてた。

「アイツの常識はどうなってんだ?」

「彼を誰だと思ってるんだ。常識なんて欠落しているに決まってるだろう」

「サラッとひでえな。というか、お前も味方してなかったか?」

 晴樹は恐る恐るといった感じでこちらへ歩いてきて、僕の隣に立った。

 こいつは腐っても僕の友人だ。浮舟と同じように、怯えているなら励ましてやろう。

「心配するな、折れ方が良ければ肋骨でも死なない」

「ほんとにド畜生だなお前らは。そんなに俺が憎いか」

「お前が憎いというよりは、僕の手が届かない幸せをお前が享受しているのが憎い。戦争や差別を憎むのと同じように」

「ダメだ、クズしかいねえ!」

 オーバーリアクションに天を仰いだ彼を見て、僕は苦笑した。

「仕方ないさ。なんたって学内でも屈指の美少女と、あの三年七組の美人から同時に告られてるんだからな。どんな人生送ってたらそんな目に遭うのか教えてほしい」

「俺は何もしてないんだ…何も…」

 まあ、そうなんだろうな。

 こいつは阿呆だが顔が良く、しかも阿呆ゆえに差別や偏見の意識がない。つまり、誰に対しても平等に優しく、思いやりをもって接するのである。放課後ひっきりなしに遊びに誘われるのには、きちんと理由があるということだ。実はジゴロを目指しているんじゃなかろうかと、この僕でさえ疑ったことがある。そのくらい無自覚にモテるヤツなのだ。

「しかし、お前の鉄の掟も大概にしておくことだな。そもそも、きちんと誠意ある対応をしていれば、デカルトもあそこまで怒らなかっただろうに」

「お前、それ本気で言ってるのか?」

「もちろん。骨は一本で許してもらえたかもしれない」

「あのな、テメエらの基準を常識みたいに語るんじゃねえ」

「でも、お前自身も問題だったとは思ってるんだろう?」

「ぐぅっ、それは、だな」

 苦虫を噛み潰した顔とはまさにこのこと、彼は苦しげにうめくと、僕の肩に寄りかかってきた。

「おいおい、触るなこの人非人。ジゴロが感染ったらどうする」

「言い過ぎだろ…まあ確かにな、俺も今回ばかりはどうかと思ったんだ。でもやっぱり俺は怖いんだよ」

「怖いって、どう考えても今の状態の方が怖いだろう」

「お前にはそうみえるかもしれんがな、俺には、責任ある人生を送ることが何よりも怖い」

「ははあ、筋金入りだな」

 自分の人生に責任を持ちたくない、か。

 その感覚は解らないでもない。

 誰だって、何かをやらかした時に真っ先に言いたくなるのは『仕方がなかった』ということだ。自分にはどうすることもできなかったのだから、それは起こるべくして起こったことであって、防ぎようがなかったのだと、誰だって言いたくなる。

「しかしお前、全部を天運に任せるような生き方をしていて、だったら、お前の人生はいったいどこにあるんだ」

「俺の、人生?」

「そうだ。世界の形は自分で決めるんだから、生きていくためには主観が不可欠じゃないか。その主観さえ天運に任せてしまったら、それは果たして生きていると言えるのか?生きてるのはサイコロじゃなくてお前なんだぞ」

