神様のポカ

「断じて否だね。僕は、彼女を独り占めしたいだけだ」

 よくもまあ、この人はぬけぬけと言えたものだと思います。

 透明人間な私は顔色を気にすることもないので、気兼ねなく耳まで真っ赤になってしまいました。

「バカ!」

 叫ぶと同時に、私は教室を飛び出します。

 あれは、いったいどういうつもりなんでしょうか。好きじゃない、でも独り占めしたいって、もう、何を考えてるのかしら。頭おかしいんじゃないの。ていうかそもそも青井くんは私を揶揄っているだけで、そんなつもりじゃないものだとばかり、てっきり。いやでも、好きではないのだから、そのつもりではないのでしょうか。ああもう、絶対許さない。これで私のことを忘れたままだなんて、絶対に──。

 声だってきっと誰にも届かないでしょうから、やはり私は遠慮なく独り言を漏らしながら階段を駆け降ります。放課となってから少し経っていますので、校舎は比較的静かでした。そのまま、私にしか聞こえない足音とか鼓動とか恨み辛みを自給自足的に消費しつつ、速やかに昇降口を目指します。

 靴を履き替える必要もなく、そのまま外へ飛び出しました。

 そのあたりで息が切れてしまって、歩調を緩めます。

 夏の陽はまだ高く、空気までもをジリジリと焼いています。なのに私は汗一つかいていませんし、そもそも暑いと感じません。本来ならば鳥肌ものの違和感ですが、一日過ごしてみてなんとか慣れてきました。

 やっぱり、人間じゃなくなったんだろうなぁ、私。

 そう思うと涙が溢れそうでした。

 前方には校門が見えて、傍に女の子の姿がありました。この距離でも、それが誰なのか間違えることはありません。

 だって、私自身なんですもの。

 声や姿を誰にも覚られないとか汗をかかないとか、そういう違和感をやり過ごしているうちに、自分がもう一人いるということにもすっかり慣れてしまいました。あんなに怯えていたのに、です。

 今朝、なんとなく理解したことによって、私は確信したのです。

 彼女は確かに私で、私もやはり、私なのだろうと。

 それはとても不自然で奇妙で、けれども正しいことであります。

 私は彼女に歩み寄りました。

「こんにちは」

 声をかけてみても、当然返答はありませんでした。

 自分に挨拶するなんてへんな感じ。けれども、怖いとは思いませんでした。

 彼女は視線を自然に下げて爪先の辺りを見つめています。青井くんたちを待っているのでしょう。その表情は穏やかで、私のようなはにかみやぎこちなさがありませんでした。正しい呼吸の重さ、とでもいうのでしょうか、とにかく、無理をしている感じが一切無いのです。

「…私が、邪魔だったのですね」

 まったく意図しないことでしたが、その呟きはひどく自嘲気味に聞こえます。

「バラバラになって、そうして、あなたが再構成された。強がりを忘れた、素直なあなたが」

 朝からずっと、不思議に思っていたことがありました。

 それは、どうしてこんなにも言語化し難い気持ちを私が抱いているのかということ。

 彼女を見ていると、とても形容し難い感情が胸に渦巻くのです。わずかな怒り、苛立ち、寂しさ、虚しさ、悲しみを、全てひと匙ずつだけ加え合わせて、ぐるぐるとかき回したような、薄いけれども無視できない感情。

 ああ。

 悲しいのかしら、私。

 それは正確な表現ではないようにも思われましたが、私がもつ言葉の中では、一番近しくて望ましいものでありました。

 私は、きっと私の中ではかなり古い人格だったのだと思います。本当はずっと前に捨てておくべきであるような、子供じみた古い人格。彼が見つけてくれた、大切な私。

 それが、生きていくのに邪魔になって、ついには放り出されてしまったわけです。

 飽きられた玩具が捨てられる時って、こんなふうなのかもしれない。

 とてもとても、悲しいことでした。

「…さようなら」

 決して交わらない視線をどうすることもできないまま、私は歩きだしました。


 今の私には帰る家もありませんので、いつもの路地を目指すことにしました。道ゆく誰もが暑さに顔を顰めるなか、一人涼しい顔で歩いていきます。

 透明人間になってから気づいたのですが、目に見えない存在には殆ど何の権利も与えられないようです。そうして、道を好き勝手に歩くのは非常に重要な人権であることを知りました。誰にも見えてないのですから、こちらが気をつけていないとすぐにぶつかってしまいます。今朝の女子中学生は、まあ胸を触られただけで済みましたが、自転車なんかに撥ねられたら堪ったものではありません。

 シャッターの降りた文房具屋が見えてくると、私は小走りになって路地へ駆け込みます。こっちに人が入ってくることは皆無ですので、ようやく私は自分のペースで道を歩く権利を得ました。ホッと胸を撫で下ろします。

