少年よ、マジになれ

 どのような思想にも起源というものがあって、それはいかなる天才であっても、またはいかなる阿呆であっても変わらぬものである。目に見えぬ粒子の振る舞いであろうが惑星の軌道であろうが、それを考え始めたきっかけがあり、思考にはなにかしらの経路がある。

 ならば当然、僕のくだらない考え方にだって起源と発展がある。

 この世の全部が面倒だと僕が感じるようになったのは、中学生の頃である。

 意外にも、僕は活字が嫌いではなかった。それゆえ、小さな頃から読書は嫌いじゃなかった。僕は物語を愛していた──なんて言ったら大袈裟だけれども、まんざらまったく嘘でもない。自分をこの小さな世界から連れ出してくれる物語たちが、僕は大好きだった。

 両親を含めた周囲の大人たちは読書家の僕を賢い子だと褒めた。浅はかな僕は彼らの言葉を真に受け、なんだか自分がひどく優れた人間であるような気がしていた。

 今にして思えば、背伸びをしていたのだと思う。本が好きだったのは本当だが、僕が読むのは物語ばかりで、勉強の本なんてちっとも読まなかったから、子供ながらに自分がそんなにエラいわけではないと解っていたはずである。そんなことをも都合よく棚に上げられるのが子供の美徳であり、特権なのだと思う今でも僕は未だ子供なのだけれど、そう思えるぶんだけ少しは大人になれたのだろうか。

 幼い子供というのは、どうしてあれほど大人に憧れるのだろう。

 謎である。

 さておき、この子供らしい傲慢が僕に何をもたらしたのか。

 多くの大人にも経験があるのではないかと思う。

 そう、中二病だ。

 これは非常に厄介な病であって、恋と同じく人生の風邪だと言っていい。高校生も青い春という名の万能感などの症状を伴う風邪をひくらしいのだが、どっこい僕は健康体なので解らない。

 しかし、ああ、中二病!

 思い出すと寒気がするので、僕が罹患した際の具体的な症状は語らない。さすがの僕も、それは言えない。

 けれども幸いなことに、僕の病はあまり長続きしなかった。人から外れていることをなんとなくカッコイイと思ってしまう痛々しい時期は、ほんの半年くらいだった。

 ん、半年って短いのか?

 まあいい。

 ありとあらゆる妄想に塗りつぶされた日々のなかで、しかし僕の生活は変わらなかった。頭の中でドラゴンが飛んだって、現実の空にはトンビがくるくる旋回しているくらいのことで、僕には何らの主人公性も与えられなかった。

 ちょうどこの頃、声変わりが始まって、僕の声は次第に低くなっていた。

 そんな日々からの目覚めは、本当になんでもないような日だった。それはそれは唐突で、ある朝起きたら、あらゆる痛々しい妄想はきちんと物語の中へ帰っていた。それらが日常の領域を侵すことは、二度となかった。

 忘れることもできない、不思議な感触であった。僕はベッドの上に座り込んだまま身じろぎ一つできずに、ただぼうっと、掌をじいっと見下ろしていた。いまでもハッキリと憶えている。

 八月下旬の夕凪みたいな匂いがしていた。

 そうしてひとつ大人になった僕に残ったのは、変態的な怠惰だった。無気力といった方がいいかもしれない。

 自分が外れているという妄想は、普通であるということの何たるかを僕に教えたのだ。人の一生は、概ね繰り返しでできていた。平日と休日の連鎖。たまらなく退屈な、均質な時間の連続。

 それが人生の正体であるということに、気がついてしまったのだった。

 それ以来、僕は何をやる気もしない。

 いろいろなことをスキップするようになった。

 人の話を聞くのも面倒で、大抵聞き流していた。友達付き合いも必要最低限にして、だらだらと日々を過ごすようになった。

 時計の針が見えなくなるような錯覚を起こしている。

 そんな毎日すら日常と呼び習わされることを、僕は知っていた。

 知っていて、甘んじていた。

 思うのだ。

 人生には、人生以上の何物も与えられていない。

 そして僕には、人生上で起こり得るありとあらゆることがつまらない。なんだって、起こりそうなことだからだ。起きて、学んで、食って、寝て、大人になったら日銭を稼いで、結婚して、子供ができて、そのうち死んでいく。

