右か左か

 三日坊主という言葉がある。これは往々にして持続性のない習慣あるいは軽薄な誓いのようなもの、及びそれを打ち立てた人間を非難する際に用いられる言葉である。なるほど、己で決めたことも三日しか続かぬような人間は、非難されて然るべきなのかもしれない。

 けれども僕は、三日坊主は尊いのだと思う。なぜならば、三日坊主という言葉は『三日も続けてれば大抵飽きるよ』という人間の根源的性質を鋭く指摘する言葉だから。翻って、三日もあれば人間は何かに飽きることができる。だからこそ、僕らは三日坊主を繰り返すうちに、自分にとって何が重要で何がそうでないのかを見極めることができるのだ。

 ──というようなことを浮舟に言ってのけて、呆れた視線を賜ったのは週が明けて月曜日、午後四時過ぎのことだった。日課を終えて学業から解放された高校生諸君は、男子も女子もなく吹っ切れたような良い顔つきで教室を後にした。どんなスピードで着替えてるのか知らないが、性急な坊主頭の運動部員は早くもトラックを駆けている。

 僕は浮舟と共に日暮れた廊下を昇降口へ歩き、下校しようとしていた。体育があったからだろうか、今日の彼女は艶やかな長髪を一つに束ねていた。彼女のステップに合わせて、まさに馬の尻尾みたくふらふらと揺れる。

「それで、早起きも三日坊主だったわけですか」

「三日じゃない、四日だ」

「大して変わりませんよ…」

 科学者──僕は彼をシュレディンガーさんと命名していた。もちろん無許可で──に会ってから四日ほど、僕は自らの性癖である怠惰を完全に忘れていた。はんぶん暗示にかかったような状態だったのかもしれない。

 しかしその暗示は土曜日の朝、目覚まし時計を叩き壊す勢いで黙らせた時に解けてしまった。しゃーないでしょう、眠かったんだもの。シュレディンガーさんの金言に感動していたのは事実だし、少しは真面目になろうと思ったのも嘘ではないけれど、人間の意思とは儚いもので、どんな感情にだって持続性を与えてやれない。

 しかし、気づけたことも大いにある。

 まずもって、僕は早起きが嫌いだということが判った。けれども学校が嫌いなわけではないということも判った。これに付随して、僕は自分が存在している場所について、あまりはっきりした認識をもたないのだということを知った。家と違ってぐっすりと眠ることはできないし、下半身に潜む獣を鎮めることだってできないけれど、そういった特異的な事柄を除けば、僕にとって学校と家は大差ない空間の広がりに過ぎなかった。どちらにいても同じくらい退屈で、どちらにいても人生を浪費しているような感触があった。

 それから驚いたことに、僕は勉強が嫌いでないということが判った。これまでは面倒くさいばかりだと思っていたのだけれど、それは惰性による意識の埋没に他ならなかった。ちゃんと、能動的に学ぶ意欲を持てば、勉強はそれほど悪くなかった。面白いというと言い過ぎだが、つまらなくもない。

 最後に、友達と喋るのは案外楽しいということが判った。思えば僕は、これまで友達というものを必要としたことがなかった。僕にとって友達とは世間体のためにこしらえた人間関係であって、それ自体に意味を見出そうとしたことがなかった。しかしまあ、改めて春樹たちと向き合ってみると、これがなかなかどうして悪くない。陽キャごっこもたまにはいいものだと知った。

 総じて言えることは、考えることを止めた時点で可能性は絶たれるということである。僕が下らぬ凡夫だったとして、その人生が如何様につまらなかったとしても、そのポテンシャルの最大値を引き出せないことの責任を人生の惰性──思考放棄に押し付けてはならないのだと知った。

 人間というものは繰り返し同じことをしているうちに、何か大切なものを失うのかもしれない。

 そう、だから僕は、自らの人生を点検してみることにしたのだった。

 今日こうして浮舟と二人で下校しているのも、僕が彼女を呼び止めたからだ。意外にも、彼女は僕が昼食に誘ったり一緒に下校しようとしたりするのを拒まなかった。僕に向けるゴミを見るような目や容赦のない暴言は、彼女なりの愛情表現なのかもしれない。それに気づいた僕はなんだか嬉しくなってしまって、以前にも増して、事ある毎に彼女に絡むようになった。

