花咲く高嶺の浮舟

 選民思想というものを、私は心根から馬鹿にしています。

 だってあれは大仰で一方通行で、そのくせに見返りを信じて疑わない、狂気じみた信仰ですもの。もちろん、すべての信仰が左様な性質を孕んでいることくらい、非凡なる頭脳を持った私は知っています。しかし『私は神に選ばれている』などと信じることは、『選民を前提としなければ私などは救われない』という恐れの裏返しなのではないでしょうか。相対的に劣っているかもしれない自分自身を見出すが故に、自身のみにとって絶対的であるはずの神を創り上げたいだけ。神の正しさを笠に着ていながら、その陰では自分自身に疑問を抱いている。

 自信だか使命感だか知りませんが、『神に選ばれている』などと信じられるくらいに人として芯をお持ちなのは大いに結構です。むしろ私は、そういう人を好ましく思います。

 だから私が批判したいのは、選民思想がもたらす生臭い優越感でも、宗教において果たした役割でもありません。誤解なさらぬように。私はこれでも人並みに神様を信じているつもりでいますので。

 ──だから、違うのよ。順番が。

『選ばれている』んじゃなくて、私が『選ばせてやっている』んです。

 地上広しと言えども、私ほど技量才覚に優れて可憐な花にも見紛う少女は、私を除いて他に無いはずです。だから『選ばせてやって』いるんです。神の存在や寵愛を前提にした才覚を信じるなんて、そんな負け犬根性の染みついた人間には成りたくありません。私の美徳や存在価値は、神に先んじて存在します。それはそれは、間違いなく──ちょうど、世界より先に言葉が存在するように。


 起き抜けに見えた空は曇っていて、私が支度を終える頃には既に大号泣の様相を呈していました。月曜日の朝から憂鬱なことですが、へこたれているわけにもいきません。いかに優れた人間であっても、研鑽を忘れては盆暗ぼんくらに堕ちてしまいますからね。お母さんに「行ってきます」と告げて、私は家を出ました。

 あーあ、この大雨ではどうせ無駄だろうなあと思いながらも傘を斜めに水たまりを避け避け、昇降口に駆け込みます。幸い制服は軽傷で済みましたが靴下は助かりませんでした。まあ予想できていたことです。始業にはまだ早く、人けが無いのを好いことに私はその場で足を拭き、靴下を取り替えました。

 そうして濡れた靴下をビニール袋に突っ込んでいるとき、背中に誰かの足音を聞きました。必要もないかと思われましたが、気まぐれに私は振り返って──まさに我が目を疑いました。

 そこには、すっかり濡れ鼠な青井くんが立っていたのです。

 前髪から水を滴らせて一向に目を挙ごうとしない彼は、まるで制服を着た自殺志願者にみえます。いかに艶麗繊巧な淑女たる私でも、いささかの驚きを禁じ得ません。

「ちょ、ちょっとどうしたんですか!」

 私の声が鳴ってから、その残響も途絶える頃になってようやく、彼は私を認めたようでした。よろよろとこちらへ歩いて来ながら、今にも死にそうな声で「おはよう…」と囁きます。

 彼のデリカシー水準はヘドロ以下であって、いつもなら私が靴下を履き替えるのを見て「なんかエロいね」とか真顔で言ってくるはずなのに、今日は影も形もあったものではありません。というか、彼はいつも始業のチャイム限り限りに滑り込んでくるようなダメ人間ですので、私と同時刻に登校してくること自体が異常といえます。

「ずぶ濡れじゃないですか。いったい何が…」

「いや、なんでもないんだ」

「なんでもなくはないでしょう」

「ほんとだよ。ちょっと、解脱の方法について思案していただけで」

 会話の最中においても、彼は焦点の合わない目で何処か遠くを見つめていました。ただごとではなさそうですが、事情を聞こうにもこの様子では無理でしょう。

「よく解りませんけど、とりあえず拭いてください。風邪をひきますよ」

 こんなこともあろうかと、パーフェクトな私は予備のタオルを構えてありました。未使用のそれを渡してやると、思いのほか彼は素直に受け取って首筋に当てがおうとしましたが、不意にピタリと動きを止めます。