 なんてつまらないのだろう。

 相手を食べてしまいたいと思えるような恋も、磔の身代わりになってくれる親友も、身一つで空を飛ぶ魔法も、きっと僕には用意されていない。

 いつか死んでしまうのを待っているみたいで、ただただ面倒だ。

 そう思っていた。

 だから『空転の切望と嘆き』が届いた日、本当は、震えるほど興奮していた。何かが起こる気がしていた。

 そして実際に起こった。

 今度は本気で死んでやろうかと思った。


 朝から降っていた雨も、昼過ぎにはすっかり上がった。

 暗澹たる気分で今日という日をやり過ごし、僕は帰路についた──のだけど、隣で喧しいのが喋り続けているために、気分は一向に落ち着かなかった。

「お前なあ、浮舟さんに何を吹き込んだんだ?」

「だから何度も言ってるだろ。下着泥棒の不思議についてだ」

「どうしてそれが、彼女に春をひさがせることになるんだよ」

「落ち着け。彼女はそんなこと言ってないんだろう、どうせ」

「言ったも同然だ!」

 僕らは階段を降りて靴を履き替え、駅までの道をだらだらと歩いていた。相変わらず喧しい男である。誰とでも上手くやれる陽キャのくせに、へんなところがピュアっピュアで困る。

 左隣で息巻く彼の言うには浮舟が僕を励まそうとして、淫らな手段をも辞さない心算を見せているらしい。まったくこいつは、彼女という人間を解っていないのだ。

「お前は浮舟を見誤ってる。彼女はお前が思うほど純粋無垢で清廉潔白な乙女じゃない」

「嘘を申すな」

「本当だよ。彼女は知的好奇心旺盛で、それゆえに何だって受け容れてしまえる。僕が相手でも平気な顔してられるくらいだからな」

「やっぱりお前のせいじゃねえか!」

「どうどう。とにかく、浮舟は素朴な興味と合理的な推論からそんなことを言ったわけであって、別にお前を惑わそうとしたわけじゃない。ましてやお前に気があるわけではないんだ。だからちょっと落ち着け童貞野郎」

「お前もだろ!だいたいな、いつ俺が浮舟さんのことを好きだと言った」

 まさに今である。バレバレなんだよ。

 僕は大きく息を吸って、吐いた。

 午後四時過ぎ、歩道には明るい西陽が射して、街路樹の影が落ちている。歩道を行き交う人々はどこか疲れた顔して物憂げに歩いていた。僕は徒歩で、彼は電車で通学しているが、家が駅の方向にあるために僕は通学路のほとんどを彼と同じうしていた。もっとも、一緒に登下校することはほとんどない。彼は早起きすぎるし、放課後には人気者すぎる。

 やがて駅付近の交差点に到着した。

 僕らはここで別れることになる。彼は今一度、恨めしそうに僕を睨んだ。喋るのが億劫で、僕は軽く片手を挙げただけだった。


 浮舟ほたるという少女、それから伊藤春樹という少年と出会ったのは、高校の教室だった。

 中学生の頃、僕は付かず離れずの軽薄な人間関係を構築していた。それゆえ胸を張って友人とは呼べぬが、まあ必要があればそう呼ぶこともできるくらいの人間は居た。しかしながら高校進学に伴って離れ離れになり、面倒だからと僕が甘んじていた麩菓子よりも軽くて脆い絆は物理的距離によっていとも簡単に一刀両断、卒業式以来、連絡を取ることすら無くなってしまったのだった。

