Boys, be serious.
後悔先に立つ
事の始まりは初夏の或る日、送り元不明の郵便物が当たり前のように我が家へ届けられた時だった。
その日、両親はどっかへ出掛けてしまっていた。実を言えば僕も来ないかと誘われたのだけど、面倒だからと行き先も聞かずにお断り申し上げたのだ。そんなわけで僕は一人、留守番をすることになった。
「これからカラオケ行くんだけどさ、お前も来ねえか?」
友人からのこんなメッセージも、
「悪いな、いま全身の骨が折れてて動けないんだ」
こうやって華麗に躱す。
うむ、我ながら模範的な陰キャである。
窓の外は良く晴れていて、寝そべったベッドからも水で溶いたような青が空一面に広がっているのが見えた。こんな日には同い年である十七歳の六割くらいが友達とほっつき歩いているのかも知れなかったけど、僕は頑なに部屋を出なかった。DNAの深いところに刻み込まれた陰キャの遺伝子は今日も絶好調にタンパク質を製造し、僕の脳内に陰惨として焦点の合わないシグナルをドバドバと垂れ流し続けていたのだ。
ちなみに僕は人間が苦手だとか二次元にしか興味がない平面愛好家だとか、実は自分が秀でているという変態的な妄想に囚われているとか、そういうタイプの陰キャではない。ただ、この世の全部がどうでもいい。人もモノも出来事も、ありとあらゆるものがつまらないし、なんだか意味をもたないように思われて仕方がない。「それは陰キャではなく精神病患者です」と言ったのはあの性悪女だが、その言葉の正当性は僕にも解らない。
さておき、僕はベッドに寝そべって大人しく読書を楽しんでいたのだけれど、午後三時を過ぎた頃になって下半身に疼きを感じた。断じて言っておくが、エロ本を読む事を読書と呼ぶほど落ちぶれてはいない。間違いなく僕の目は太宰の『人間失格』を追いかけていたのだから。だからそう、彼の目覚めはきわめて自然な生理現象に他ならない。
疾風怒濤の如く本能を主張し高潔なペルソナを破壊しようと乱暴狼藉する獣を、理性の部分を司る僕はしばらく無視していた。そんなことも面倒だったからである。しかしそれでもやはり十七歳、下半身に脳がついているとも伝え聞く青い魂に欲望の果ては見えなかった。
しゃーなし、僕は本を閉じると、魂を鎮めにかかった。
そうしてあと少しで魂が無意識層へ還ろうかという実にあさましく抜き差しならないタイミングで、不意にドアチャイムが鳴った。日頃は『仏』と呼ばれたり呼ばれなかったりする僕もさすがに舌打ちを禁じ得なかった。エクソシストに聖水ぶっかけられた悪魔みたいになっていたけど、仕方なく除霊を中断して階段を降りる。
ドアスコープから覗けば宅配業者らしき風貌の若い男性が立っていて、その手にはダンボールがあった。
腹いせに僕は手を洗わないままドアを開けて荷物を受け取り、強めの筆圧でサインをしてやった。業者のお兄さんに恨みはないが、みんな陰キャになってしまえばいいと思っていた──のは僕じゃなくて獣の方なんです。信じてほしい。
そのダンボールは枕を二つ重ねたくらいの大きさであって、見慣れた有名な通販サイトのロゴが入れてあった。重いと言えば大げさになるだろうか、けれども、それなりに重量感があった。ここでようやっと送り元や届け先の記入欄を確認して、あら、首を捻る。
奇妙なことに送り元が表記されていない。
日頃から荷物を受け取る機会に乏しいので気にしなかったが、こんなことがあっていいものなんだろうか。しかも、この箱は大手通販サイトのもの。両親が買った品物であれば、送り元はきちんと表記されて然るべきだろう。
真っ先に浮かんだのは詐欺や事件の可能性だった。代引きでもなかったので警戒しなかったものの、これは、受け取ってはいけない何かだったのでは?ああどうしよう、留守番の最中に怖い人たちが乗り込んできたら。今度は僕ごと除霊される羽目になるのだろうか。
起こってもいないダークな出来事を想像するのは容易だった。その恐怖は奇妙なリアルさをもって僕の頭を数十秒支配する。
だが。
だがしかし。
他方で、僕はえも言われぬ好奇心に駆られていた。