「おいおい、これは新品じゃないか。悪いから君の使いさしでいいよ。それがダメなら靴下の方でもいい」

「…あの、もしかして正気だったりするんじゃないですか?」

「なに言ってるの。僕はいつだって正気だよ」

「サイテーですね」

 なんだ、心配して損した──や、心配なんてしてないんですけどね、断じて、これは、劣等生である青井くんに対する、いわば女神の微笑みなんですから。私が彼にしてあげることの全ては、お釈迦様が蜘蛛の糸を垂らすことにも似ています。

 まったく、月曜の朝から手を焼かせるひと──。

「って、なんで泣いてるんですか?」

 彼はタオルを頭に載せたまま、静かに、雨雫とも泣いておられました。頬を伝う涙が細い顎から滴り落ちても、彼の目は何処を見つめているんだか判りません。

「浮舟」と彼は私を呼びました。

「はい」

「僕は、ダメ人間だろうか」

「疑うべくもありません」

「そうか。実はね、僕は罪深い人間だったんだよ」

「それも知っています」

「そうか…」

 頭をゴシゴシ拭きながら、彼は力なく笑って、私の顔を覗き込みました。なんだか距離が近いので平手を食らわせてやろうとも考えますが、その瞳があまりに哀しげだったので思いとどまります。

「いつもありがとう。これ、返すよ」

「あ、ちょっと。まだ濡れてるじゃないですか」

 拭くように促しますが彼は聞く耳をもたず、私にタオルを押しつけると、制服が濡れそぼったまま廊下のほうへと歩き去ってしまいました。


 吃驚仰天とは、こういうことを云うのでしょう。

 一階でお花を摘んでから教室へ向かうと、なんと、青井くんが自習しているのを発見してしまいました。これはきっと天変地異の前触れなんだわと思いながら、私は彼のほうへ歩いて行きました。私の席は、彼の前なのです。

 私が席に着いても彼は顔をあげませんでした。猥褻な減らず口も下らない冗談も飛んでこないのに些か奇妙な喪失感を幻覚しながら、鞄を机に引っ掛けます。そのまま教科書を取り出して、いつも通りに自習を始めました。

 教室には未だ私たちしかいなくて、しんと静まり返っていました。勉強には誂え向きですが、いかんせん背後から凍えるような冷たい澱が湧き上がっては降り積もるものですから、教科書の文字は私の目を滑るばかりで、ちっとも頭に入ってきません。

 逆格子ベクトルに関する記述を読んでいた時、とうとう私は痺れを切らし、振り返りました。静かな教室で私の気配を察しているはずなのに、彼はずっと俯いたままです。しばらく待ってみましたが、ページを繰るばかりで喋る気配はありません。

 何を学んでいるのかしら──そう思って、私は彼の視線を追います。

『ヘスの法則とは、化学反応において発生または吸収される熱量が…』

 見慣れた記述です。これは私たちが学校で使っている化学の教科書でした。傍にはもう一つ教科書が開いてあって、こちらには見覚えがありません。

『ミカエリスメンテンの式』『アロステリック酵素』

 はあ、よく解らないけど、生化学とかいうやつかしら。それにしてもへんな勉強法です。教科書を二つ並べて、同時に読んでいるような感じ。

「あのぅ…」

 私の声は自分でも意外なほど尻すぼみになりました。

 一呼吸おいて、虚な目をした彼がこちらを向きます。

「なんだい?」

「いったい、何があったんですか?ちょっと異常ですよ」

「…浮舟には関係のないことだよ」

「そう言わずに。助けてあげられるかもしれません」

「いいや、無理だね。君が神に選ばれし美少女だったとしても、今の僕を救うことはできない」

「そんなに、深刻なのですか?」

「放っておいてくれ」

 取りつく島もありません。

 困ったなぁ。これでは学習に支障をきたしてしまいます。それに安心して彼を蔑むことができません。見下されることのダメージを何処かへ霧散させられることが、彼の美徳なのでした。

「ああ、でも一つだけ」

 口をへの字にしていると、彼が呟きました。

 期待して首を傾げます。

「なんですか?」

「タンパク質ってなんだっけ?」

「──」

 このバカ!