 別に悲しくは思わなかった。そんなこともどうでもよかった。

 ただ、一つだけ問題があった。

 これでは「はーい二人組つくってー」の時に、僕が困ってしまうではないか。友達が欲しいとは思わないが、友達がいるということを正常と信じて疑わないのが世間なのである。入学早々に異端者扱いされるのは誰かとつるんでいるよりも面倒くさそうだし、ともなれば孤高を貫く方が、人間関係の再構築よりも骨が折れそうだと考えた。

 新しい友達をつくるに際して、最も面倒だと感じたのは人選だった。むろん気の合う相手が望ましいが、それを調べるために繊細微妙な駆け引き遣り取りに神経を痛めるのはまっぴら御免である。しかし、へんなヤツを仲間にしても意味がない。ある程度は話の解るヤツでないと、ストレスで僕が憤死しかねない。

 この問題は初登校の間じゅう僕の頭を悩ませた。

 学校の前には桜並木が続いていて、薄桃色の柔い花弁がひらりはらはら滑り落ちている。僕はぼんやりと梢を仰ぎ見ながら、真新しい制服姿の少年少女らの群れへ混ざっていく。眠気を誘う春の陽は、入学式の日だというのに僕に何を感じさせるでもなく、ただそこらじゅうに浮かんで在った。

 眠いなあ。

 そう思いながら校門に辿り着いた時、僕の脳裏に閃光が瞬く。

 クラスという人間集団の中から、無作為に二人選んでしまおう。

 つまりはこういうことだ。

 なんらの事前情報もないままに友人を選ぶ時、僕が変人を選んでしまう確率は一定であって、彼らが座っている位置とか風貌の美醜とか背の高さ、あるいは性別などに依らない。陰キャである僕の場合、類が友を呼んでしまうと実にまずいことになるが、あんなものは科学を知らぬ阿呆な運命論者の戯言に過ぎぬ。なにせエントロピーは増大するものなのだ。似たもの同士がきっちり集まるはずはない。したがって、僕はクラスメイトから無作為に一人、いや保険をかけて二人選び出せばよい。実に合理的だ。

 あれ、無作為ってなんだっけとか思いながらも、僕は出席番号が近い者を二人選ぶことにした。すなわち、苗字の頭文字がア行の誰かを選んだ。

 結論から言って、類は友を呼びまくっていた。僕が立てた仮説が間違っていたのか、あるいは僕が奇跡的に確率の揺らぎを引き当ててしまったのかは判らない。試行回数がたった二回ではサイコロの目だって平等な結果を与えないかもしれないと気づいたのは随分あとになってからだった。

 僕が選んでしまった二人のお変人。一方の少女は高飛車であって、自分ほど優れた人間は地上広しと言えども稀有だと盲信しているらしかった。そうして他方の少年は陽キャの皮を被りながら、自らの人生を関数に喩え、特殊な儀式によって一日の行動を決定してしまう猛者であった。

 そして僕は、息をするのも面倒なお変人というわけだ。

 神も仏もないのかもしれない。


 春樹と別れてから、僕はふらふら街を彷徨った。なんだか素直に帰る気になれなかったのだ。基本的に用がなければ家を出ない僕にしては、非常に珍しいことだった。

 問題はつまり、僕の人生がまったくもって無益で平凡で無味乾燥なものであったということだ。そしてその根源はいったい何処に存在するのか。それはたぶん、現在の僕自身である。先に立たないはずの後悔が立ってしまったわけだ。

 あの本を鵜呑みにしたといえば、笑われてしまうだろうか。

 しかし僕は、どうしても、あれに書かれてあったことを戯言だと切り捨てることができなかった。千に近い紙面を費やして綴られた僕の赤裸々な生涯には、確かに奇妙なリアリティがあった。最終章において正体不明のストーリーテラー──順当に考えれば未来の僕自身──は生涯に亘って愛しも愛されもしなかったと断言し、自嘲した。

『いったい私は、どうすれば満たされたのだろうか。今となっては見当つかないが、一生涯に亘って私が心から充足することは無かったという結果だけが、なんとなく真実らしい。