「それで、今日も寄り道するんですか?」

「シュレディンガーさんのところにね」

「変な人じゃないでしょうね?」

 見事なまでにジトっとした目で、彼女は僕を見上げる。

「まあ、一般的に見れば確実に変人だけど、面白い人だよ。きっと君も気に入ると思う」

「ふぅん。ひとまずは信じてあげます」

「ありがとう」

 素直に礼を述べたのはほとんど条件反射で、浮舟が何か言い返そうとしたのを僕は目の端に捉えた──これまでだったら「やめてください、寒気がします」とくるところだけど、彼女は何も言わずに黙ってしまった。ただ、なんとなくバツが悪そうに視線を逸らしただけである。最近の彼女にはこういったことが多い。

 ともあれ、僕らは昇降口を出て、件の路地へと足を運んだ。


 そこまでは良かったのである。

 問題は、僕がどうやってシュレディンガーさんのところへ行き着いたのか憶えていなかったことだ。そんなに複雑なルートを通った記憶もないのだけれど、前回歩いた道程をどうしても思い出せなかった。

 しかも路地の様相は、僕の記憶と可成り違っていた。あの時の僕は精神が真面じゃなかったので、何か見えてはいけないものが見えていたのかもしれない。それはもはや、今となっては僕にも定かならないが、しかし、まあ位置座標的な話をすれば、僕らは間違いなく件の路地に足を踏み入れているはずだった。

「あれえ、おっかしいな。こんなところに電柱なんて無かったはずなんだけど」

「ほんとにここであってるんですか?」

「そのはずだよ。入り口の時点では、確かにここだと思ったもの」

 前回見たときは、もっと人の気配があった。窓から漏れる電灯とか口げんかとか、そういうものが、けれど今回は全くない。トタンで出来た外壁から倉庫だと思しき建物がたくさんで、そればかりが道の両側に並んでいる。ときどき民家のような建物の裏側が見えたとしても、割れた窓ガラスに蔦が這い回っていたりして、人が暮らしている様子はない。

「なんだか薄暗いし、気味が悪いです」

 ちょっと低い声で浮舟が言った。彼女は怖いものが大の苦手なのだ。鏡の中の自分を見て卒倒するくらいに。

「そういえば、あれ以来ドッペルゲンガーには会わないの?」

「やめてください、思い出しちゃうじゃないですか」

「自分と同じ姿なのに、そんなに怖いものかね?」

「青井くんも見れば解ります。あれほど気味の悪いことはありません」

 キッパリ言い切って、彼女はそっぽを向いてしまった。思わず苦笑して「ごめんごめん」と呟く。彼女はへんなところが素直で、ときどきとても可愛らしく思える時がある。こんなことにも、以前の僕ならば注意を払わなかったのだろう。

「でもまあ、結局ドッペルゲンガーってのはなんなんだろうね。ワケが解らんな」

「解りたくもないですけど…わりと昔から、その存在は知られていたみたいですよ」

「そうなの?」

「ええ。私も詳しいことは知りませんが、芥川龍之介も実際に体験したとか」

「へえ、意外」

「真偽は定かじゃないですけど、やっぱり有名みたいです」

「うーん…となると、あの阿呆が言っていることにも一理あるのかもしれんな」

「デカルトくんですか?」

「ああ」

 あの阿呆とは、三年七組の美人に当たって玉碧の地に落つるが如く木っ端微塵に爆砕した我らがクラスメイトの男子である。僕を含めたクラスの大勢は、彼にデカルトという渾名を与えている。由来はもちろん、彼の神をも睨む懐疑主義的発想だ。

「彼によれば、人間の観測には必ず揺らぎが存在して、その揺らぎが異なる世界線との相互作用を引き起こし、ドッペルゲンガーを生み出すらしい」

「…解りませんね」

「うん、実に難解で意味不明だ。だが言葉には理性を感じないではない」

「振られたの、そんなにショックだったんでしょうか」

「きっとそうなんだろうね。彼も近いうちに七不思議に載るやもしれん」

 倉庫と倉庫の隙間から黄色がかった西陽が射し込んで、僕らを照らした。浮舟はくすりと笑って、両手を後ろへ回す。身体の揺れとポニーテールが初夏の温い空気に振れる。彼女にしては無邪気というか、なんだか珍しい表情だった。