 それが解らなきゃ、次の小テストでも赤点間違いなしです。

「生化学なんて解らなくてよろしいから、高校生物の勉強をしてください!」

 というか、今まで何を読んでいたのでしょう。

 仕方なく、私は生物の授業を始めました。始終、彼は面倒くさそうな気の抜けた眼差しをもって私の話を聞いていましたが、投げ出すことはありませんでした。そして私は、やはりそれを奇怪なことだと思いました。


 どうにか彼を励ましてあげよう。

 そう思ったのは私の情けが千尋の海の深さより深いためです。善行もまた優れたる人間の義務。迷える仔羊を、神様に代わって導いて差し上げましょう。ついでに、今の青井くんはなんだか気に食わなかったのです。馬鹿のくせに思いつめないでほしいのです。

 困った人。

 頭の片隅にてあれこれと作戦を練りつつ、午前の授業を消化しました。後ろの席なので青井くんの様子を窺うのは至難の業でしたが、先生に指名された時もハキハキと答えていましたし、朝の異常さに比すれば、思いのほか変わったところはありませんでした。

 ところで、私は致命的なことに気づきました。

 男の子って、何考えて生きてるんでしょう。

 私には、それが解りませんでした。なぜならば、私には男友達なるものが一人もいないからです。私は別に、男子にも女子にも分け隔てなく情愛深い振る舞いを見せているつもりですが、どうしてか男の子からは遠ざけられているような気がします。花咲く高峯に果てが無いのも悩ましいことです。

 とかく、男の子を元気にするような何かを、私は一向に思いつけませんでした。それどころか、いわゆるピンクな事柄ばかりが頭を過ぎってしまいます。私の魂にそんな不潔が有るはずないですから、これはきっと青井くんのせいです。元気になったら二、三発殴ってやろうと思います。

「…ってわけなんですけど、何か浮かびませんか?」

「うぅん…私だったら、ご飯とか一緒に食べて、いっぱい喋るかなあ」

「なるほど…」

 お昼休み、私はクラスメイトのハルちゃんと食事を共にしていました。彼女を何かに例えるなら、たぶん猫です。けれども猫のような狡猾さはなく、ただ、のんびりとした猫の可愛いところだけを煮詰めて煮詰めて透明なゼリーにしたような、そういう女の子でした。それだけでも天国へ行くに足る美徳といえます。

「あ、でも、それは女子っぽいのかな…ごめんね、男の子のことは、私にもよく解んなくて」

「いえ、構いません。勉強になります」

 ハルちゃんは垂れた大きな目を細めて、ニッコリ笑いました。女性である私でさえ胸を打たれる笑顔です。きっと、この教室にもハルちゃんを好いている男子は多いことでしょう。

 もしかして青井くんもハルちゃんのことが好きだったり。

 ………。

 いやいやいや、彼女が青井くんのエロティックな毒牙にかけられるなんてことがあってはいけません。私が阻止せねば。

「それにしても」ハルちゃんはお弁当箱から卵焼きを摘み上げます。「ほたる、青井くんと仲良いよねえ。幼なじみとか、そんな感じ?」

「あ、えっと」お茶を一口含んで、飲み込み難い何かと一緒に嚥下します。「高校で初めて会いました」

「ほんとに?じゃあ、一年半でそんな仲になっちゃったの?」

「そういうことになりますね」

「ほぇぇー」

 ハルちゃんはいかにも感心したような声を漏らして、お茶のペットボトルを開けました。

 うーむ。

 私と青井くんは、そんなに仲睦まじくみえるのでしょうか。だとしたら実に不本意です。私にとって彼は、ただただ困った人なので。ハルちゃんとの間に育んできたような友情が私たちの間にあるはずないのです。