 不感症である。

 現実には想像の及ぶことしか起こらぬ。私には、それがひどく退屈であったのだ。

 この思想が人間の否定そのものであると気づいたところで、もう今更、どうすることも出来ない』

 僕は寝食を忘れて本を読み、読了と同時に眠った。色々と限界だった。

 大ダメージである。

 眠っている間には奇妙な夢を見た。僕は浮舟や春樹に見捨てられ、汚く年老いて、道端に二日酔いのゲロをぶちまけた。泣きながら見上げた月は真ん丸に満ちていて、冷ややかな光を放っている。そして終いに、僕は首をくくった。その息苦しさで跳ね起きて、ベッドの上でガチ泣きした。

 死ぬしかないのだと思った。

 スマホ片手に、僕は自殺方法について思案した。そうして気づいたことには、自殺はどれも痛そうで苦しそうだった。生きていて実感することはないが、考えてみれば生き物というのは死なないようにできているのだから、これは当たり前のことだ。肉体的な痛みや欲求に正直すぎる僕にとって、あらゆる自殺の方法は神様が裸足で逃げ出すレベルの何かにみえた。

 じゃあどうしろって言うんだ。

 憎い、この世の全部がとにかく憎い。

 独り呻吟し、のたうち回ってみても一向に何も浮かばない。やがて僕は、苦し紛れにワケの解らない理屈を捻り出した。いわゆる神の裁きである。僕の怠惰があまりに酷いから、さすがの神様もブチギレて僕に天罰を下したのではなかろうかと。

 罰を免れるためには罪を雪がねばならぬ。これは常識である。現代社会においても刑罰と対をなすのは犯罪だ。

 僕の罪が怠惰だというのなら、その罪は勤勉な生活によって贖われるべきだろう。そうに違いない。

 そんなわけで僕は慣れない早起きをして、意識がはっきりしないまま濡れ鼠になり、朝から自習に励んで浮舟を吃驚仰天させたのであった。

 宛てもないままに歩き続け、気づけば午後五時が迫っている。


 気まぐれに立ち寄ったコンビニでアイスコーヒーを買い、それをすすりながら夕焼けに染まる街を歩いた。あれこれと店が立ち並ぶ大通りには放課後の学生たちがうろちょろしていて、三者三様に遊び呆けていた。

 ため息と一緒に空のカップをゴミ箱へ放り込む。

 人間の営みを感じさせる騒がしさに疲れた僕は、ふらりと路地へ入り、それが通じる先も知らずに進んだ。空き缶やら朽ちたビラやら、ありふれた漂流物が風に吹かれて滑っていく。昼間の暑さも落ち着いて、辺りは涼しかった。

 細い道は得体の知れないビルや倉庫に挟まれて、どこまでも続いていた。見上げれば何かのコオドが窓から窓へ引き込まれ、錆びた鉄柵のベランダが夕闇に浮かび上がるようにして見える。灯りのある窓からは話し声が聞こえ、それは笑い声だったり、時には強烈に言い争っているような声だったりした。途中でいくつも分岐があったが、僕はずっと右向きの道を選び続けた。それでも同じところに戻ったり、大通りに出たりすることはなかった。

 やがて、五メートル四方程度のがらりと空いた場所に出た。相変わらず古びた建物に囲まれていて、ところどころコンクリートがひび割れ、そこから雑草が伸びている。錆びた自転車や空き缶が無造作に捨てられており、正面の建物は朽ちた倉庫のような佇まいだった。

 倉庫は二階建てらしく、一階の閉ざされたシャッターの脇に階段があった。これまた好き放題に錆びついて、手摺りに触れると赤錆がポロポロ落ちるような有様だった。試みに足を踏み出すと、階段は辛うじて機能しているらしいことが判った。カンカン、上ってみる。目前の引き戸に埋め込まれた磨りガラスから白い灯りが漏れ出ている。何かが書かれてあったのだろう壁の札は読めなかったけれど、それとは対照的に不自然なくらい新しい鉢植えが一つあって、淡青色の小さな花を溢れんばかりに群れ咲かせていた。

