記憶
正直に言えば晴樹がデカルトに八つ裂きにされやしないかと期待していたのだけど、彼は五体満足で今日も生きている。まったく残念なことである。
彼が九死に一生を得たのは、彼が誠心誠意込めて謝ったからでも、ケンカでデカルトに勝ったからでもない。ではどうして彼が生きているのかというと、それは単にデカルトが居なくなったからだ。
例の神隠しである。
昨日から今日にかけて──正確には放課時刻である午後四時過ぎから今朝までにかけて、僕のクラスでは十人が行方不明となった。隣のクラス、またその隣でも同じようなことが起きており、違う学年においても同様であるとの噂を耳にした。
とうとう、この教室に残った生徒は十三人。もはや学級閉鎖の状態なのである。
これには流石に学校側も焦ったのか、今日は朝のホームルームが終わり次第放課という対応をとり、寄り道などせず速やかに帰宅せよとの御触れを出した。僕は素直に嬉しかったものの、怖がりの浮舟は目を伏せておどおどしていたし、クラス全体の雰囲気も沈んでいるようであった。
「ああ、委員長もいないのか…よし、じゃあ伊藤、号令頼む」
「あーい」
気の抜けた晴樹の声があっさりと放課を告げる。
これほどに学校が学校として機能していない様を、僕は生まれて初めて見た。
「お前ら、休みだからって遊び回るんじゃないぞー。明日は我が身だと思っとけよ」
先生の言葉に、今ばかりは誰もが真剣に頷いているようだった。
みんながそそくさと教室を去り始めるのを見て、僕も立ち上がる。そばにはすでに浮舟がやってきていた。僕は彼女を見上げて、ちょっと笑った。笑うしかないと思った。
「すごいことになってきたね」
「ほんとですね。いったい何なのかしら」
「ちょっと普通じゃないな」
出口で待っていた晴樹と合流して、僕らは学校を後にする。平日の朝だからかもしれないけれど、街には人かげも疎らである。
行方不明事件は、何も僕らの学校だけで加速していることではないのだ。連日、ニュースで報道がなされている。どこそこの某が消えたとか、そんなレベルの話ではない。本日の行方不明者は何人であったとか、そういう話し方をせざるを得ない状況だ。
大人たちは色々な方面から調査を進めているらしいのだが、一向に解決の糸口は見えないらしい。ゴシップ好きの連中はネットで雑誌で、この町の怪事件を神隠しと呼んで面白がっているそうだ。
「まさに神隠し、だな」
青信号の横断歩道を渡りながら、晴樹が呟いた。
「そうだね。まあ、とりあえず学校休みでうれしいけど」
「お前はほんとにブレんなあ…神隠しだぞ神隠し。明日には自分が消えるかもしれんのだぞ?」
「んー、でもまあ、待遇次第ではそれもアリやもしれん」
「はあ?」
「や、例えばご飯なしでも生きていけるとか、透明人間になってエロいことし放題とか。朝十時まで寝てても怒られないとか」
そうなれば僕はもう働かなくて済むし、気ままに寝てられるし、おまけに二つ目の可能性が実現されれば性欲だって自在に満たせるわけである。一次欲求を余すところなく手軽に満たせるなんて、これ以上素晴らしいことはないと思う。
「それは、なんつーか」
「青井くんのために作られた世界ですね」
それなのに、二人して苦笑するのである。いいと思うんだけどな。
「ああ、でも一人だと退屈しちゃうから、君らも連れて行きたいな」
「やめろやめろ、お前と心中するつもりはねぇ」
「私は、別に…」
「そう?じゃあ浮舟だけでいいや」
「そんなあっさり諦められたら悲しいだろーが。もちょっと引き留めろ」
「素直じゃないなあ」
それならそうと最初から言えばいいのに…あれ、こんなこと、前もどこかであった気がする。
「そういえば前、浮舟にも同じこと言わなかったっけ?」
「へ?えっと、憶えてない、ですね」
「あ、そうだっけ。勘違いかな」
強がりばかり言ってしまう彼女に、僕は似たようなことを言った気がする。けれどもよくよく思い出してみれば、微妙に違和感があった。強がっている彼女に対しては、僕はこんなことを言わないはずだ。揶揄いたくてしょうがないから。
ん?