 要らぬ事だと判っていて、それでも僕は口を開く。

「君は、なんだか穏やかになったね」

 彼女は大袈裟に吃驚した顔をみせた。「そ、そうですか?」

「ここ数日ね、そんなふうに思ったりする。まあ、僕の言うことなんてアテにならないけど」

 口を動かしながら、ふと、奇妙な感覚に襲われる。

 僕は浮舟の穏やかな側面を以前にも何処かで観測していたのではないかという、デジャヴにも似た感触。

 なんだ、今の。

 困惑しているうちに不思議な感触は脳裏を通り過ぎて、路地の風に吹き攫われてしまった。

「気のせいです、きっと」

 浮舟はどこか遠い目をして言った。その横顔は、何かを怖がっているようにもみえた。

「…そうかもしれない」

「ええ」

 それからしばらく、黙って僕らは歩いた。代わり映えのない景色が続く。僕らの足音の他には、ほとんど何の音もしない。

 次に言葉を発したのは、前方に現れた見覚えのない分岐に驚いた僕だった。

「へんだな、三つに分かれた分岐なんてなかったはずなんだけど」

 今まさに、僕らは交差点のような格好をした分岐に立っていた。中心には誰が何を思ってか、鉢植えが置いてあって、小さな淡青色の花が溢れんばかりに群れ咲いている。

「あら、勿忘草」

 浮舟は呟いて歩を進め、鉢植えの前にしゃがみ込んだ。僕もそれに倣う。

 遠目には存在感が無くて弱々しい感じのする花だったけれど、近づいてみると、彼らは思いのほか凛とした佇まいをしていた。

「これ、勿忘草なの?」

「ええ。綺麗ですね」

 とても有名な花なのに、僕はこれまで一度も実物を見たことがなかった。こんななんだ、勿忘草。

 いかにも忘れられそうな見た目だと思った。

「そういえば、シュレディンガーさんの研究室の前にも、これが置いてあったな」

「だとすると」浮舟がこちらを仰ぎ見た。「その方が置いていったのかもしれませんね」

「こんなところに?なんのために?」

「解りませんけど…迷わないための目印とか?」

「まさか。ヘンゼルとグレーテルじゃあるまいし」

 道標として鉢植えを置いていくなんて、パンくずをばら撒いていくよりもエキセントリックだ。

「しかし、まいったな。いよいよ道が判らない」

「引き返しますか?」

「うーん…ここを左に行って、それでもダメなら諦めよう」

 浮舟が立ち上がって、僕らは先へ進んだ。


 僥倖というのは唐突に訪れるものである。

 そう言ってしまうと、僕らがシュレディンガーさんのところへばったり行きあたったかのようであるが、そうではない。そんなちっぽけな偶然には、僥倖という日本語は使えない。

 僕は今、合法的に女の子と密着することに成功している。

 ──などと阿呆なことを考えているのは、半分は僕が肉体的な欲求に素直すぎるから、そうしてもう半分は、いま、まったく呆気にとられて思考を止めてしまいそうだからだ。自分を落ち着けるために、とにかく何かを考えていなくてはならなかった。

「あ、ああ、青井くん!まだ青井くんはいますか?」

 面白い日本語だと思った。なんだか詩的だ。

 僕は声を潜めて答える。

「いるよ。信じられないことにね」

 僕の腰にすっかり抱き着いてしまって、浮舟が両の腕にぎゅうっと力を込めたのが幸せな圧力になる。ああ、なんか温かいし柔らかいし良い匂いするし幸せだなあ、でもこれ、何がどうなってんだろう。デカルトの悪い病気をもらっちゃったのか、それとも、これも夢なのか。

 もし仮に夢だったら、覚めなくてもいいかもしれない。

 この幸せな温もりに比べたら、そこにもう一人の僕が立っていることなんて、些細な問題じゃないか。

 現在、僕の神経というか意識というか、そういうものは、胴体に八割、視覚に二割あてがわれていた。そしてその二割が捉えているのは、今まさに首を吊ろうとしている僕自身だった。

 ドッペルゲンガーなんて、いるはずがないのであると、昨日まで本気で思っていたのに。

 まさか、本当に現れるなんて。

 しかも、こんな路地裏で、首を吊ろうとしているなんて。

 そう、何もかもが唐突で理解不能だった。

 約一分ほど前、浮舟とともに勿忘草の交差点を左に曲がり、ここまで歩いてきた。そこには数メートル四方のひらけたスペース──ちょうど、シュレディンガーさんの研究室があった場所によく似ていた──があって、なんとまあ、そこに立っているのが他ならぬ僕自身だったという奇想天外で荒唐無稽な観測事実のみが、しかし僕らの知覚に起こった物語的全てである。