 我ながら何を思ってか、僕はノックも無しに引き戸を開けた。


 科学者は猫を抱いている。

 僕はシュレディンガーの猫という解りもしない思考実験の名前ばかりを思い出しながら、きょとんとこちらを眺める三十男と目を合わせた。僕が彼を科学者だと判じられたのは、彼がワイシャツの上に草臥れた白衣を羽織って、眼鏡をかけていたからだ。医者という可能性も捨てきれないが、机上のガスバーナーと伸びた無精髭が僕に確信させる。彼は科学者である。

 不思議なにらめっこに興じた後、彼は口の端を無理やり持ち上げたような笑顔になった。

「これはこれは、若いお客さんとは珍しい」

 彼は机に腰掛けたままで、膝の上の白猫を撫でた。猫は仏のような表情で目を瞑ったまま「うにゃっ」と唸る。自分でもワケが解らないまま、僕は小さく目礼した。

「何か用か?」

「いえ、散歩の途中で通りかかっただけです」

「そうかい。まあ、ゆっくりしていくといい」

 そう言ったものの、彼は猫を抱いたままで椅子を勧めようともしなかった。仕方なく机上で逆立ちしていた椅子を勝手に下ろし、彼の隣に腰掛けた。それから改めて、部屋を見回してみる。

 ああ、理科室だ。

 向かいの壁にはガラス戸のついた大きな棚が置いてあって、大小様々でカラフルな瓶が所狭しと並んでいた。棚の最下段には、細長いガラスのついた実験器具や顕微鏡、ビーカーや試験管といったものが乱雑に収納してある。入り口の反対側には上下にスライドできる黒板があって、よく解らない数式や英文が書き殴られていた。彼が座っているのを含めて四つ並んだ黒い長机には丸椅子がもれなく逆さに載っけてあって、机と机の間には銀ピカのシンクが埋まっている。どこからともなくガスバーナーが机上に這い出て、今も試験管を温めている。壁に並んだ磨りガラスが夕陽を透して、丸椅子の細長い影を落としていた。

「当ててやろう、さては女にフラれたな」

 しばらく黙っていた彼だが、出し抜けにそんなことを言った。僕がかぶりを振ると、怪訝な顔して僕を見下ろす。

「じゃあ、死に場所を探してたとか?」

「あたらずも遠からずですね。神の赦しを探していたんです」

「十分遠いだろ、そりゃあ」彼は体を揺すって笑った。その拍子に猫が目を覚ましたらしく、憮然とした表情で床へ飛び降りた。それで、というわけでもないだろうけど、ようやく彼は立ち上がった。

「ま、ここで会ったのも何かの縁だ。コーヒーをご馳走してあげよう」

 そう言って、彼は汚れたシンクに向かった。蛇口を捻ってビーカーに水を汲み、粛々と熱されていた試験管をどけてしまって、そこに小さな三脚を立てた。当然の帰結として彼はビーカーを火にかけるわけだが、僕は思わず眉をひそめた。

「それが理系コーヒーってやつですか?」

「そうだ」彼はしたり顔で頷いてみせる。「言っとくがガチの実験室でこんなことをやるのは、理系として一番ダメだ。危険過ぎる」

「ここならいいんですか?」

「俺の実験室だからな。俺が許せば何でもいいのさ」

「あの、そのビーカー新品ですよね?」

「なぁに大丈夫だ、安心しろ。昨日はこいつでビールを飲んだが、俺は生きてる」

 科学者じゃなくてただの阿呆ではなかろうか。

 沸騰するのを、僕らは黙って待った。その間に彼は棚からあれこれと道具を取り出してきたけれど、どれ一つとして一般的なものではなかった。ガチャガチャと道具を組み合わせ、やがて湯が沸くと、彼は器用にコーヒーを淹れてみせる。コーヒーであるということに偽りはないらしく、彼が湯を注ぐにつれて深い香りが部屋じゅうに漂い、僕の鼻腔を擽った。

