4 バベル

 多様な少数民族を擁する小国が設立した研究所だ。だからそこの人間は肌の色も目の色も実に豊かだったが、その中にあっても彼は際立っていた。

 光に混じれば海の碧にも空の青にも見える翡翠色の髪と金色の瞳は、そのいずれも誰とも同じではない。眼光は鋭い。背格好は十五、六。それでいて食いつくような雰囲気はなく、むしろ突き放すような投げやりさがある。顔立ちが割に整っているのもあって、大人からさえとっつきづらさを感じさせる「少年」であった。

 皆が制服に身を包むそこでもカジュアルな私服でうろついている彼は、職員でなくても一般人ではないことは分かるし、事実彼はそこではVIP待遇を受けていた。


 その彼に不意に話しかけられたので、たまたま廊下ですれ違っただけの新入りの女性研究員はかわいそうに縮み上がってしまった。

「アスタルテは、って。聞いてるんだけど」

 少年の声は見た目よりも低い。女性は思わず目を泳がせた。

「あ、あの」

「……もういいよ。ありがと」

 少年はふいと背を向けた。彼の目線の先から風が吹いてきて、女性の前髪を揺らした。女性は顔をあげた。空調の排気孔も、窓もないというのに。女性は再び少年を見、彼の下ろしたままの腕の先で指先が渦を描くように動いているのを視野の端に収めた。

 不意にその動きが止まった。彼は横を向くと廊下の先に目を細めてそちらへ去っていった。


 彼女も、その少年が「ネコ」と呼ばれていることは知っている。彼女は自分のデスクに戻ると同僚に彼のことを問うた。

 彼の呼び名の理由は、在籍日数の長いものなら誰でも知っている。彼の本当の姿が猫である、と。それだけのことだ。


--


 近年の軍拡競争の中で、その国は完全に遅れを取っていた。建国後浅い、移民の集まってできた国で、所得も低い。めぼしい資源も産業もない。

 彼らには経済力にものを言わせる大国が、高価で攻撃性能に優れた人型兵器であるキャリアをずらりと揃えてくるのには対抗のしようがなかった。

 そこで彼らは全く新しい方向での軍備の増強に目を向けた。それに対抗できるだけの武器を作ること。例え量産が難しかったりコストの問題があったりで自国の軍備増強はできなかったとしても、情報売却等によってそれがもたらすであろう黄金色の恵みは彼らにはこの上なく魅力的だった。

 その研究が行われているのがここ、通称名「バベル」であった。


 その名称は建物の姿からとられたもので、研究所固有の名詞ではない。かといってその研究所は表立って名を授けられ、存在を認められた機関でもなかった。だからその研究所のことを知る数少ない人は、誰もがその名で呼んでいた。

 天を突くように屹立きつりつするこの高層建造物は今も、治安が良いとは言いづらい周辺エリアを捨て置いたまま、他国の脅威から逃れるきざはしとなろうとしているかのように着々と上へ延びている。何階が終わりなのか、誰も知らなかった。

 ここには研究所だけでなく、その他の主要国家機関が全て入っている。何もかもがはじまり、そして終わる場所だ。

 長い廊下の途中、少年は目的地への足を止めないままながらも窓の外にやった目を僅かに細めた。


 先ほどから数人とすれ違っていたが、彼はそれらを気にも留めなかった。皆が似通った制服を身につけているせいもあり、少年にとって彼らはバベルというグループの個性なき構成要素でしかなかった。

 彼はひとつの扉の前で足をとめ、それを開けるなり中にいた人物の名を呼んだ。

「アスタルテ」


 呼ばれた相手は淡いとび色の髪を無造作に垂らし、薄暗いが広さはそこそこの部屋の中ひとりでモニタに向かって難しい顔をしていた。

 見た目は二十代後半にさしかかる程度の女性である。眼鏡のレンズに、黒い画面に映し出された文字が流れては消えていく。声に少し間を置いて彼女は振り向いた。

「何。用って」

 少年ネコは聞きながらすたすたと足音を立て、彼女の隣で立ち止まった。

「クレイオが可哀想なことになってんのよ。助けてあげて」

 女性は眼鏡を外してキーボードの脇に置いた。夜空の色を水に溶いたような紫の瞳が困ったように——けれども、心からおかしそうに——細められた。ちらりと覗いた首筋に焼き印のような文字が見える。Wi-02083-f。

 少年は大きなため息をついた。

「またケレト?」

「そうなの。捕まっちゃって会議に出られないってさっきから、ずっとあの人私に泣きついてきて……ほらまた。こっちだってあの人に言われた仕事で手が離せないのに、ね? 身勝手な上司は嫌ね」

 モニタの右上、メールの着信を知らせるライトがぱちぱちと点滅し、未読メッセージ数がひとつ増えて七通になった。


 アスタルテはその中のひとつを開いてみせた。文面はこれ以上ないほどに簡潔な数文字である。あるべき空白が抜けていて非常に読みづらいのだが、それで切羽詰まり具合も分かろうというものだ。添付された発信地情報は託児室を示していた。

「俺は保育士じゃないよ」

 心底嫌そうな顔で肩をすくめた少年は、誰かが立ったまま出口の方を向いたきりの空の椅子を引いてきて腰掛け、足を上げるとあぐらをかいた。無遠慮にも土足のままである。

「最近アスタルテ、全然俺を本来の用途で使わないじゃない。クレイオだってケレトのことは託児室の人に任せてればいいでしょ、俺に言わないで」

「駄目よ。託児室の人はあくまで他人。あんたは身内、全然違うでしょう。それに本来の用途って何のことかしら?」

 ん? と笑ってみせたアスタルテに、少年は再びこれ見よがしの大きなため息をついて立ち上がった。

「はいはい分かった。分かったよ主殿あるじどの、行けばいいんでしょ」

「その通りよ使い魔くん。従順でよろしい」

「しかし、ケレトの甘えっぷりは一体誰に似たのか知りたいね」

「クレイオよ。私は時から大人で子どもだったころなんてなかったんだから、そうに決まってるわ」

 よろしくね、と手を振り仕事に戻ったアスタルテを残し、少年は廊下に出た。


 ガラスの向こうには今にも泣き出さんほどに重く垂れ込めた雲が見える。ただし眼下に。上を見れば雲ひとつない青空だった。それだけ上の方にあるフロアだ。

 けれどもこれだけの施設なのに、彼が階数を覚えているのはこの巨大な建物の中にひとつしかない託児室だけである。今後の研究方針を決める会議に欠席する訳にはいかない「URP第一班主任」クレイオ・タンムーズ、アスタルテにとっては上司であるとともに夫である男が愛息ケレトに捕まっているはずの、その場所。


 それ以外の場所は、アスタルテさえ無事であるならば、彼にとっては覚えておく必要はひとつもなかった。

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