7 クレイオ
彼自身の話によれば、クレイオはもともとは金髪だったのだそうだ。
しかしながら今は、どれだけ待っても彼には白い髪しか伸びてこない。彼はこの国にはよくいる移民の一人で、本人曰く移住してくる前に酷い目に遭わされたことがあり、その後は色素の抜けた髪しか生えてこなくなったという。
その「酷い目」の内容を彼は決して話そうとはしなかった。妻に遠慮してのことなのかもしれないが、心の内は誰にも分からない。
ただ少なくともネコには、クレイオが今もそこそこ酷い——というより面倒な——目に遭っているようには、思えた。人を使う立場にありながら最前線に立ち続けなければならないクレイオの責任は重い。
ネコはぐるりと部屋の中を見回した。彼は、沈鬱とまでは行かないまでも重たい空気の淀んだ研究室で、アスタルテの隣に引いてきた椅子に腰掛けている。ふくらはぎを片方の膝に乗せ、その上にかなりの猫背で頬杖をついてしばらく黙っていたが、彼は考えるのをやめると、小さなため息をついて下を向いた。それから彼は、周囲の研究員(そのほとんどの顔には寝不足と書いてある)になんの遠慮なく、大きな欠伸と背伸びをしてから部屋を出た。
窓のないこの部屋に長くいると、時間が足を止めてしまったようで気分が悪かった。
その日の朝クレイオは部屋の全員が出勤して来るのを待ち、会議で決まった方針を昨日言ったとおりに余すところなく話したが、ネコからはアスタルテ以外の周囲の反応は今ひとつに見えた。それはクレイオの反応を見ても、まんざら外れでもないようだった。そういうことはこれまでにも何度かある。
バベルに所属する研究員は大半がクレイオと同様、戦争の中で家族や居場所を失ったり、そこまで行かずとも安全な場所を求めてきた者だ。自らの知識と技術をこの国に提供し、その代わりに自分と家族の安全を得る。そして国は彼らの産物を国の財産として国力を高め、他国と結び、または国防を固める。
そうした経緯で成り立っている国なので、研究員だけでなく国民(というほど団結もしていなかったが)はおおむね、キャリアに対して良い印象を持っていない。彼らにとってキャリアは、自分たちの安寧を脅かす敵が携える銃である。
なのにその中にあってクレイオは、キャリアを
キャリアは生殖能力を持たない——少なくとも、建前上は。だから、それこそが人間を含むあらゆる生物の
もし仮に「普通の」女性を選んでいれば、彼も今のような板挟みの位置にいることもなかっただろう。妻がキャリアであることで、彼は上からも下からも様々な圧力を受けているようだった。口に出しはしなかったが顔には出ている。あまり隠すのが上手い男ではないとネコは思っていた。
クレイオたちが携わっているのが、キャリアを相手にしてもなお人間が互角に戦える道具を作る研究である以上、成果の実証のための「敵」を演じられる人材は不可欠である。そしてアスタルテはこの国で今のところ、それに適う唯一の人材だ。だからこの組織で彼女の必要性は疑うべくもないのだが、そうした仕事はプロジェクトが最終段階に立ち入るまではそうそうあるものではない。彼女が毎日のようにバベルに出てきて仕事をしているのは、彼女がここに流れ着くまでに後天的に手に入れた知識もまた有用だと認識されているからだ。
ただ彼女を誰もが歓迎しているわけではない。研究所の人員のほとんどが持つ経緯を考えれば、彼らに彼女を同僚として迎え入れるに当たり、割り切れなさを抱えるのは当然のことである。
その上、アスタルテ・タンムーズは必ずしも組織に従順ではない。
彼女は実証実験に一度も合格をつけたことがない。何が問題なのかと問われればもちろん返事はするが、それは開発者からすると揚げ足取りのようなものだったりした。国の財政維持のためには、本来の目的の開発途中にできた副産物も、有用ならば随時製品化して利益につなげる必要がある。このため国は、彼女の注文が理由のないものだと思えば無視したが、それでもキャリアが効果を保証していないという事実は、知れれば商品の価値を下げた。
彼女がつける注文はいろいろだったが、国にとって一番耳に痛い指摘は「量産化の困難性」であった。呼び出したジオエレメンツを直接、銃弾や電池のように込めて使うのは、技術的にはおそらく現在でも可能だが、利用するジオエレメンツの個性によるところが大きいため品質に安定性がない。
それで今クレイオたちが開発しようとしている第三期URは、人間の脳の働きをトリガーとし、出力とその性質の調整にジオエレメンツを利用するコンセプトを取っている。ここでの「利用」は前期までのような直接的な利用ではない。一番望ましいのはジオエレメンツの力の淵源を解明した上でその理屈を流用することだが、そんなことができるならそもそもキャリアの無力化だって可能なはずだ。だからこの国はそこまでの大きな目標を立てなかった。代わりに立てられた目標は、ジオエレメンツが持つ、その「力の淵源」へのアクセス権を解明し、組み込むこと。
