ほんとうに在るもの

「ん…あれ」

 そっと目を開けると古い蛍光灯が見えて、束の間、私は混乱しました。

 どこだろ、ここ。

 半身を起こして辺りを見まわし、ようやく理解します。

 ああ、そうだ。シュレディンガーさんに泊めてもらったのだ。

 机の上で横になった彼は、まだ眠っているようです。寝具など無いこの研究所では、机上で寝ざるを得ないのでした。

 私はそっと机から降りて、彼を起こさないように歩きます。そのまま、ゆっくりとドアをスライドさせました。

「わっ」

 ──と、目の前に広がっている景色に、そんな音が口から漏れます。

 青い雪が降ったみたいでした。

 目の前の空き地も薄暗い路地も等しく、真っ青に埋め尽くされているのです。

 勿忘草。

 いまさら何が起こっても驚かないつもりでしたが、やっぱり予想外な出来事にはついつい声が漏れてしまいます。

「どうなっちゃうんでしょうね、この世界は」

 ポツンとこぼれた呟きは白々しく、他人事みたいに聞こえるのでした。異常事態には構わず、カンカン、私は鉄の階段を降りていきます。こんなに美しい花々を踏みつけにするなんてことは絶対にしたくないのですが、足の踏み場もないのだから仕方ありません。

 ふと、自分の足音がひどく鮮明に鳴っているのに気づきました。

 辺りがひどく静かです。

 いや、確かにこの路地は人気がなく、いつだって静かでした。しかし今のこの静けさは、とてもとても、形容し難いくらい際立っているのでした。私は首を傾げて思案し、ようやっとその正体に気づきます。

 ──鳥や蝉が黙りこくっている。それに、風も吹かない。

 普段ならカラスが騒ぎたてていたり、焼けた空気を蝉の強烈な大合唱が揺らしているのですが、それがすっかり失われているのでした。路地を吹き抜けるぬるい風も、ぴったりと止まっています。

 世界が死んだみたいだ。

 そう、思いました。

 気を取り直し、私は町のほうへ歩を進めます。相変わらず行く宛てなんて無いけど夜になれば眠くなってしまうので、どこか安心して眠れる場所を探さなくてはなりません。

 それから数分、私は死んだように静かな路地を歩き続け、迷うことなく町へ戻ってきました。案の定と言いますか、町にも例外なく勿忘草が乱れ咲いているのでした。日頃ならあり得ないことに車の一台も通らず、やはり静まりかえっています。

 勿忘草の香りなんて流石に知りませんでしたが、こんな、甘くていい香りがするのですね。

 却って忘れられてしまいそうな匂いです。

「あれ?」

 心地良い花の香りを胸いっぱいに吸い込んだ時、道端に座り込んで呆と何処かを見つめている男の子を発見しました。あれは間違いなく、クラスメイトのデカルトくんです。

 駆け寄って声を掛けてみます。

「デカルトくん?」

「……」

 もしかして見えてないのかな。

 それにしては彼の様子は不自然でした。きちんと学校の制服を着ているくせに、微動だにしません。

「…誰もが」

「はい?」

 唐突に口をきいたデカルトくんでしたが、私のほうを見ようとはしません。どうやら、本当に見えていないみたいです。

「誰もが、ここに居ることの証明を欲しがる。世界は何者をも繋ぎ止めはしない。ただここに居るだけだ。私も、あなたも」

「…あれ、もしかして見えてます?」

「…誰もが──」

 ちょっと期待しましたが、彼は私を無視して同じ文言を繰り返し始めました。なんだか落ち込んでいた時の青井くんを思い出します。元気づけてあげなきゃって思ってたのに、私の方が参ってしまって、今や透明人間になっちゃったのですから、一寸先は闇とはよく言ったものだと思います。

「おや?」

 何気なく目をくれた先に、今度はハルちゃんを発見しました。

 またまた私は駆け寄って、声を掛けます。

 ハルちゃんは虚な目をして、私を見上げました。

 その表情を、私は知りませんでした。思わず足を止めます。

「ハルちゃん?」

「誰、あなた」

「誰って、私ですよ。ほたるです」

「そんな子、知らない。早くあっち行って」

「え、でも…」

「いいから。話しかけないで」

 ショックを受けずにいられるわけはありませんでしたが、私はなぜだか冷静でした。「わかりました」とだけ残し、彼女のもとを去ります。

 そんなふうに対処できた理由はきっと、彼女が、私から見えなかったハルちゃんだったのだろうと気づいたからです。彼女もまた、ハルちゃんの一側面であり、彼女が成り得た可能性だったのでしょう。

 私は二人から遠ざかり、あの公園を目指しました。眠るのにちょうど好さそうなベンチがあったので、今夜はそこで眠ってしまおうと考えていたのです。

 壊れた世界の風景は、なかなかに新鮮で素敵でした。やはり人間以外の動物は見当たらず、道路は一面、花に覆い尽くされています。建物の壁や窓の隙間からも青い花が飛び散り、まるで空を地面に映しているみたいでした。

 またまた、前方に人影を発見します。

「伊藤くん?」

 背後から声を掛けると、彼は文字通り飛び上がりました。いかにも恐る恐ると言った感じで、私のほうを振り返ります。

「だ、誰、キミ?」

「ほたるですよ。浮舟ほたる」

「知らない子だな…あ、えっと、初めまして!」

「はい、初めまして」

「あの、俺急いでるから、これで!」

 何を急いでいるのか知りませんが、彼は一目散に逃げ出しました。そんなに怖く見えるのかしら、私。

 笑えるような状況ではないはずなのに、おかしくて笑みが溢れます。

 私を知らない彼らと、彼らを知らない私。

 それは目に見えないだけで、ずっと本当は、そこに在ったのでしょう。いつだって、世界はこんな格好をしていたに違いないのです。

 なんだか気分が良くなってしまって、踊るようにステップを踏みながら歩きます。途中でくるりと回ってみたり、体を大きく揺らしてみたり。不躾に花々を飛び散らせながら歩くのは、けれどもひどく瀟洒な遊びでした。一人きりの舞踏会です。

 やがて公園にたどり着きました。あの日と変わらず静かに佇むブランコは無人で、座面の高さまで勿忘草が迫るベンチは、もうすぐそこです。

 一歩手前で、くるっと回れば、花が吹く。

 ベンチに腰掛け、そうして、体を横たえます。

 空はまだ明るくて、淡い青色をしていました。

 ──もーいーかい?

 不意に耳もとで聞こえた問いに、私は小さく笑います。

「もーいーよー」

 呟いて目を閉じた途端、私の意識は勿忘草色の闇へと引きずり込まれました。





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