 彼は先刻よりもずっとずっと、ひどく苦々しい感じで笑った。それは何かに抵抗しているようでもあったし、何かを諦めようとしているようでもあった。

「…難しいこと言ってんじゃねえよ、アホのくせに」

「それはお互い様だ」

 僕もバカだが、こいつも阿呆だ。

 目を瞑っているのだ。

 時計の針が見えないように、見えないように。

 それは子供が駄々をこねるのに似ている。世界の限界を勝手に決めつけて、自分は悪くないのだと言い聞かせている。

 つまらないのは自分ではなく世界なのだと信じ込んでいる。

 つまらないと嘆くのは個人の自由だ。そこに正誤など存在しない。あくまで世界はそこに存在するだけなのだから。

 だが僕らはそれを、自分の口から、心から、言ってやらなくちゃならない。子供じみた思考放棄や諦めから世界に難癖をつけてはならない。

「ボーイズ、ビィ、シィリアス」

「なんだって?」

「この世の全部は、お前の主観にかかってるってことだよ」

「ああ、そうかい…まあ、今回はサンキューな。おかげで逃げられたわ」

「おいおい、何のために僕が協力したのか憶えているか?」

「解ってる解ってる。優秀な俺の仲間たちがちゃんと調べてくれたよ」

「よし、報告したまえ」

「イエッサー。と言ってもだな、あんまり面白いことじゃなかったぞ」

「どういうことだ?」

「昨日、浮舟さんと一緒にいたのは彼女の従兄弟らしい。暇な大学生らしくてな、たまたまこっちへ帰ってきてたんだと」

「ほう。して、その従兄弟とやらはモテるのか?」

「そうだな、結構な色男みたいだぞ。だからお前が心配するようなことは何も無さそうだ」

 なるほど、それはよかった。

「上出来だジゴロ。骨折の本数を減らすよう、頼んでおいてやろう」

「そりゃあどうも」

 僕は教壇の下へ飛び降りると、自席へ向かってカバンを取り上げた。晴樹もふらふらと僕に続く。

「なあ、凪」彼はカバンを持ち上げると、感情の読めない笑みを浮かべて僕を見た。「一つ訊いておきたいんだが」

「なんだ?」

「お前さ、浮舟さんのこと好きなん?」

 これほど顔が引き攣ったのは久しぶりのことだった。思わずカバンを取り落としそうになる。

 まったくもって愚問だ。

 僕が彼女を好きかだって?

「断じて否だね。僕は、彼女を独り占めしたいだけだ」

「…ああ、そうかい」

「なんだ、その露骨にガッカリした顔は。いくらお前が浮舟を好きでも、彼女はやらんぞ」

「いや、もういい、ちょっと黙ってろバカ」

「バカ!」

 晴樹の声に重なるように、違う誰かの声が聞こえた気がした。

 ちょっと驚いて教室の中を見まわしてみるも、しかし僕らしかいないようだった。

「あれ、いま誰かいなかった?」

「は?俺らだけだろ」

「…そう、だよな」

 彼は足早にドアのほうへ向かい、めんどくさそうにこちらを振り返った。心底呆れた様子であった。なんともムカつく顔面である。

「ほら、早く帰ろーぜ」

「…うん」

 この阿呆に呆れられるほど変なことを言ったろうか、僕は。


 浮舟を独り占めしたい。

 その気持ちに気づいたのは、三人で遊びにいく前くらいだった。

 昔の僕とは違っているとはいえ、今でも僕は肉体的な欲求に素直である。だからこそわかるのだけど、僕が浮舟に抱くこれは、性欲とか肉欲とか呼ばれるそれとは違っていた。彼女は可愛いし魅力的な肉体をもっているが、僕が言いたいのはそういうことではない。

 浮舟の調子が狂い始めてからだ。

 それは僕が変わり始めたのと同時期で、だからどっちが原因なのか確かめようもないけれど、彼女が愛おしく感じられて仕方なくなったのだ。強がりだけど気弱な彼女を、僕だけのものにしたいと思い始めた。

 端的に言って、僕は彼女を必要としていた。

 それは不思議な感覚だった。

 人間が生きていくために栄養を摂るみたいな、息を吸うみたいな。それに近いレベルで、僕は彼女を欲するようになった。

 恋というのは聞いたことがある。あれは即ち性欲の具現である。

 しかしこの気持ちの名前は、僕は知らない。


 晴樹と一緒に校門へ歩くと、門の脇に少女の姿が見えた。遠目からでも、それが誰なのか僕には判った。

 僕らの気配に感づくと彼女がこちらを向く。

「青井くん」

「や、お待たせ、浮舟。ごめんね、このアホのせいで」

「誰がアホだ、誰が」

 晴樹が僕を小突いたのを見て、浮舟はくすくすと笑った。

「青井くんも、大概だと思います」

「おいおい、頼むよ浮舟。僕はここまで心根の腐ったやつじゃないよ」

「オブラートって言葉知ってるか?」

 そんなアホなことを言い合いながら、僕らは駅の方向へと歩きだした。

 どこかで茅蜩が鳴いている。歩道沿いの桜は青々と葉を茂らせ、湿気った空気の向こうをアゲハ蝶が横切った。ニュースでもよく聞く勿忘草は、僕らの町の花壇にまで進出してきていた。すぐそこに見えるやつなんて、すでに勿忘草が他の草花を押しのけて、歩道まで溢れむとばかりに咲きまくっている。道行く大人たちは誰も彼もが鬱陶しそうに顔を顰めて、ハンカチを顔に当てたりしている。高校生は元気なもので、ほらまた二台、自転車に乗った少女らが僕の隣をすり抜けていった。