 とりあえず、シュレディンガーさんのところを目指すとします。彼には色々と訊きたいことがあるのです。

「にゃあん」

「あら?」

 聞き覚えのある鳴き声に、私は足を止めました。

 振り返ると、真っ白でふわふわな生き物がぽてぽてこちらへ近づいてきていました。

「ハミルトニアン!久しぶりですね」

「にゃ」

「お散歩ですか?」

 訊ねると、ハミルトニアンは私の顔をじっと見上げました。

「…?どうしたんです?」

 そういえば、彼には私が見えているようでした。そっと手を差し出すと、彼は鼻をクンクンさせてから、私の指先に眉間を擦りつけました。

「よかった、あなたには私が見えるのですね」

「にゃあん」

 人間以外の動物には幽霊の類がよく見えると聞いたことがありますが、それに似たようなことでしょうか。とにかく猫の一匹でもコミニュケーションが取れるということは、今の私にとって有難いことでした。

 先を急ぐ旅でもありませんので、私はしばらくハミルトニアンをこねくり回しました。彼は、私にはよく懐いてくれているようで、撫でろと言わんばかりに仰向けの姿勢をとります。御所望のとおり、彼の白くて暖かくてもふもふなお腹を撫でまわしました。

「ハミルトニアン、シュレディンガーさんを知りませんか?」

 気持ちよさそうに喉を鳴らしていた彼は、しかし私が訊ねると起き上がりました。相変わらず開いてるんだか閉じてるんだか判らない目で私を見上げると、一声鳴きます。

 それから、おもむろにトコトコ歩きだしました。

 ついてこいってことかしら。

 私は彼を信じることにしました。

 正直なところ、もしかしたらハミルトニアンが何かしらの奇跡を運んできてくれて、現実へ連れ戻してくれるかもしれないと期待していました。しかしながら、彼は私のよく知る道のりをたどり始めます。どうやら研究所へ向かってるみたい。まあ、そんなに甘くないよね。

 ちょっと落胆しつつも、私たちは研究所まで迷うことなく歩いてきました。彼が案内してくれたのだから、今日は留守ではないのでしょう。

 階段を上がると案の定、人の気配がしました。

 ノックの音に「開いてる」と聞き慣れた声がします。

 私がドアを引き開けると同時に、ハミルトニアンが滑り込んでいきます。いかにも猫らしい仕草でした。

 シュレディンガーさんは部屋の真ん中あたりに座っていて、何やら分厚い本を机上に開いていました。億劫そうにチラと目を挙げ、私を認めると微笑みます。

「やあ、いらっしゃいお嬢ちゃん。今日は一人かい?」

 ああ、やっぱりあなたは。

 なんだか嬉しくて、私も頬が緩みます。

 それにしても、どうして今まで彼の正体に気づかなかったのでしょうか。

 こんなに似ているというのに。

「こんにちは、青井くん」

 刹那、彼は顔を痙攣らせました。けれども、見開いた目がもとの細さに戻るまでには、三秒とかかりませんでした。

「…やっぱりシュレディンガーと呼んでくれないか、浮舟」


 名物の理系コーヒーを淹れてもらいました。何度見てもエキセントリックです。

 私たちは向かい合って座ると、ポツポツ、この世界の破れについて話し始めました。

「お嬢ちゃんは、どこまで知ってるんだ?」

「や、知ってるというか、なんとなく理解したって感じで…細かいことはさっぱり」

 彼はじっと私を見つめていましたが、やがて困ったように相好を崩しました。

「そう、だよな。そもそも、説明できるようなことじゃないよな」

 私は無言で頷くと、コーヒーを少しだけ含みました。真夏に汗一つかかないけれど、どうやら喉の渇きと眠気だけは人間のそれと変わりないようで、だから、コーヒーは涙が出そうなくらい美味しいのでした。

「…美味しいです」

「そりゃあよかった」

「私は」目を伏せて、制服の胸もとをぎゅっと握りしめます。「こうなってからというもの、汗をかかないし、お腹も減りません。なのにどうして、喉は乾くんでしょうか」

「解らん。だけど俺だって同じだよ。かれこれ何年経ったか判らんが、喉の渇きと眠気だけは、どうやら本物らしい」

 まるで死んでいるみたいでした。

 体温がどうしようもなく冷たくて、お腹は常に満たされていて。けれども、喉ばかりが渇いて仕方がないのです。足りない何かを欲するみたいに、その感覚ばかりが本当らしいのでした。

「私たちは、人間ではなくなったのでしょうか」

「それも、解らん。でもまあ、俺たちは可能性の一つだったんだろうね」

「可能性?」

「そう。或る主体における、可能性。一人の人間が選び得る可能性。それは無限大には存在しない。人間は、何にだって成ってしまうわけにはいかないから」

「どういうことですか?」

「つまりね、多分、一人の人間がとり得る状態には限界があるんだよ。世界の形は己が決めるものだ。世界を観測して解釈することを、つまり人生と呼ぶのだからね。そうして得られる何もかもを受け取っていながら、だけれども人間は、いくつか挙げられる可能性のうちの一つを選んでいくことしかできない。成り得る自分のうちの何れかを選ぶのさ」

