3 遠い、遠い 記憶の果てに
「ケレト」
ひとことぽつりと呟いたうーは頭を掻き、前髪を上げていた頭のゴーグルを外すとレンズを覗き込んだ。
映り込んだ空は、レンズの藍色に混ざって紫に見えた。彼はそれを首に掛け直すと石積みの上からぶらぶらと脚を投げ出した。下は海だ。
この辺は崖のような立地で、真下であっても水深がそれなりにある。だから遠浅のあたりとは違って陸地沿いの航行も可能なのだが、そういった船への対策か、崖にかなり迫ったところには石塁が張り巡らされていた。
もっとも、この国は幸運なことに、建国以来、海からの攻撃を受けたことはない。だから、この石積みが実際にはどんな意図で作られたのかも、またそれが役に立ったことがあるのかも、うーにはわからなかった。
海の向こう側の大陸は遥か彼方で、見えない。
海は常にこの国に恵みをもたらしてきた。「恵み」とは水産物のことだけではない。その底に沈んだ、今の技術では作り出すことのできない「資源」もだ。サルベージのためのクレーンのシルエットは、ここからでも見える。
うーは視線を遠くに置いたまま、ゴーグルの擦り切れかけたタグをなぞった。
そこに綴られているのは海の底に眠っている船の名前だ。船体の塗装はずっと昔に消えているが、古代の言語で「彗星」という意味だった——らしい。
まさしく名のまま海に墜ち、今になって積荷だけでなく船体そのものが人間に珍重されているその白い巨船は「シャヴィト」といった。建造直後は人間を運んでいたというが、うーが知っているのはすでに老朽化が進んで貨物船になった後の姿であった。
もっとも、その大きさは新造時も墜落時も変わらない。発掘が今ようやくコクピットに辿り着いたところであるようだから、このまま進めても向こう百年は軽く保つだろう。
一都市をまるごと飲み込んでも余りある大きさを誇っていたその船は、もちろん第一には移動手段であった。しかし、その「移動」は遠く、長いものである。船は自ずと、どこと知れない星へ移住しようとする者たちの生活の場としての役目も果たすことになった。そのため船からは彼らが残した多種多様のものが引き揚げられる。
そんな知識を誰から、どこから得たのだろう、と。うーは少し考え、そして考えるのをやめた。
彼は大抵そういうときにはすぐに諦める——考えても思い出せないことは分かっていたからだ。以前はうーやそあらと並んでフリッガと結び、今は某国にいるゼーレは何もかもを覚えていたから、彼女に聞けばもしかしたら何かわかったかもしれない。でも、うーは確かめようとしたことはなかった。
人工頭脳をルーツに持つ彼女は何もかもを「記録」していたが、それはうーには喜びより多くの苦しみを与えるもののように見えた。覚えているということは、いや、忘れられないということは、たぶん、残酷なことだ。
だから彼は思い出せないことを無理に思い出そうとはしなかった。ほぼ無限の命を持つ自分がそれを忘れたのなら、何か理由があるのだろうし、何より思い出した後が幸せとは限らないから。
海の向こうはまだほのかに明るいが、彼の真後ろには夜が迫っている。
しかし彼は戻ろうとはせず、目を伏せ、その不安定な場所にごろんと寝転がると瞼を閉じた。背の下の石が固かった。
湿った風が彼の翡翠色の髪を揺らしていった。潮の香りがまとわりつく。暖かなこの国でその風は、まるで母の手のような柔らかな重さを持っている。
まだ戻りたくなかった。
彼は石積みの上で、それこそ猫のようにウトウトと微睡みながら、遥か暗い海の底でずっと待っていた「ケレト」に思いを馳せた。
---
うーが——とは言っても当時は名などなかったのだが——生まれたのは、この世界に人間が文明を築き始めた頃だ。
どういう基準で選ばれるのかはわからないものの、一度死んだ生命がこの世界に戻って来られることがごく稀にあるようで、彼もそのひとつだった。
彼らはまず、崇められた。手に入れられない能力を司るものを、人間は現実に認識はできないにしろ「確かにそこにいるもの」として加護を乞うた。「神」と名付けられた彼らは、それに気まぐれに応えたりして、人間との関係を深めていった。
そういう存在はやがて時代が下り、何もかもが科学の名の下理論によって裏付けられた途端、オカルトや超常現象といった眉唾な扱いを脱し、実在する現象としての存在意義を認められるようになった。
彼らは、彼らをコントロールする言語や、彼らを収める
キャリアは人間が作り出した、人間をベースにした「端末」である。ジオエレメンツを収容し、その能力を発動できるように作られたキャリアは、開発が進むにつれ収容できるジオエレメンツの幅も広がっていった。
キャリア開発の目的は軍事利用である。あくまでそれは「人間の道具」であり、それ自体は人間ではない。そうでなければ使いにくいし、なにより公に取引することが許されないからだ。
だから、人間に近い機能を残したものは欠陥品であった。
だから、欠陥品が生まれたときには、それは直ちに処分された。
だから、それは表向きには徹底して「人間ではなかった」。
欠陥品は、生まれたことさえ否定された。
しかし、色々な事情から処分を免れた個体もいくらかある。
そのひとりがアスタルテ——
後に人との間に子を設けることになるその女性型のキャリアは、生殖機能と情動とが揃って発現した、極めて品質の悪い、逆に言えば人間的な、キャリアであった。
彼女は生んだ子をケレトと名付けた。父親は、彼女とともに軍事関連施設に勤め始めた移民の男だった。
ケレトはその施設の一部屋で、父母が仕事の合間に顔を出すのを心待ちに時間を過ごす全く普通の少年だった——キャリアと人との混血であるという点を除いて。
今から三千年以上、前のことだ。
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