 私がむつかしい顔をしていると、クラスメイトの男子が一人、こちらへ近づいてきました。

「どうもどうも、ご飯中にすみませんね」

「あ、伊藤くん」

「化学の課題回収でーす。二人ともできてる?」

「うん。ちょっと待って」

 私たちの学校では教科ごとに『学級長』のような役割があって、伊藤くんは化学においてそれを担っているのでした。

 ハルちゃんが机をゴソゴソやっている間に私も自席へ戻り、化学の課題を持ってきました。

「およっ、あったあった。はいこれ」

「お願いしますね」

 二人して伊藤くんに渡すと、彼は「確かにお預かりしましたぁ」と戯けてから爽やかに笑って「あんがと」と残し、ふらりと立ち去ります。

 ハルちゃんはしばらく伊藤くんの背中を見つめていましたが、やがて私のほうを向いて、おっとりと微笑みました。

「いいこと思いついた」

「なんですか?」

「青井くんの慰め方、伊藤くんに訊いてみたら?あの二人仲良いし、男子の方が的確なアドバイスくれそうだよ」

 なるほど、それは妙案です。餅は餅屋、男子の気持ちは、同じ男子が一番よく解るはず。

「そうしてみます」

 私は菓子パンを飲み込んで頷きました。


 そうは言ったものの、伊藤くんは昼休みの間じゅう何処かへ行ってしまって、話しかける機会はありませんでした。

 詮方なく、昼休みはハルちゃんとの談笑に費やし、虚ろな目の青井くんを横目に席へ戻りました。低く漏れ聞こえた彼のうわ言が般若心経に聞こえたのは、たぶん気の所為です…気の所為だよね?

 そのまま午後の授業が始まります。

 私は気になったことを放置できない性分で、青井くんへの対応について考えることをやめられませんでした。授業の内容は学習済みだったので問題ありませんでしたが、些か不真面目じゃないかといえば、まあ認めざるを得ません。

 六限目の数学の授業中、ふと、ひと月ほど前に青井くんと交わした会話を思い出しました。それは放課後、偶然おなじタイミングで教室を出た彼と、校門まで一緒に歩いていたときのことです。

 西に傾いだ陽の光は廊下の窓を透って、幾つも幾つも、平行四辺形の陽だまりを落としていました。私は珍しく寝不足で頭が回らず、話題を探してしばらく視線をさまよわせます。

 そうして、とうとう何も思いつけずに隣を見遣った時でした。

 彼は気怠そうに前方を向いたまま、「不思議だ」と呟きました。

 これ幸いと、私は乗っかることにしました。

「何がですか?」

「新品の下着を好んで盗む輩はあまりいないだろうが、下着泥棒は普通に存在する。中古品としての価値損失よりも、一度使われたことによる付加価値の方が大きいのは、不思議なことだと思わないか」

 まともな話題を期待した私が馬鹿でした。

 軽蔑の眼差しを向けますが、彼は微笑みを崩しません。

「サイテーですね」

「そう言うなよ。男ならみんな解るはずだから」

「あなたみたいなのが男性代表を気取らないでください」

「僕は下着泥棒をやったことがないが、この事実は僕の直感に矛盾しないんだよ」

「聞いてます?」

「君には、解るかな」

 あからさまにため息を吐いてやりましたがノーダメージです。仕方なく、優しい私は彼の話に付き合ってあげることにしました。

「解りませんね。正直キモいです」

「やっぱりそうかぁ」

「男でも女でも、一度着たものなんて汚いだけでしょう。何がいいんですか?」

 さも当然に私が言うと、彼は頭を掻いて「正論だね」と苦笑しました。

「でもね、男の中には使用済み衣類なんかより余程汚らしい獣が潜んでいるんだ。僕もときどき厭になることがある。君たちにとっては不潔なばかりかもしれないその衣類も、僕らにとっては金玉がひっくり返るくらい魅力的なものにみえてしまうんだよ」

「え。あれってひっくり返るんですか?」

「ただの比喩さ。でも知人に一人、マジでひっくり返ったやつがいた。精巣捻転という厄介な病でね、症状も治療法もハンパなく凄惨だ。僕も恐ろしくてたまらない」

 まったく、どうしてそんな知識ばっかり豊富なんでしょう。呆れてものが言えません。

 彼は欠伸を漏らして、さもどうでもよさそうに続けます。

「だから浮舟、君も、捨てる前には僕に相談してくれ」

「二回死んでください」

 思い出してみても下らなすぎる会話でした。

 けれども人外レベルに助平な彼を救うには、やはりそれが手っ取り早いのではないでしょうか。や、だからと言って我が身を犠牲にするのは御免ですが。

 しかし私が知らないだけで、もしかして彼の言っていたことにも一理あって、つまり、男性の性欲は私の想像よりも強烈なものだったりするのでしょうか。ともすれば青井くんの言だからと唾棄するのは、正当性を欠いているのかもしれません。

 板書を写し終え、少し離れて座っている伊藤くんを見遣りますと、たまたま彼もこちらを向いていてバッチリと目が合いました。なんとなく愛想笑いをしてみましたが、彼は慌てた様子でそっぽを向いてしまいました。

