忘る勿れと青、春に咲いて

 眠っていたのかどうかも判然しないまま、気づけば朝陽を浴びていた。

 起き上がると同時に覚えたのは、強烈な違和感である。

 ──静かだ。

 昨日まで窓ガラスをもわっしわっしと揺らしていた蝉の声が、ぱったり止んでいる。それに、窓から射す陽がこんなにも柔らかい。干したての布団を思わせるそれは、まさに春最中はるさなかの陽光だった。

 のんびりと回らない頭で考えてから、僕はハッとした。

 いったい何がどうなっているのか。

 素早く立ち上がって窓を覗くと、辺り一面を埋め尽くす青に目がチカチカした。目眩のような不快感は色彩が催すものなのか、それとも現実離れした光景がもたらす混乱なのか。

 人の気配を求めて階下へ向かうも、父も母も見当たらない。そういえば今は何時なのかとスマホを参照してみれば、デジタル時計が見事に文字化けしている。こんなのは初めて見た。ならばと思って壁掛け時計へ目を遣れば、なんとまあ、長針と短針があべこべな方向に忙しなく回転している。

 あれほど憧れていた非日常に興奮することも忘れて、僕は玄関へ歩いた。寝巻きのままで靴を履いて、ふらり外へ出る。

 この世界は、いつからか壊れていた。

 ドッペルゲンガーやら神隠しやら、どうにかしているとしか思えないようなことが次々に起きた。町からは人が消え、僕らはきっと、誰もが透明になった。

 君からは僕が見えない。

 僕からは君が見えない。

 そんなことの繰り返しが、今のこの世界を形づくる、強力で、けれどもひどくシンプルなルールだ。

 僕らは簡単に忘れる。自分のことも、他人のことも。

 主観と客観のあいだを行ったり来たりして、結局はなんにも残らない自分という存在を確かめて、そうやって生きている。

 それは、一生終わらないかくれんぼみたいで。

 ──そうだ。

 だから僕は、探さなきゃならない。

 簡単に忘れられてしまった彼女を、この世界に繋ぎ止めておくために。


 歩いていく。

 気温はとても曖昧で、暑いんだか寒いんだかよく判らない。どちらかといえば春に近く、けれども空気の透明さは秋に似ていた。

 歩いていく。

 彼女が何処にいるのか、何故だか僕は判っていた。理屈ではなく、本能のはたらきによって。

 歩いていく。

 強がりな弱虫は、きっとあそこに居るから。

 立ち止まった。

 ところどころに踏み倒された勿忘草があって、それが彼女の可憐な足跡であると判った。僕は歩幅を小さくして、彼女の足跡をなぞっていく。

 ベンチに横たわる彼女は夥しい花弁に埋もれていて、青い布団をかぶっているみたいだった。

 花が眠っている。

 僕は小さな子供みたいにたじろいだ。

 嬉しくて、頬が熱くて。

「浮舟」

 彼女は微動だにしない。

「起きないとキスするよ?」

 それでも起きない。とんだ寝坊助お姫様である。

 童話の中ならキスが定番だけど、現実においては憚られる。ここはもっと紳士に、エレガントに起こすべきだろう。

 青い布団の上に放り出されていた彼女の右手を、そっと取った。

 ようやっと、彼女は薄目を開く。

 僕は笑った。あの日よりは幾分か草臥れて、少しは大人っぽい笑顔のつもりである。

「みぃつけた」

 花弁がゆるりとわらう速さで、彼女の顔にも花が咲いた。

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