そもそも強がりな浮舟って誰だ?浮舟は怖がりで、気が弱くて、それだけの女の子じゃなかったか?
妙に引っ掛かるけど、それ以上何かを思い出すことはできなかった。
「あ、そうそう、透明人間で思い出したんだけどさ、お前聞いた?透明人間の噂」
「透明人間?」
「そ。最近、町の至る所で透明人間が発生してるらしいの」
「バカな話だなあ。透明なのに、どうやって見つけるのさ」
「それは俺も思うんだが、みんなぶつかって気づくらしいぞ。悲鳴が聞こえた、とかいう噂もある」
「それでも、人間かどうかは判らんだろう。人間とよく似た鳴き声を発する生き物だったらどうする」
「ま、ごもっともだな。でも面白いんだ、これが。近所の中学生が言ったらしいんだが、宙におっぱいが浮いてたんだと」
「おっぱいだと?」
「ああ。なんか温かくて柔らかいものが浮かんでて、改めて触ろうとしたら手を叩かれたそうだ」
それは実に興味深い。未確認生命体の尻を揉んでいるという可能性も排除できないが、本当におっぱいなのだとしたら素晴らしい僥倖である。
「なんで嬉しそうなんですか?」
浮舟がジト目で見上げてくるので、僕は慌てて表情を繕う。いかんいかん、鼻の下が伸びまくっていた。
「なんでもないよ。しかし晴樹、情報源は中学生だろ?股間でモノを考えているようなお年頃だ。そんなのアテにならないんじゃないのか?」
「とりあえずお前は中学生に謝れ。それにな、言い出しっぺは女の子なんだぞ?」
「ほお、そうなのか」
「おう。ま、自分も女性だからこそ、柔らかくてあったかい透明な物体がおっぱいだと判じられたんだろうな」
や、しかし、いくら自分にもついているからといって、例えば目を瞑った状態で触って、それと判るものだろうか。それを言えば僕も男だが、目隠しのうえで野郎の股間をまさぐり、それと言い当てられる自信はない。
「浮舟はどう思う?」
「はい?」
「目隠しでおっぱいって判るものかな?」
「え、あと、その…そんなのやったことないし」
「想像でいいんだよ。判りそう?」
僕は断じてふざけているわけではなく、本当に興味があったのだ。その熱意が伝わったのか、彼女はつっけんどんに答えることなく真剣に考えてくれた。
「えー…服の上からだと難しそうですよね。その、おっきい人ならマシかもしれないですけど」
なるほど、透明人間も服を着ているのだ。誰にも見えていないからといって衣服という文明を捨てる痴女はさておき、多分、人間は自分が透明になっても服を着ているものだと思う。
「晴樹、そのおっぱいは大きかったのか?」
「知らん。というかおっぱいに食いつきすぎだろ。神隠しの方は心底どうでもよさそうなのに」
「馬鹿野郎、神隠しなんぞよりおっぱいの方が大事だろう」
更なる議論を展開したかったのだけど、浮舟が睨んできたので口をつぐむ。まったく心外である。僕はこんなにも真剣だというのに。
また赤信号に引っ掛かると、僕らは陽を嫌って木陰に逃げ込んだ。頭上では蝉が鳴き喚いている。
道路沿いの花壇では本来咲いてほしかったはずの植物たちを押しのけて、勿忘草が乱れ咲いていた。これもいつから始まったのだか忘れたが、もはや日常の風景になりつつある。
「…あっついな」
「暑いね」
「暑いですね」
思わず口を揃えて夏を疎む。早く冷房の効いた部屋に逃げ込みたい。
晴樹が夏服の胸もとをパタパタやりながら呟く。
「しかし、神隠しってのは結局何なんだろうな」
「解らん。しかし人が消えるということについて、考えられる可能性は三つだ」
一つ目は、どこかへ連れ出された可能性。これが一番それらしいが、これほど規模が大きくなってくると少々不自然である。
二つ目は、存在ごとポンっと消えた可能性。神隠しのイメージとしてはこれであるが、やはり現実的でない。
そして三つ目。僕らに見えていないだけで、彼らは何処かに存在しているという可能性。
「…ん?」
「どうした?」
「いや、透明人間っていうのが本当にいるなら、この神隠しも説明できるんじゃないかと思って」
「どういうことだ?」
「つまり、見えていないんじゃないか。彼らは今でも普通に存在してて、もしかしたら僕らに話しかけているのかもしれない」
「んなアホな。それじゃあまるで──」
