5 ケレト

 その部屋の位置なら、廊下のはるか遠くからでも簡単に分かる。声が漏れてくるからだ。

 少年ネコは、この堅苦しい建物の中で異質な空気を放つその場所を好きではなかった。そこにいつもいる人間は、この建物にいる他の人間に比べてもむやみやたらと彼に興味を示して寄ってくるが、彼がそれらから得るものはない。だからそこは、彼にとってはうるさい、鬱陶しい人間の溜まり場以外のなにものでもない。


 とはいえ彼は、彼を(直接にではないが、アスタルテを通じて)その場所に頻繁に呼びつけるクレイオのことは、決して嫌いではなかった。彼の頭脳は誰からも賞賛されるものだったし、少年ネコもまた、その評価を相当だと思っている。しかもクレイオは、自分からネコに干渉してくることはほぼない。それは彼がいつも何かしらの業務に追いまくられていて暇がないという理由も大きいのだが、ネコにとってその無関心はかなり居心地のいいものだった。


 磨りガラスのドアの前に立つと、それは熱を検知して勝手に開く。そうして中の賑やかな声は一層はっきり聞こえるようになった。

 規則性なくそこかしこで上がる子どもたちの様々な声は、耳のよいネコには額だのこめかみだのから脳を直接突き刺すように感じる。彼は不快感を隠しもしない顔で中に足を踏み入れ、すたすたと進みながら部屋の中を見回し、目的の姿を見つけて声をかけた。

「クレイオ。来たよ」

 振り向いたクレイオは「助かる」と一言だけ、それから抱き上げていた子どもを床に下ろすと即座に踵を返して走り出て行った。

 クレイオの髪は混じりけのない白だが、それを追いかけようとたどたどしく踏み出した子どもの髪は金色をしている。母親であるアスタルテの髪は鳶色なので、一見しただけではその子どもがふたりの子だとは分からない。遺伝子レベルでも間違いなく実子であるのだが。

 ネコは父親のあとを追おうとするケレトの前に立ちはだかった。


 ケレトは口を尖らせて見上げている。しかし彼は少し頰を膨らませて、下を向いて恨めしげに短い唸り声を上げて、それだけだ。喋れないわけでもないのに、彼はそれ以上不快感を表すことはない。ただその代償のようなものとして、彼はネコのことを、その唸り声そのままに呼ぶようになってしまった。彼から父親を取り上げるネコへの、彼なりの反抗であった。

 ケレトはまたそうして今日も父親と交代したネコの前で、今日は不意に顔を上げて時計を見た。それから彼は振り向いて壁際まで走って行き、肩より高い位置にある窓枠に手を置いて伸び上がる。空に目をやる。上空に雲はない。彼は後ろから面倒臭そうに歩み寄ってきていたネコを振り返った。

「外行くよ。うー」


 ケレトは決して、聞き分けが良い子どもではないのである。それなりに賢い子どもであった彼は、ネコと父親との交代は駄々をこねても変えられないと学んだが、無理な願いでない限り、ネコにはしつこく食い下れば言うとおりにしてもらえることも学んだ。彼は面倒を嫌うので。

 その思惑通り、ネコは不機嫌な顔こそ隠さなかったが、ケレトが身構えるとため息をついて首を傾げて見せた。どうせ、雲より高い位置にあるこの部屋の天気は、外に出たときには裏切られるのだ。それでもケレトはまだ外に行きたがるだろうか。

 ネコはその部屋の責任者に一言断りを入れ、ケレトを連れて部屋を出た。


--


 外はどんよりと雲がたれこめている。

 バベルの下層階は公共機関の窓口が入っているので、一般市民の出入りも多いし、特別の警備がされているわけでもない。そこへ降りていくエレベータは途中から、シャフトの外が見渡せる。段々近くなる地面に目を細め、ネコが階層表示を仰ぐと間もなく到着を知らせる音がした。


 走り出ようとするケレトに手を伸ばし、ネコは後ろから襟首を掴んだ。ケレトが振り返って口を尖らせたがネコは気にも留めずに、証明書類の発行を待つ市民がぽつぽつと見えるロビーを見渡してから手を離した。

 ここでも相変わらず、鮮やかな色の髪と瞳を持つ彼の外見は特異で目を引く。この国には彼のような人外は、知られている限りでは存在していないので、彼が人でない何かだと疑われることも(少なくとも大っぴらには)なかったが、かと言って好奇の目を向けられない訳でもない。

 遠慮がちにちらちらと窺ってくるものもあれば、まじまじと遠慮のない視線を送ってくるものもある。彼らは各地からの移民ではあるが、移動距離は限られているので大体が似通った外見をしていた。くすんだ金や鳶色の髪と、青や緑の瞳。


 ケレトの髪は父親譲りだ。そして瞳の色も父と同じ松葉色。クレイオの今の白髪は後天的なものである。

 瞳に母親と同じ紫が出れば身元が明らかになってしまうので、こうして民間人の間に混じることなど到底できなかっただろう。この国にいるほとんどの人間は、キャリアの大量投入を伴う大国間の戦争でふるさとを焼け出された人々やその子孫である。そこにキャリアの証である紫の目をした子どもが出て行くなど火に飛び込むようなものだ。

 実のところ、瞳の色を受け継いでいないからといって、ケレトがキャリアでないのかというとそうでもない。例えばネコには対応できないくらいのキャパシティしかないものの、彼にもキャリアとしての機能自体はある。

 しかし、母親は運良く自分の外見を受け継がなかった我が子に普通の人間として幸せな生を全うすることを望んだし、それは父親も同じだった。そして今のところその願いは世界に受入れられている。彼らの子どもはこうして街に出て、誰からの敵意を向けられることもなく、空港に向かって歩いていくことを許されているのだから。


 咄嗟に空を見上げたケレトの上を、大きな影が通過していった。

 ひこうき、と彼は呟いたが、それは実際はずっと大規模な移民船であった。かなりの高度にあるのに、まるで近くにいるように見える。遠近が混乱するような大きさだ。

 どこから来たのかは分からない。船体の表示も逆光で見えず、白い輪郭だけしか判別がつかなかった。とにかくああしてこの国の人口は、出生以外の要因でもぶくぶくと膨れ上がっていく。社会はそれに追いつけていない。


「あんなのまだ小さいよ」

 ネコはため息まじりに呟いた。数歩先を行っていたケレトが振り向いた。

「もっと大きいのどこで見られるの?」

「地上じゃ無理だね」

 ネコは、滑走路のフェンスに両手をかけて彼を見上げているケレトに肩をすくめ、自分はフェンスにもたれかかった。

「最初っから空の上で浮かせながら作るんだよ、地上で作ったって離着陸させられないから。ステーション間を移動する形で、乗りたければまずそこまで行かないといけないし、もちろん近くで見たくても同じ」

「りちゃくりく」

「飛び立つこと、地面に降りること。そういう船は飛行機と違って、大陸間じゃなくて星と星の間を結ぶものだよ」

「ふうん」

「今のところ一番大きい奴はティアマト級。このタイプは二隻しかないけど、その倍はある建造中のが夜、西の空に見える。シャヴィトっていう、ちっちゃい島なんかより余裕で大きいサイズになる予定」

「よく知ってるね」

 妙に饒舌なネコに対するケレトの一言は純粋に賞賛から出たものだったが、ネコは一瞬まずい、という顔をし、それきり黙り込んでしまった。


 彼らはそこで夕刻までを過ごし、フェンスの影が長く伸び始めた頃、バベルへ戻った。

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