これまでのコンセプトを大きく変更し、なおかつずっと高度な研究と繊細な作業が要求される。だから時間がかかる。しかし国の現状に照らしてそれが許されるのか、この方針を継続すべきであると力説するクレイオにはさまざまな質問や批判が投げかけられ、彼はそれをひとつずつ丁寧にまたは雑に返し、答えの出ない議論が長々と続いた。それが昨日のことである。
辟易したクレイオは、それを部下に説明するのを翌日に回した。彼は、まだ作業が残っていると言うアスタルテを置いて、ネコやケレトとファストフードを買い込んで自宅に戻り、しなびたフライドポテトをかじりながら、酷い会議だった、とため息をついた。そして一晩明け、今日に至る。
クレイオとアスタルテがいくら上司と部下として振る舞っていても、研究室の全員はふたりの関係を知っている。だから、アスタルテが関わることについての研究員の進言は、かなりのフィルターを通してようやく言葉になったものだ。クレイオはそれを自覚していたから、神経(と耳)を研ぎ澄ませて所内の動向や不満を察するようにしていたし、察知したときには自分で言い出すしかなかった。
アスタルテもまた、そういう理由で——要するに「空気を読んで」、本意ではない協力も申し出ていたが、それでも彼女が完全にそこに溶け込み、受け入れられることはない。彼女は経緯がどうであれ、周りの人々から愛する人や愛する国を奪った兵器の同類であることに変わりはなかったから。
夫と子どもたちがそうした食卓を囲んでいるころ、ひとり居残っていたアスタルテは、ぐす、と鼻を鳴らした。
とにかく会議でのクレイオの踏ん張りで目下は方針転換を免れた第三期URPは、従来通り少しずつ、前進している。
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アスタルテは背伸びをして席を立った。
もう時計はだいぶ遅くを指している。ほかの研究員の帰宅した部屋は薄暗い。彼女はひとりになると灯りを落として作業をすることが多かった。彼女が逃げ出してここに来るまでの経験は、彼女に暗がりの安心感を植え付けていた。
扉の開く音の後、名前を呼ばれたのに振り返りアスタルテは肩をすくめた。
「今日も先に帰ったのかと」
「別に待ってた訳じゃないからご心配なく」
「分かってるわよ。そんな心優しい上司じゃないものね」
クレイオが「結構言うね」と苦笑いしながら室内に入る。彼の履いている靴は、動きやすさを一番にした柔らかい底のものだから、足音は響かない。
「でも、いい親だとは思うわよ。私よりもいいかも」
「だったら嬉しいんだけどね」
クレイオは部屋の真ん中くらいまで進むと足を止め、アスタルテの椅子の横の引き出しに目を向けた。廊下の光は、さっき閉まった扉に遮られてもう届かない。彼は目を細め、それからアスタルテを見た。
「あれ、まだ捨ててない?」
「捨てるわけにもいかないでしょ」
アスタルテは、使うこともないけど、とため息をつき、眉間に皺を寄せた。
「そういうことを聞くってことは?」
「使いたい」
「ダメよ。私は協力しない」
険しい顔で睨むアスタルテに「違うよ」と肩をすくめ、彼は歩みを進めて引き出しに手を伸ばした。アスタルテは黙ってそれを見ている。引き出しを開けると、いい加減に紙を巻きつけただけの「あれ」を取る。
彼は巻かれた紙を丁寧に剥ぎ取りながら、独り言のように言った。
「自分が携わってないものを褒めるのも情けない話なんだけど、実際問題、一番完成に近いのはこれなんだよ。あとは動力にするヤツを精選して、収めるだけで一応実用段階」
「だから私に回ってきたのよ。知ってるでしょ」
眉を寄せたまま腕を組んだアスタルテに目を向け、クレイオは包み紙から目的のものを取り上げた。
ネコに見せたもののような、作りかけのパーツではない。それは現代にあっては時代遅れの近接武器、要するに剣である。試作品はどうせ世には出ない。だからそれは、古いファンタジー映画の真似をして、
「こういう、遊び心満載だった隣の班の責任者は昨日、部署異動が決まったよ。行き先はかなりの閑職でね。なんか申し訳なくて……」
クレイオは呟きながら、それを握った。第一試作品と同じくペアで作成されている。マットな質感の、ガンメタリックの金属のボディに、艶のある銀色のラインが走っている。まだ誰も「使った」ことのないもの。
アスタルテは目を伏せたが、ため息をついて顔を上げた。
「それは気の毒だとは思う。でも、絶対にネコにはやらせないわよ」
「もちろんそんな期待はしてない。させたくもないしね」
クレイオは剥がした紙を几帳面に伸してから四つ折りにし、それをアスタルテに渡すと、中身だけを自分の荷物の中に無造作に放り込んだ。
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