 まったく、神様でも幽霊でもいいんだけれども、解るものならこの不思議現象の発生メカニズムを懇切丁寧に教えていただきたいものであった。

 理屈ではなく本能のはたらきによって見つかってはまずいと感じた僕らは、素早く物陰に身を隠した。それは古びた民家の勝手口の前、都合よくブロック塀が途切れたところだった。そうして今、浮舟から幸せな圧力を賜りながら彼の様子をじっと観察しているという次第である。

 彼がこちらに気づく様子はない。じっと、前方を見つめて微動だにしない。

 黄色いビールケースの上に立った彼の眼前には長い長いロープが上空から垂れ下がっている。当然ながら、その先端には首を引っ掛けるための輪っかがこしらえてある。どうやら廃ビルのような建物から突き出した鉄骨に括り付けてあるらしい。

 少年はいま一度、何かに納得したように頷いた。その様子は、ため息を吐いたようにもみえた。

 ぬるい風が吹き抜けて、ブロック塀の陰に隠れた僕らの頬を撫でた。

 どうしようもない、そんなふうに、彼はビールケースを蹴った。

 鉄骨が軋む音がして、屋根の上からカラスが飛び立つ。

 浮舟がびくりと肩を震わせた。

 僕も思わず息を呑んだ。

 だけど僕は、なぜだか目を離せずにいた。

 ビールケースという足場を失った彼の体は重力加速度に従って落下運動を始めたはずで、ロープにはたらく張力と均衡を保ちながら、そうして、彼は息絶えていく。その帰結を免れることは、現実を生きている何人たりとも不可能である──はずだった。

 僕は目を見張った。

 不意に彼の姿が歪んだのだ。

 現実には在り得ないはずの存在が、やはり現実には在り得ない方法で、ぐにゃりと、周辺の空間ごと歪んだみたいに揺れる。それまではっきり見えていたはずの彼の姿は、真っ黒なシルエットのように変色して、まったく命の質感を失った。折り紙で作った人型にも見える。

 やがて、彼の体が細かく千切れて舞い上がり始める。その様は灰が風に吹かれるのに似ていた。そうして、透明な水にインクが広がるような感じで、ゆらり揺れて消えていく。薄く、薄く。そこにあったはずの黒色は少しずつ透明になって、束の間は煙のような形をして宙に漂っていたが、それもすぐに消えていった。

 今度こそ僕は呆気にとられて、みじろぎ一つできなくなってしまう。

 なんだったんだ、あれは。

 浮舟に抱き着かれたままで、しばし立ち尽くすばかりだった。

 路地はすっかり静けさを取り戻した。彼を窒息させたはずのロープはいつの間にやらずいぶん短くなって、しかもその先端は朽ちて千切れていた。首吊りに使えようはずもない有様である。彼が立っていた場所にビールケースはなく、人の姿はおろか、まさに猫一匹見当たらない。ますます傾いてきた西陽が弱々しく射し込んできている。

 何事もなかったかのように、路地は現実の風景を取り戻した。

 その風景を数分眺めて、僕はようやっと正気に戻った。

 怯える浮舟の体が小刻みに震えているのが判る。どさくさに紛れて頭をポンポンしてみると、彼女はおずおずと顔をあげた。目尻に涙が浮かんでいて、さすがに少しかわいそうだった。

「彼は、逝ってしまったよ」

「……もう、見えませんか?」

「うん、もういない」

 彼女はおもむろに僕から離れ、いかにも恐る恐るといった感じで背後を振り返った。それから心底ホッとしたような、深く長い息を吐いた。これほど判りやすい安堵のため息を、僕は生まれて初めて聞いたかもしれなかった。

 それから彼女はこちらを向いて、一瞬、僕と目を合わせたけど、すぐに逸らしてしまった。顔が紅い。

 ドキリとした。

 その心音は、背後から唐突に怒鳴られた時のものに似ていた。

 僕は首を傾げる。

 そのまま二人して、しばらく黙り込んでしまった。

 待つこと数十秒、ようやくこちらを向いた彼女の顔はやはり紅くて、まだ涙が少し残っていた。これでは僕が意地悪をしているみたいだ。

「わ、忘れてください、今のは、えっと」

「心配しなくても気にしてないよ。なんなら抱きしめてあげようか?」

「…バカなんですか?」

「バカだが、嘘は吐かない」

 これまでの彼女ならば更なる罵倒も辞さなかっただろうに、またもや彼女は口を噤んだ。まあ、とてもとても何かを言いたそうな顔ではあったのだけれども、結果としてそれが音声になることはなく、ふいっと背けた顔だけが僕に対する不満を言葉よりも雄弁に語っていた。