僕の目を覗き込んだ晴樹の、その瞳の感じだけで、彼が何を言いたがっているのか判った。
そうだ、これでは、まるでデカルトの話が本当だったみたいだ。
人間の観測には揺らぎがあって、現実において不都合とされる虚部はドッペルゲンガーとなって現れる。
ドッペルゲンガーは、いつも変な現れ方をする。本を送りつけてきたり、鏡の中にいたり、いたと思ったらふっと消えてしまったり、電話をかけてきたり。まるでお化けみたいで、基本的には言葉を交わすことなく、特定の時間だけ、特定のやり方で知覚される。
ではもし、今この町で起きている神隠しが大規模な人間解体現象だったとしたら、どうだろうか。
きっかけとか、ましてやメカニズムなんてこっちが訊きたいくらいである。そんなものが、少なくとも自然科学の法則や原理に則って説明されうるとは、とても僕には考えられない。けれどもデカルトの言やこれまでに見てきた怪奇現象を現実のものとして認めてやれば、この神隠しに対してシンプルなストーリーを与えてやることはそれほど難しくない。
なにかのはずみに、ある日突然、人格がバラバラになる。それらは基本的に一人の人間を作り出そうとするから、合体する。ところが虚部がうまく消えてくれない場合、あれこれと調整をし始める。何かを加えるなり、捨てるなり、トータルバランスの均衡を保つために人格の詳細を変更する。
僕も浮舟も、この一ヶ月ほどで確実に変わった。
だけれども僕らは透明人間になっていない。つまりこれが、その成功例なのだろう。
一方で透明人間になるというのは、すなわち失敗例なのではないだろうか。人格はもとに戻れず、バラバラになったそれぞれが勝手に歩き出す。これがドッペルゲンガーを作り出す。
彼らは確かにそこにいるが、僕らには見えない。もしかしたらドッペルゲンガー同士でも、見えたり見えなかったりするのかもしれない。
しかし、人格をバラバラにしただけでは、足し算でもとに戻るはずである。そうならないというところが、この町を騒がせる神隠しの本質なのかもしれない。
信号が青に変わった。再び炎天に肌を晒す。
「…ありえないか」
「あんまり考えたくねーな。でも、妙な説得力は有る」
「ちょっと現実的じゃないですよね」
「そのとおりだ。本来ならあってはならないことなんだろう」
「何にしても、俺らに対抗する術はなさそうだ」
拉致や誘拐の類ならば家で大人しくしていればいいが、超常現象が原因なのだとすれば避けようがない。というかそもそも、これだけの人数を消し去ってしまえるような手口なら、僕ら高校生も含めた一般人が抗えるはずがない。
「…怖いですね」
「そう?」
「浮舟さんが正常だ。お前は色々とおかしい」
晴樹が呆れたように笑うので、僕もつられて笑った。
錯覚だと、思った。
だけど確かに、何かが欠けているような気がしてならなかった。
それから僕は、大人しく家に帰って読書を楽しんだ。あまり読むのが速い方ではないので、文庫本の半分くらいを消化するとけっこう疲れてしまう。小さな頃は謎の集中力によって疲れ知らずだったのだけど、経験と慣れが邪魔をするのか、以前ほど物語の世界に没頭することができなくなった。
食事や入浴も済ませ、時刻は午後九時をまわろうとしていた。
活字から逃れるようにして顔をあげた時、ふと、黒くて分厚い辞書のような本が書棚に収まっているのを見つけた。見つけた、なんて言ってもそれが何なのかは知りすぎているくらい知っているのだけど、ついついそんな表現をしてしまったのは、同じような本が二つ並んでいたからだ。
そういえば、僕は死んだ僕が持っていた本を読んでいない。
気まぐれに、僕は本を手に取った。相変わらず分厚い。読者をして意欲を失わせるビジュアルである。
本を開いて、ページを繰る。
最初の方には、やはり同じようなことが書かれてあった。僕の生い立ちや基本的性質についてご丁寧に解説してある。
ところが明らかに見たことのない一文が現れたのは、小学校時代を振り返り始めたところだった。
『私はきっと、その女の子を好きであったように思う』
おかしい。高校生の僕は、小学生の頃の初恋なんて憶えていない。
妙な胸騒ぎを覚えて、僕は先を急いだ。
『彼女は名前を浮舟といって、とても気弱で、しかしプライドの高い少女であった』
浮舟?