「しかし、止まらんなあ」

 晴樹がポツリと呟く。

 あまりに断片的である言葉の意味を、しかし僕は容易に拾い上げた。それくらい、僕らの間でたびたび浮上する会話なのである。

「誘拐というか、もう神隠しのレベルになってきたね」

 少し前から始まった、この町で相次ぐ行方不明事件。被害者、と呼んでいいのかも定かでないが、居なくなった人たちは誰一人として帰ってきていないらしい。かといって、身代金の要求があるとか、どこかで遺体が発見されたとか、そんなこともない。或るとき忽然と姿を消したきり帰ってこないというのだ。

 まさに神隠しである。

 被害は僕らの学校にまで及んでいる。隣のクラスの某がトイレへ行ったきり帰ってこないだとか、そういう話が、もう数十にも上っている。はっきり言って異常事態であった。

 しかし、そろそろ休校になってもいいような気がするのだが、一向に報せが無いのは何故だろう。生徒の安全を蔑ろにしすぎなんじゃないかと思う。

「神隠し、ねえ」

「ちょっと怖いですよね」

「いったい誰の仕業なんだろう?」

「さあ。国家規模の陰謀とか?」

「大規模な社会実験とかですかね?」

「まるで創作だ」

 学校での被害を初めて聞いた時、なんだか漫画みたいな話だと思った。ありきたりな誘拐事件でもなく、殺人事件でもなく、ただ、消えて無くなるのだ。

 消えて。

 ……ん?

「なあ、晴樹?」

「なんだ?」

「うちのクラスってさ、何人いたっけ?」

「何人って、行方不明のやつが五人で、もともと二十七人だから、今は二十二人じゃね?」

「そう、か」

 言われてみればそんな気もする。

 する、けど。

 なんだろう、この違和感は。

 顔を顰めていると、晴樹が呆れた調子で口をひらく。

「なんだなんだ、クラスメイトの人数も憶えてないのか、この陰キャめ」

「いや、そんなはずはないんだが…」

「青井くん、大丈夫ですか?」

 浮舟の方には揶揄からかった調子はまったく無く、純粋な心配が声色に滲んでいた。相変わらず大人しそうな瞳で見上げる彼女に、僕は柔く微笑みかける。

「大丈夫だよ」

 きっと気のせいだろう。睡眠時間は足りてるはずだが、今日は少し早めに寝よう。

 ややあって、駅前に到着した。

「んじゃ、また明日な」

 右手を上げて去っていく晴樹を浮舟と見送ってから、僕らも家へと歩を進める。

 そのとき、気まぐれに僕は思いついた。

「ねえ、シュレディンガーさんのところへ行かない?近頃行ってなかったしさ」

「いいですよ」

 浮舟はすんなりと頷いてくれた。

 暮れる空を見上げて、なんとなく、彼に会わなくてはならない気がしたのだ。


 ──気がした、のだけど。

「…留守かな」

 いつも点いている灯りが、今日は消えていた。思わずドアの前で立ち止まってしまう。これは初めてのパターンであったのだ。

 いちおうノックしてみるも返事はない。

 そろりと、ほんのわずかだけドアを引いてみる。

「空いてる」

「鍵、掛け忘れたんでしょうか」

「ちょっと覗いてみようか」

「え、でも…怒られませんか?」

「大丈夫だよ。最初、僕はノックも無しに乗り込んだんだから」

 浮舟は浮かない顔を見せたが、やがて小さく頷く。

 それを確認してから、僕はゆっくりとドアを開いた。

「お邪魔しまーす」

「ご、ごめんください…」

 ほとんど同時に言った僕らは、またしても同時に息を呑んだ。

「え…」

 浮舟が声にならない音を漏らす。僕は唇を引き結び、室内を見まわした。

 それは、僕の知るシュレディンガー研究室ではなかった。

 ただの、朽ちて、埃まみれの空間。

 まさにそれは、古びた倉庫だった。

 真正面の壁はトタンが朽ちてしまって、一部崩れ落ちていた。そこから傾いた陽が射し込み、磨りガラス越しに落ちる陽だまりと混ざり合って室内を照らしている。全貌を具に観察するには光量が不十分である。僕には埃の積もった汚い床と、部屋の隅に放置された白い机、その上に乗せられた段ボールが見えるが、反対側の隅に散らかっている物体や、乱雑に撒き散らされた紙切れや、転がっている空瓶の正体までもを知ることは叶わなかった。