 つまり主体としての私は、今も青井くんと話しているであろう、素直な私を選びとったということでしょうか。それと矛盾している私は、ああ、そうか。

 虚部。

 あってはならない、不都合な自分。

「人間の人格は複素数のようなものでできている。虚部が無くなるように、バランスをとっているんだ。足し算の答えが合わなくなったとき、人格は不安定な状態に陥り、違った安定位置を求める。要らないものを捨てて、新しいものを取り込んで」

 路地裏で首を吊っていた青井くんのことを思い出します。彼もまた、青井くんの一部であったのでしょう。

「そうやってはみ出した、もう要らないものや不都合なものが、なんらかの形で残ってしまったのが、神様の手落ちであって、すなわち俺たちなんだろうね」

「では、もう元には戻れないのでしょうか?」

「そうだなぁ…考えられるとしたら、もう一度見つけてもらうことだな」

 見つけてもらうという言葉に、ふと、私は幼い頃のことを思い出しました。当時の私には理解不能で、ただただ怖くて、どうすることもできなかったけれど。

「昔、同じようなことがあったんです」

「ほんとに?」

「ええ。かくれんぼの最中に、私だけ忘れ去られてしまって。みんなを追いかけていったんですが、誰一人として、私には気づいてくれませんでした。単純に、意地悪をされているのだと思ったのですが…」

「なるほど、その子たちには本当に見えてなかったわけだ」

「きっと。そうして家に帰ったところ、ドッペルゲンガーが現れたんです」

 目に涙を滲ませながら帰ってきた私がドアを開けると、いつもは出迎えてくれる母が現れませんでした。不思議に思いつつも何かしら取り込み中なのだろうと考え、リビングへ向かいました。そこに置いてあったソファに何食わぬ顔で座っていたのが、他でもない私だったのです。

「それで、お嬢ちゃんはどうしたんだ?」

「どうすることもできませんでした。ただ家を飛び出して、逃げるように公園へ向かって、それで、そこから動けなくなったんです」

 あの公園にはベンチが設置せられてありましたが、それよりはブランコの方が入り口に近く、私はフラフラとブランコの方へ吸い込まれていきました。浅く錆びた鎖がキィキィ鳴るたびに胸が苦しくなりましたが、不思議と泣けないのでした。

「そこで、青井くんが見つけてくれたんです」

 あの一言で私は、私を取り戻せたのかもしれません。理屈はまったく解りませんが、今ではそう思えるのです。

 シュレディンガーさんは顎に手を遣ると、少し考え込みました。私はマグカップを両手で包むようにして持ちます。ちゃんと温かいのが、なんだか笑えます。

 ──と、唐突に背後のドアが開きました。

 私が振り返ると、そこには驚いた表情のまま硬直してしまった青井くんの姿がありました。隣には何かに怯えた様子で彼の袖口を掴む私の姿もあります。

 彼は、ちゃんと生きている方の私の手を、ぎゅっと握りました。同じくらいの強さで心臓を握られた気がして、私は顔を顰めます。

「お嬢ちゃん、どうした?」

 予想外な声をシュレディンガーさんが発したものですから、私は驚いてしまいます。

「どうしたって、青井くんたちが来てるじゃないですか。ほら、そこに」

「どこにも見当たらんが…」

 彫像が如く固まってしまった彼らとシュレディンガーさんとを交互に見比べて、首を傾げます。いったいどういうことなんでしょう。彼らが驚いた顔で立ち尽くしていることも、シュレディンガーさんに彼らが見えていないということも。

 以前までの私ならば戦慄していたであろう不思議現象にも、それほど戸惑うことはありませんでした。なにせ、今や私の方が幽霊みたいなものですからね。

 だから、それは私にとって、ただ不思議な光景でした。

 私がもう一人いて、だけど私のことは見えていなくて、シュレディンガーさんにも彼らが見えていない。しかも私には両方が見えている。一方通行の観測が複雑怪奇に入り組んでいるような状態。

 彼らにはいったい何が見えているのでしょうか。

 シュレディンガーさんから見たドアは、開いていないのでしょうか。

 思えば、人間っていつもこんなふうなのかもしれない。

 しんと静まり返った研究室で、再び動き出したのは彼らの方でした。生きている私の手を引いて、青井くんが静かに立ち去ります。

「あ、待って…」

 私はついつい立ち上がりかけて、止しました。

 彼は一度もこちらを見なかった。

 きっと私は未だに忘れられたままなのでしょう。

 雷に打たれたように大切なことを思い出したのは、それと同時でした。

 ──ああ、そうか。

 忘れられたくなくて、私は強がっていたんだ。






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