送り元不明の荷物が自慰行為の最中に届くだなんて、それは、ちょっと小説的だ。何を言っているのか解らないかもしれないが、残念ながら僕にも解らない。理屈ではない。僕は確かに、この小さな非日常を喜んでいた。
手が震えているのが判ったけれど、その原因は判然しない。ただただ、僕は興奮していた。
両手でダンボールを持ったまま二、三度、その場で意味のない足踏みをして、決意する。
開けてみよう。
なあに、まずいものが入っていたらば近所の川にでも投げ捨てて、カリフォルニアの端っこあたりまで逃げればいいさ。英語は話せないけど、言葉が通じなくても死にはしないだろう。たぶん。
僕は荷物を持って二階へ上がった。この異常事態に獣も恐れをなしたのか、いつの間にやら消え去っていた。そしてそれを自覚した途端に平素の冷静さを取り戻し、兎にも角にも手を洗わねばなるまいと一階へ戻って蛇口を捻る。
Tシャツの裾で手を拭いながら鏡を覗くと、少年は薄く笑っていた。
正直なところ箱の中から人体の一部でも出てこないかと、そういう期待をしたわけであって、日常において目にするものが詰め込まれてあったならばひどく興醒めだと思っていた。や、人体の一部なんか出てきたときには正気を保てる自信がないけれども──それでも、実際に出てきた分厚い本は、まったく僕を失望させた。
なんじゃこりゃあ。
刹那、そんな言葉が脳裏を駆け巡る。
やはり送り元が記されてなかったのは何かの手違いであって、これは両親が購入した商品なのではなかろうか。
少しのあいだ黒い表紙を眺めてから、僕は本を手に取った。何で出来ているのか知らないが表紙は革のように滑らかな手触りであって、徒にしっかりと作ってある。加えて、いっさいの表記が認められない。題名も著者も、あるいは内容を想起させるイラストの類も無い。さらに辞書のような分厚さであって、総ページ数は千に近いかと察せられる。
試みに表紙を持ち上げると、次の紙面に、ようやっとタイトルらしきものが現れた。その辺に転がっている文庫本にもあるようなフォントで、『空転の切望と嘆き』と縦書きにしてある。なんだか救いようのない日本語だと思った。
失笑とともに、さらにページを繰った。本文が現れる。
『恥の多い生涯を送って来ました』
たまげた。第一行目からまさかの盗用である。
清々しいくらいストレートに、かの名文をコピペしてあるのだ。偉大なる文豪を敬愛する身として、これは、ちょっと許せないことだった。どこのクソ野郎がこんなものを書きやがったのかと怒り心頭に我を忘れかけつつも、次なる行へと目を移してみる。
『──などというのは、かの文豪を汚す行為に他なりません。しかしながら、私の生涯が永劫の時をかけても
私の空疎な人生を振り返る時、私は常に一つの呪詛を心に浮かべ、それが五臓六腑へ金曜日のアルコールよろしく染み込んでいくのを感じます。それこそが後悔という二文字の抽象的表現であって、たった一つ、私が過去の己に言ってやりたいことなのかもしれません』
先程の怒りも何処へやら、静かな文体に反して心臓を鷲掴みにするような凄まじい気魄を感じて、僕は息を呑んだ。
コイツは只者ではない。本能がそう告げていた。
ストーリーテラーはキッパリと主張する。
『お前を殺してやりたい』
何かに引き摺られるようにして、僕はページを繰った。どうやらここまではプロローグのようなものらしく、著者はようやく本論に入ろうとしていた。
その第一行目に、全身が硬直した。
バチッと、脳みその片隅でニューロンの端っこが火を吹いたような幻覚に襲われる。それは頭を強烈に打ちつけたときの明滅に似ていた。
『私は青井凪である』
「……は?」
それは、他ならぬ僕の名前だった。
しばらくの後、僕はそいつを読了することになる。そうして一つ、まったく信じられないことだけど、どうやら真実らしいことを知る。
この本は僕に宛てられた一種の警告だ。
これから先このまま生きていくと、こんなふうに成るのだと、そんなことが書いてあったのである。
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