 うー、やっぱり遠ざけられてる気がするなぁ。

 でも、これは一度確かめてみる必要がありそうです。


 掃除の時間になって、ようやく伊藤くんと話す機会をもちました。私たちは体育館前の廊下を黙々と掃いていましたが、頃合を見計らって彼がちりとりを持ち出しましたので、これはチャンスだと思ったのです。

 掃き集めた埃の山を彼が支えるちりとりへ滑り込ませながら、そっと呼びかけます。

「伊藤くん」

「う、浮舟さん。どうしたの?」

 なんだか緊張した面持ちで、彼は私を見上げました。普段はよく喋る人であって男女問わず慕われている彼ですが、私と二人きりの時は口数が少ないのです。私は優れた人間ですが、のべつ幕なしに人を見下しているわけではありません。そんなに緊張しなくていいのに。

 ──と、ついつい唇を尖らせたのが彼にも見えてしまったらしく、彼は一層、その端正な顔を歪めました。

 私は慌てて微笑みます。

「あの、青井くんのことで、相談があるんですけど」

 すると彼は姿勢を正して、捨てられた犬のような、悲しげだけども安心したような表情を浮かべました。

「凪が、どうかした?」

「それがですね、朝から様子が変なんです。なんだか凹んでて、自習なんかしてたんですよ。ただごとではありません」

 彼は苦笑しました。

「確かに、アイツが朝から勉強なんてありえんな。凹んでる理由は判らんの?」

「はい。私が訊いても、放っておいてくれって」

「なるほど…」

 そこで私は、意を決して切り出しました。断じて言っておきますが、私だってこんなはしたないこと、不本意なんですよ?ほんとですからね?

「あの、それで、男性というのはですね」

「うん?」

「たとえば、たとえばの話ですよ?」

「うん」

「凹んでる時に、たとえば使用済みの下着をあげるだとか、そういうことをしてもらうと、元気になるものなんでしょうか」

 数秒、彼は穏やかに微笑んだまま、私の顔をじっと見つめていました。やがて瞳の奥が不安定に揺れ始めると、頬が真っ赤に染まります。耳まで真っ赤な人、久しぶりに見たかも。

 それから目をぎゅっと瞑って、彼はそっぽを向きました。

「そ、そんな破廉恥な!そんなので喜ぶのは凪だけだよ!」

「やっぱりそうなんですか?」

「あ、いや、正直に言えば…」らしくもなく口ごもった後、彼はぶんぶん首を振りました。「嬉しくないね!一ミリも!」

 あら、やっぱりそうだったみたいです。

 そりゃあ、いかに性欲が根源的なものであろうとも、青井くんのような人が一般的だったら流石に哀しすぎますよね。ちょっと安心。

「あ、俺、先生に呼ばれてたんだ。もう行かなきゃ!」

 伊藤くんはとてもとても慌てた様子で、ちりとりを置いたまま走り去ってしまいました。

 なんかちょっと悪いことしたかも。

 そうして体育の先生に「おいこら、走るな!」と怒鳴られている彼の背中を眺めて、私は「あ」と漏らしました。

 私としたことが、伊藤くんの意見を求めるのをすっかり忘れていたのでした。


 結局のところ、何も浮かばないまま放課後を迎えました。

 ホームルームが終わった後、青井くんに声をかけようと思っていたのですが、彼は伊藤くんと肩を並べて教室を出ようとしていました。残念ですが、今日のところはこれまでです。未解決の課題は明日にまわして、帰ることにしましょう。

 ──そう思い、帰る前にお花を摘んでからハンカチ咥えて手を洗っていた時でした。

 私は至って普通に、自分の手を見ながら両掌を擦り合わせていたので、鏡を真っ直ぐに捉えることができませんでした。つまりそれは、鏡の中の私をして、腰をかがめつつ手を洗わせることを確定する運動であるはずでした。

 ふと、目を挙いだ、その刹那。

 鏡の中の私は、真っ直ぐに立ってこちらを見つめていました。未だ私が手を洗っているというのに、です。

 突然の不思議現象に私は硬直し、しばらく鏡の中の私とにらめっこしました。彼女はまったく独立した存在のように、右手動かして前髪整え、ちょっと微笑んで歩き出します。私が咥えていたハンカチを落としたのはそれと同時でした。

「──!」

 ふっと、意識が遠のいて、私はその場に崩れ落ちました。



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