 浮舟が僕の袖を掴んだ。すかさず彼女の手を取る。

「大丈夫」

 そう、呟いたものの、しばらく僕は身動きがとれないままだった。


 ドッペルゲンガーやら神隠しやらが平気で存在するこの町で、今更驚くのも滑稽なことであるような気もする。しかしながら、やはり驚くなと言う方が酷であろう。

 正気を取り戻した僕らは口数も少ないまま、足早に倉庫から立ち去った。ぬるく湿った路地をズンズン歩き、大通りに戻る。その間は、ずっと手を繋いでいた。

 その手が自然に離れた頃、ようやっと僕らは口をきき始めた。

「なんだったんだろう、あれ」

「わかりません…でも、場所は確かに合ってたはずです」

「白昼夢でも見たんだろうか」

「そうだと信じたいですけど…」

 ちょっと青ざめた顔で浮舟は目を伏せた。彼女はシュレディンガーさんを大層気に入っていたから、ショックも大きいだろう。もちろん僕もショックだ。彼は恩人だったから。

「まさか、シュレディンガーさん自身もお化けだったんじゃ…」

「やめてくださいよぉ」

 あれが幻じゃないとしたら、いったい何だと言うのだろう。

「神隠しといいなんといい、この町は変だ。何かがおかしい」

「そう、ですね」

「ひとまず、今日はもう帰ろう。家まで送るよ」

 少しは落ち着いたのだろうか、彼女の頬に色が戻ってきた。

「ありがとうございます」

 日が暮れぬうちに帰った方がいい。

 シュレディンガーさんの言っていたことを思い出して、背筋に嫌なものを感じた。

 ともあれ、僕らは帰宅を再開する。

 いま訊くことじゃないかもしれぬと思いつつも、道すがら、僕は以前から気になっていたことを浮舟に訊ねた。

「浮舟の家ってさ、僕の家とあんまり離れてないでしょう?」

「へ?まあ、はい」

「てことは、小学校はあそこ?あの、坂の上の」

 僕が学校名を発音すると、彼女はコクリと頷いた。

「そうですよ」

「じゃあ、僕ら同じ小学校に通ってたわけだ」

 この町は微妙な栄え具合である故に、子供の数も少なくはない。小学校でも一つの学年に複数のクラスがあって、校庭も賑わっていた。

 だから、僕が憶えていなくても不思議じゃないけれど。

「僕ら、むかし何処かで会ったことない?」

 質問が唐突過ぎたのだろうか、彼女は吃驚した様子で目をぱちくりさせた。それから少し考え込み、顎に人差し指を添えて首を捻った。

 けれども、ついにはかぶりを振る。

「会っていないと思いますよ」

「…そっか。あれ、じゃあ中学は?君くらい可愛い子がいたら憶えてそうなもんだけど」

 ちょっと揶揄ってみると、彼女は笑って僕の背中を叩いた。

「ほんと、調子のいい人。だけど、中学生の頃は違う町に居たんです」

「そうなの?」

「ええ。そんなに離れてないんですけどね、小学二年生の終わり頃に転校して。それで、高校入学と同時にこっちへ戻ってきたわけです」

「なるほど。だったら、君を憶えていなくても不思議じゃないか」

「はい、きっと」

 憶えていなくても不思議じゃない。

 それはきわめて自然に出てきた言葉だったけど、僕は不吉なものの気配を嗅ぎ取った。錯覚だと言われても否定できない程度のそれは確かに存在して、だけど、

「だから、高校で会えてよかったです」

 浮舟がふんわりと笑ったから、見ていた夢が明け方の白々に溶けていくみたいに、忘れたことを忘れてしまうのだった。



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