 先刻さっきアイスコーヒーを飲んだばかりで、しかもこの暑い時期にホットコーヒーなんて──そう思っていたはずなのだけど、ドリッパー代わりの漏斗から放たれる芳香を吸い込んでいるうちに、不思議なくらい喉が乾いてきた。

「あい、おまちどう」

 その言葉とともに出されたのは、意外にもマグカップに入った真面なコーヒーだった。最初からそうしとけよ。

 彼は自分のぶんを淹れなかったらしいが、部屋の片隅で唸っていた小さな冷蔵庫を覗き込むと、透明な液体で満たされた三角フラスコを出してきた。よく冷えているらしく、すぐに水滴がつき始める。再び机に腰掛けると、彼は何の躊躇もなく直接口をつけた。

「ずいぶんエキセントリックですね」

「だろー?ちなみに中身はただの酒だ。安心し給え」

「中身の問題じゃないです」

「そうか?それ以外なんてどうでもいいことだろ」

 にべもなく、彼はキッパリと言い切る。そんなことを言われても、三角フラスコに入った透明な液体は毒にしかみえないのだった。服毒自殺ってこんな感じなのかもしれない。

 ふと思いつく。

「アルコールで自殺って、できますか?」

「できないこともない。どうして訊く?」

「や、死ぬのもアリかなと思いまして」

「お前重症だな」

 僕は恐る恐るコーヒーを啜った。味も真面である。

「美味いだろ」

「意外と」

「そういうことだ」

「へ?」

「ワケの解らんやり方で淹れたコーヒーが、意外と美味かったりする。人生には、そういう不確実性がつきものなんだ」

「ここって心の窓口だったんですか?」

「お前がバカまじめなこと言うからだろ」

 三角フラスコを呷ってから、彼は細長く息を吐いた。そうして、ぶっきらぼうに「何があったんだ?」と訊ねるので、僕は事のあらましを語った。一番に疑われて然るべきだと思った『空転の切望と嘆き』について、何故だか彼は一言の疑問も口にしなかった。

 フンフン頷きながら僕の話を聞いて、彼はのったりと立ち上がった。すでに酔っているのか、よろめきながら黒板のほうへ歩いていく。そして白衣を翻し、黒板にもたれかかった。

「量子力学というのを知っているか?」

 藪から棒とはまさにこのこと、阿呆の僕にそんなものが解るはずもなかった。「知らない」と答えると、彼は「素直でよろしい」と言って黒板に向かい、白いチョークで何やら難しそうな方程式を書き殴った。

「簡単に言えば、めちゃくちゃ小っちゃいものがどんなに振る舞うか、それを語るのが量子力学だ」言いながら、彼は黒板をノックするみたいにして叩いた。まるで学校の先生だ。

 しかし、なんだあれは。分数みたいなのがあって、しかもへんなところに指数が書いてあるし、刺又みたいなギリシャ文字が関数を表しているし。それだけで僕はゲンナリした。

「やめてくださいよ、加減乗除以上は解らないんですから」

「高校大丈夫なのか、お前」

「ぜんぶ加減乗除に還元して考えてるんで大丈夫です。微分は引き算の割り算で、積分は掛け算の足し算でしょ?」

「馬鹿なんだか賢いんだか判らんヤツだな」

 呆れ顔で言った彼だが、「まあいいや」と呟く。

「それ自体はどうでもいいんだ。こういう学問をだな、あれこれと突きつめていくと、やがて不確定性原理だとか多世界解釈だとかに行き着く。要するに物事の全部を正確に知るのは難しいということが判ってくる」