こっちの僕は小学生の頃、すでに浮舟と出会っていたのか?
それにしても風変わりな描写である。気弱でプライドが高いなんて、水と油を拷じて混ぜ合わせたような人格が本当に存在するものだろうか。僕の知っている浮舟は、ただ気弱で優しい女の子だというのに。
それからしばらくは、彼がどんなふうに、彼女のどんなところを好きだったのかが記されていた。男の片想いとは醜いものであると改めて感じる。
『私もいよいよ往生際が悪いというか、度胸がないというか、不甲斐ない男であると思う。私は、私のくだらない意気地なしの所為で、終ぞ彼女に想いを打ち明けられずにいた。その事態は彼女の引っ越しが決まってもなお、膠着状態に留まっていた』
引っ越し。
そうだ、そういえば彼女は引っ越したのだと言っていた。小学二年生の頃のことだったはずだ。その後、高校入学を機に戻ってきたのだ。
『「行かないで」と、たったその一言が言えぬのだ。好きだと伝えるどころか、私は、彼女に対して寂しさを仄めかすことさえできなかった。本当に意地汚いプライドを持っていたのは彼女ではなく、他でもないこの私だった』
はて、僕はそんな人間だったろうか。確かに幼い頃には背伸びをしていたように思うけれど、そんなに傲慢な人間だったろうか。度胸は、まあ確かになかったかもしれないが、自分の気持ちを封じ込めておけるような人間だっただろうか。
『或る冬の日、予告通り彼女はいなくなった』
僕は──。
『そして、私が彼女と会うことは、二度と無かった』
──なんだ、これ。
どうして忘れていたんだろう。
どうして忘れていられたんだろう。
ふっと、夏夕べの匂いがする。
まるで死者を葬る白花のような勿忘草に囲まれて、ブランコに腰掛けた彼女。
慰めていたつもりが、突然泣き出してしまって。僕はうんうん唸って思案に暮れて、たった一言、身も蓋もないような言葉を彼女にあげた。
みぃつけた!
その言葉で、また彼女を泣かせてしまって。僕が意地悪をしているみたいだった。
それからというもの、彼女は僕を慕ってくれた。クラスが違っていた僕のことを、気弱な彼女はいつも校門のそばで待ってくれた。昇降口を出たらすぐに気づいていたはずの僕は、けれども彼女に意地悪をしたくて、気づかない振りなんてしたり。
それでも、彼女は僕を引き止めてくれて、一緒に帰ろうって言ってくれて。
威張ることで地位を保っていた僕にとって、彼女は不思議な存在だった。他の皆みたいに見えない力に従っているようには到底見えなくて、きっと、本当に僕をただ純粋に慕ってくれているのだろうということが判った。判ってしまった。
判ったら、僕はますます意地悪になった。要らぬ僕の傲慢を、彼女に刷り込み、植え付けた。
彼女が僕以外の何かに染められることが堪らなく嫌で、できることならいつだって僕の目の届くところに居てほしくて。
もういっそ、壊してしまいたいとさえ感じたこともあったように思う。
それくらい、そうだ、それくらいに。
僕は、彼女が大好きだった。
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