 苦笑して、僕は僕のドッペルゲンガーの死に場所へ目を遣った。

「…ん?」

「どうしたんですか?」

「いや、ちょっとね」

 そのとき僕の目が捉えたものは、見覚えのある黒い物体だった。我ながらよくも遠目に気づけたものだと感心してしまう。

 おもむろに近づいてみると、やはりそれは一冊の本だった。

 空転の切望と嘆き。

 思わず顔が引き攣った。

「なんですか、それ?」

 サッと本を閉じて鞄に放り込む。

「彼の落とし物みたいだね。つまり僕のものだ」

「ああ、なるほど…あれ、なんかおかしくないですか?」

「気のせいだよ」

 あれは、流石に浮舟にも見せられない。それくらいの矜持は僕にもあるのだ。

 なんとか誤魔化したくて、話題を転じる。

「それにしても、こりゃあダメそうだね。シュレディンガーさんの研究室があったところは、確かこんな感じだったけど…」

 目の前にあるスペースは四方を古い倉庫に囲まれていて、目的の建物は見当たらない。しかも、路地はここで行き止まりになっているらしかった。

「今日はもう帰りましょう?」

 浮舟がささやく。ひどく疲れた顔だ。

「そうだね。今日のところは」

「──おい、少年。お前か?」

 唐突に聞こえた男性の声に、同時に僕らは振り返る。

「こんなところで何してる。女の子なんて連れて」

 そこには、白衣を羽織って怪訝な表情を浮かべるシュレディンガーさんが立っていた。


「なるほどー、ここの微分がこうなって…ああ、なんとなく解りました」

「うん、お嬢ちゃんは賢いな。少年、お前も少し見習えよ」

「余計なお世話です」

 僕は机に突っ伏して、何やら難しい本を挟んで向かい合っている二人を眺めている。

 つまらん。実につまらない。

 勉強は嫌いじゃないが、今はそんな気分じゃないのだ。なのに、浮舟ときたらすっかりシュレディンガーさんを気に入ってしまって、物理だか数学だか知らないが、なにやらワケの解らないことで盛り上がってしまっている。

 ──しかし、何だったんだろう、あれは。

 この本を持っているということは、彼はやっぱり僕自身であると考えていいだろう。ドッペルゲンガー。それは解った。

 解らないのは、どうして自殺なんかしたのか、である。

 彼は学生服を着ていて、歳も僕と同じに見えた。さらに例の本を持っていた。こんな現象を常識に則して考えるのも馬鹿らしいけれども、おそらく彼は時系列的に人生上の同じポイントに立っている僕自身だろう。だとしたら自殺の原因はきっと、あの本だ。自らの将来に絶望することの苦しみは、僕自身もよく知っている。

 だが、僕はこうして生きている。

 シュレディンガーさんの金言によって、正常な魂と肉体を保てている。

 だったら彼は?シュレディンガーさんに会えなかった僕?

 つまり、あの日の放課後、路地の分岐を間違えた僕?

 そう思えば、背中に冷たいものが走るような気がした。一歩、いや一つ分岐を間違えたら、僕もあんなふうに死んでいたのかもしれない。

 それはとても恐ろしいことで、けれども人生というものの本質は、誰にだってそんなふうなものなのかもしれないと思った。

 ぼんやりしていると、浮舟の膝上で香箱をつくっていた白猫と目が合った──といっても、猫は仏のような顔をしていて、目なんてほとんど開いていなかったのだけど。女の子の膝とかいう、たぶん世界で十三番目くらいに居心地が良いであろう場所を占拠して、ふくふくと笑っている。憎らしいヤツめ。