「へぇ」

「学問的な正確さは全部忘れて、今、俺がお前に教えてやりたいのはな、つまり、お前が見ているのは世界の一側面でしかないということなんだよ」

 僕は欠伸を噛み殺した。なんとつまらんことを言う男だろう。そんな説法で僕が救われると思っているのか。

「まあそう言うな」

「あれ、声に出てました?」

「顔だよ」

「すみません、なんか眠くて」

「死ぬ気あるのか?」

「なくもないです」

 僕が机に突っ伏すと、彼はくすくす笑った。

「面白いヤツだな」

 褒められるのは嫌いじゃないからもっと褒めてほしい。そんなことで、僕は少し気を良くした。しゃーない、聞いてやるかぁ。

 また欠伸が漏れる。

「ぁぁ…どうぞ気にせず続けてください」

「よし、それでな、いきなり俺の話に移るんだが、実は、俺には恋人というもののいたことが無い」

「はあ」

「一度きり、人を好きになったことがあった、ような気がする。けれど、俺には恋の意味が解らなかった。当時の俺は、物質的なことにしか興味を抱けなかった。エロいことは考えるが、誰かと恋仲になりたいとは思わなかったワケだ」

「ふんふん」コーヒーを啜る。「それで?」

「俺は科学を信奉していた。そうして、意味のない事が大嫌いだった。友達付き合いも面倒で無意味なものに感じられて、ずっと怠っていた」

 それは、つまり、

「要は陰キャだったワケですね。僕と同じ」

「そうだ。そうやって俺の人生は問題なく発展してきた。だがな、三十を目前にしたとき、ふと思った。なんとまあ、空疎な人生だったことだろうと」

「空疎?」

「つまりな、俺は今まで、世界というのが絶対的に存在して、自分の認識は完全にそれを捉えていると信じていた。自分の目に見えるものを全てだと思い込んで、自分の感性が届かないあらゆるものを唾棄してきた。哲学の話をしているんじゃない、もっと単純なことだ」

「解りやすく言ってください」

「人間の意識において、言葉が先にあるのか世界が先にあるのか、俺は知らない。でもな、世界というのは、実は曖昧に存在しているだけなんだ。そこに在るだけで、何かしらの意味を個人に提供しているわけではない。良いも悪いもない。その形を決めるのは、お前なんだよ」

 彼は大きくフラスコを呷ると、遠い何処かを眺めた。

「様々に偏向された世界の観測結果が心によって評価されるとき、初めてそれが人生の形をとる。俺の人生に何も用意されていなかったワケじゃない。俺が、何も受容しなかっただけだ」

「一言で言ってください。僕バカなんで」

「お前なあ…」彼は苦笑した。

 それから無精髭をジョリジョリやって、一息にフラスコを空けた。どんな酒だか知らないけど、あんな勢いで飲んでたらすぐに酔ってしまうんじゃないだろうか。

 やがて彼は少し充血した目で僕を見て、初めて、年相応の大人らしい表情を見せる。

「つまらないのは、お前か世界か」

 心臓が妙に高鳴ったのが判った。

 その問は、あるいは僕が長いあいだ目を逸らし続けていた何かだったのかもしれない。

 彼の曖昧模糊で難解な説法が──散り散りの欠片のようなものが、音を立てて一つになっていくのを感じる。

 息が詰まった。

 自らの感性が届くものが、全てではない。

 この世界の具体的な形を決めるのは、自分自身である。

 つまらないのは、お前か世界か。

 夏夕べの懐かしい匂いがする。なぜだか僕は、遠い遠い子供の頃を思い出していた。かくれんぼの最中に忘れられて泣いていた、もう名前も顔も思い出せない女の子のことを。

 僕は何か、とても大切なことを忘れているような気がする。

 彼はじっと僕を見ていた。まるで、大昔から知り合っていた友人のような、全部解っているとでも言いたげな眼差しで。

「ボーイズ、ビィ、シィリアス」

 彼は流暢な発音でそう言った。

 カップの底で、コーヒーはずいぶん冷めていた。

 いつの間にやら陽は沈み、窓越しに見える空は藍色に近づいていた。時刻は午後六時をまわろうとしている。











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