かくれんぼ

 僕がその女の子に出会ったのは小学二年生の頃、まだ九の段が上手に暗唱できなかった頃だった。

 その頃から勉強は得意じゃなかったけれども、周りの大人が褒めてくれるので──そんなことに気を良くしていたので、僕は今よりずっと勤勉だった。

 九の段が言えなければ居残りで練習させられると知った僕は、放課後、いつもの通りに学校で宿題を済ませると、誰にも見つからないように九九の暗唱をしていた。居残りを食らうなんてことは恥ずかしいというよりも、なんだかイケナイことであるような気がしていた。

 しばらくして下校時刻となった。

 僕はランドセルを背負って日暮れた校舎を後にする。

 クイチガク、クニジュウハチ、クサン…。

 ぶつぶつ言いながら靴を履き替えて、外に出る。ふっと、消えかけた夏が夕風に混じって、西陽と一緒に僕を包んだ。穏やかな冷たさを孕んだ、しかし未だ暑い空気であった。

 綺麗な夏夕べだった。

 子供ながらに、何かが終わることの切なさみたいなものを感じていたのを、今でも覚えている。

「もーいーかい」

「まぁだだよ」

 下校時刻になっても、校庭の何処かではかくれんぼが続けられているらしかった。僕には探すべき人もなかったので、ひとり校門へと歩き、家路につく。

 ありふれた住宅街を抜け、公園の前を通り過ぎる。

 僕が彼女を初めて観測したのは、まさにその瞬間だった。

 彼女はブランコに腰掛けて、両の手で二本の錆びた鎖を辛うじて捕らえていた。ほとんど揺れていないにも関わらず、彼女を支える金具がキィと鳴ったのが、可笑しいくらいセンチメンタルな印象を与える。

 何が僕を駆り立てたのか、今となっては見当つかない。

 ただ、彼女の発する何かが強烈に僕を引き止めて、それで僕は、呆気なく足を止めてしまった。

 そう表現する他に当時の僕を描写する方法を思いつけない。

 だが少しでも客観的で理性的な表現を試みるとするならば、それは驚きという言葉に近しいものに成るのだろう。

 理由は二つある。

 まず第一に、少女が泣いていたこと──その泣き方が、同い年とみえる子供のそれとは性質を異にしていて、明らかに草臥れていたこと。それを見ておきながら放っておくのはひどく暴力的なことであるように感じられたのだった。

 第二に、少女の足もとにだけ、淡青色の小さな花が群れ咲いていたこと。ブランコの後ろにはフェンスが立ち、頭上には青々と茂った木の枝が伸びているために、彼女の足もとには既に薄い宵闇が迫っていた。にも関わらず、僕が立っていた公園の入り口からも花弁が確認できるくらい、その花々は判然と在った。うすく燐光を纏っているようにもみえる。

 少女はこちらに気づかない。視線を落とし、どこでもない何処かを見つめるばかりである。

 僕は公園に足を踏み入れた。

 落ち葉を踏んだわけでも石ころを蹴飛ばしたわけでもない。だから何らの際立つ音も鳴らなかったはずなのだけれど、いったい何を彼女は察したのか、おもむろに顔をあげると僕を見た。涙までもがほんのりと光って見えたのは、流石に幻覚だったのかもしれない。

 気づかれたことを気まずく思わないでもなかったけれど、意を決して歩み寄る。

 僕が目の前までやってきた時、ようやく彼女は声を発した。ひどく掠れた声だった。

「…だぁれ?」

 僕はとびきりキザな笑みを引っ張り出して顔に貼り付けた。実際にどんな顔をしていたのかは、もちろん彼女しか知らないのだけれども。

「正義のヒーローさ。どうして泣いているんだい?」

「…」

「話したくない?」

 てっきり不貞腐れて黙っているものだとばかり思っていたのだけど、彼女の表情には、よくよく観察してみると違和感があった──吃驚しているのである。明らかに。

 それを察せども、しかし、彼女がいったい何に驚いているのか、さっぱり判らなかった。

 僕はちょっと困ってしまって、彼女の顔をじっと見つめた。

 ややあって、彼女はポツリと呟く。

「あなた、私が見えるの?」

 今度は僕が面食らった。

 突飛すぎて噴き出してしまったくらいだった。

 僕は笑いを堪えながら、彼女の顔を覗き込む。

「見えるとも。ここにいるじゃないか」

 僕は至って普通のことを言ったまでで、それは当然に受け容れられるべきだと思っていた。

 けれども期待は外れて、彼女の表情は目まぐるしく変化した。簡単には意図が汲み取れないくらい、大人顔負けに複雑怪奇に。

 驚愕、悲哀、絶望、怒り、安堵、そうしてまた悲哀。

 何とも子供らしく、情緒豊かに顔色を変えてみせた。

 最後に、彼女はぷぅっとほっぺを膨らませて、何かを我慢しているような顔をした。怒っている様子はない。込み上げてくる強烈な何かを堪えているような表情である。

 風船よりも急速に膨らんだ顰めっ面は、呆気なく弾ける。

 起爆のスイッチは頬を滑り落ちた涙だった。

 僕は息を呑んだ。

 彼女はワッと泣き始めた。

 ちゃんと子供らしく大声で泣き喚いた。

 そんな彼女から事情を聞き出すまでに半刻ほど掛かったことは、誰の想像にも難くないであろう。

 僕は隣に座ってじっと待ちながら、泣き声に混ざって聞こえてくる断片的な情報を拾い集めていった。

 それによれば、どうやら彼女はかくれんぼの最中に忘れ去られて、気づけば独り取り残されていたらしい。それで、慌てて皆を追いかけた。

 当然、彼女はむっつり膨れて怒鳴った。どういうつもりだと問い質した。

 けれども誰一人として、彼女の声に振り向かなかったのだという。不気味なほど、徹底した無視だったそうだ。まるで彼女が見えていないと言わんばかりの。

 事のあらましは思いの外シンプルで、僕は現場をありありと想像することができた。時に子供の悪意は大人のそれよりも純粋で強烈であると知っていたから、大して驚きもしなかった。

 しかしながら不器用な僕が彼女を慰めることだけは、大変困難であるように思われたのだった。

 ひとしきり事情を話しても、彼女は未だ泣きじゃくっていた。

 参ったなあ。

 僕は考えた。考えに考え抜いた。

 よし。

 ブランコから立ち上がる。キィっと、鎖が鳴る。

 僕は少女の両肩を掴んだ。

 彼女の体が小さく跳ねる。

 僕は大きく息を吸い込んだ。

 彼女が顔をあげる。

 目と目が合う。

 風が吹いて、青い燐光は宙を舞う。

 僕は口を開いた。満面の笑顔で。

「みぃつけた!」

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