「ありがとうございます。とっても勉強になりました」

「そうかい。なら、またいつでも教えてあげるよ」

 猫は表情を崩さない。ニコニコして本を閉じた浮舟に背を撫でられて「にゃあん」と野太い声を発する。僕が睨みをきかせても暖簾に腕押しみたいだ。

「ところでこの子、名前はなんていうんですか?」

「んー、特に無いんだ。つけようとも思ったんだが、名前が無いってのも、なんだか小説的で面白いかと思ってな」

「小説的…」

「おう。まあ、よかったらお嬢ちゃんがつけてくれてもいい。もとより、そいつは迷い猫だしな。俺の飼い猫ってわけでもない」

「あ、ええと…」

 瞬時、浮舟は頬をゆるめて満更でもなさそうな顔を見せたが、すぐに不安そうに八の字を寄せて、ちらと僕を見た。

 彼女らしくもない。

 僕はようやっと姿勢を正して、不貞腐れるのをやめた。

「浮かばないのかい?」

 首を傾げてみせると、彼女は素直に頷いた。

「青井くんは、何か思いつきますか?」

「そうだなあ…」

 シュレディンガーさんの猫だから、なんか、教科書に出てくるようなかっこいい名前がいい。

 ふと、前に興味本位で読んでみた分厚い物理の教科書を思い出す。

 うん、これしかないだろ。

「じゃあ、ハミルトニアンで」

 シュレディンガーさんは露骨に眉をひそめた。

「お前、どうしてそんな難しい言葉を知ってる?」

「あれ、もしかしてバカにしてます?」

「大いにしている」

「ひどいなあ、否定はしませんけど」

 浮舟も不思議そうな顔をしていたが、こちらはもっと単純に、僕が何故そんな言葉を選んだのかと思っているようだった。訊かれる前に答えてやろう。

 得意げに唇の端を持ち上げてみせる。

「シュレディンガーさんの猫だから、ハミルトニアンなんだよ」

「シュレディンガーだと?誰のことだ?」

「あなたですよ」

「お前、よそで俺のことそんなふうに呼んでるのか?」

「ええ」

「やめろやめろ!いろんなところから怒られるだろ」

 具体的にはどこらへんから怒られるのか興味はあったけど、彼が真面目な顔をしているので訊かなかった。いい名前だと思うけどな、ハミルトニアン。

「ていうか、そもそもハミルトニアンってのはだな…」

 やばい、また難しいことを言い始めてしまった。

 浮舟はふんふんと頷きながら涼しい顔で聞いているが、そんな話をこれ以上続けられたら堪ったものではない。なんとか話題を逸らそうと、強引に彼の言を遮る。

「ま、まあまあ。ところで、シュレディンガーさんのホントの名前は何ていうんですか?」

 彼は僕を軽く睨んで、しぶしぶ話を止めた。それから顎へ手を遣って、少し何かを考えたようだった。

「俺の名前は、だな」

 へんに言い淀む。

 数秒の沈黙。

 そうして、彼はフッと息を吐き、口角を持ち上げる。

 微笑み程度の浅さだった笑みを、ニィっと、意味の判然しないままに深めていく。何かを諦めたような、はたまた面白がっているような、なんだか質量を感じない表情だった。

 彼は笑い混じりの声で続ける。

「いや、いい。俺はシュレディンガーだ。天才物理学者のエルヴィン・シュレディンガーだよ」

 またもや浮舟が首を傾げたが、これには僕も驚いてしまった。

「どうしたんですか、突然」

「いいんだ、それで。お前が観測する俺は、シュレディンガーでいい」

「はあ…」

 相変わらず頭のいい人は何を考えているんだか判らない。

 彼は窓の方へ近づいていって、閉め切っていたカーテンを開け放つ。外はすっかり暗くなっていた。

「お前ら、今日はもう帰れ。帰り道が判るうちに」

「そんな、子供じゃないんですから」

「未だ子供だろ。いいからほら、子供はちゃんと家で寝なくちゃいかん」

「解りました」

 僕と違って、浮舟は素直に立ち上がる。やれやれ、帰ってやるかぁ。僕も腰を上げる。

 ついでに、ふと思いついた馬鹿な疑問を目の前の大人にぶつけてみることにした。

「帰り道が判らないのは、怖いことですか?」

 彼は白衣の胸ポケットからタバコの箱を出して、もう一方の手をズボンのポケットに突っ込んだ。

 ややあって、おもむろに答が返る。

「そりゃあ恐ろしいことだ。自分が何者なのか判らなくなることだからな」

「自分が、何者なのか」

「ああ、そうだ。物事ってのは、なんだって安定な状態になりたがる。目に見えない粒子も、複雑なシステムも、人間の心もな。平衡状態を保とうとする」

「平衡状態、ですか」

「不安定なものってのは、たいてい長続きしないんだよ。そのうちバラバラになるか、あるいは、何かを取り込むなり吐き出すなりして、安定な状態に戻るか。どっちかだ。人間の心だってそれと同じだ。帰り道が判らないとき、心は平衡を離れる」

「…そうですか。それじゃあ、また」

「ああ、気をつけてな」

 僕と浮舟が「さよなら」と告げると、彼は学校の先生みたいに出来過ぎた「さよなら」を返した。

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