2 広い、広い 丘の上で
「ケレト」ほかふたりは、首都郊外の小高い丘に覆いかぶさるように広がる墓地に、他の無縁者と同じように葬られることになった。
海を望むそこからは、沖合で絶え間なく上下する海底掘削のクレーンの骨組みが見える。
人々はここの墓に花を供え、故人に触れようとする。その拠りどころとして墓を建てる。そこに名を刻むことを「埋葬」と呼ぶものもある。
しかし、国を貫く河の上流から遺灰を流すのがこの国の本義・正式の葬儀である。その水が大地に染み込み、または海に流れ込んで、そうして死者は世界の一部へと戻る。だからその教義の下では、ここにあるような墓は厳密には死者の名を記録しているだけのものに過ぎず、そこには体も魂もありはしない。
そういうわけで宗教的には正しい用語法ではないのだが、それでもこの国の
今はそうして作られた小ぶりの墓がいくつも整然と並んでいるものの、もとはと言えばここは大人の胸くらいの高さの石の板が円形に並べられただけの場所であった。それをさらに円を描くように取り囲んで広がったのがこの墓地だ。
並んだ石板の中央に白い岩があり、そこにはプライアが定期的に訪れる。そしてこの国にいるプライアは、その最高位にあるサプレマただひとりだ。
全ての中心にあることになる白い岩は、大きさ自体は周囲の墓と大差ない。けれどもそれは人為的に設置された他のものと違い、もともとそこに「丘のへそ」とでもいうかのように存在していた自然のものだった。フリッガが前に立つと、背後の墓に誰かが供えた花の細い葉がさわさわと揺れた。
石板の磨かれた肌には無数の名前が刻まれている。埋葬を行う縁者のなかった、代々のサプレマが葬ってきた者たちの名である。
名の分からない遺体も(というより、そちらのほうが)多く、そうした者は皆同じ代用名が彫り込まれていた。そんな名前のレリーフを新しいものから順に目で辿り、九人目の「名無し」ではない名の真上で止めたヴィダはわずかに目を細めた。
フォルセティ=トロイエ・グリトニル。死んでから二十年程度になる。
今彼が肩車している息子には、その名前をもらった。六年前のそのときも彼ら、ヴィダとフリッガとは、生まれたばかりのフィーを抱いて三人でここへ来た。名を継いだという報告のため。今日と同じ青空の下。
なんでェ、と声が上がるのにヴィダは振り向いた。うーの声だ――まだ声変わりしていない少年の声。
「何で名前入れられないの」
「仕方ないでしょ。本当にケレトでシャハルでシャルムかどうかなんて確かめようがないしさ、苗字か名前かさえ分からないのに」
「本当にそうなんだってば。ケレトの名前は全部分かるよ、本名とキャプテンのときに使ってたのも両方、苗字から全部」
「ええ……名前ひとつじゃないの? 余計困る」
フリッガはしばらくうなっていたが、ついてきてくれた作業員が手持ち無沙汰になっているのに気づき、ひとまず彼らに深々と頭を下げた。彼らがきれいに並んだ明るい色の墓石の間を遠ざかり、やがて見えなくなってしまったのを確認して、彼女はうなじをぽりぽりと掻いた。
その場に残っているのはフリッガとうーのほかは、向こうの石版の前にいるヴィダとフィーだけだ。ところどころに陰を作るように枝を広げた木々の葉が音を立てる、明るくて静かな場所。
遠くに海を見て、周りの暮石を見て、それから夫と息子を見て。そして最後に目の前のうーを見て、フリッガはため息をつくと言い聞かせるような口調で言った。
「ほかの方法でなんか確認できないと。ひとりの言い分だけで決められないよ」
「マスターはオレのこと信用してないの」
「そういう意味じゃないって。でもね例えば自分が、違う人の名前で記録されたら嫌でしょ。だから何か記録で確認できる場合じゃないと認定しないことになってるんだって」
「でもさあマスターが決められるはずじゃん。一番えらいんでしょ」
「聞き分けが悪いなあ……」
フリッガは肩を落とした。ヴィダが息子の両足首を掴んだままこっちを見ている。彼の頭を抱えていたはずのフィーはいつの間にか背中のほうにひっくり返ってけらけら笑っていた。
いつまでもこうしているわけにもいかない。フリッガは頭を振った。
「まだ名前彫るまでは時間があるから。それまでに納得できる説明をしてもらえたら考える」
彼女が言うと、うーは眉を寄せ唇を尖らせた。
「オレが説明するの」
「そう。言い張る人が説得してくれないとね」
肩をすくめた彼女にうーは苦りきった顔で呟いた。
「オレそんなのちゃんとは覚えてないよ」
「覚えてないのにそんな言い張るわけ」
「名前は覚えてるんだもん。もういい」
うーはくるりと背を向け、その場から走り去った。
フリッガはもう一度ため息をつくと振り向いた。フィーは今はひっかかっていた父の肩を降り、しゃがみ込んで墓誌のレリーフをなぞっている。あれではまるでふたりめの子どもである。ヴィダは肩をすくめてみせた。
いくら「前のマスターだ」と言われてもフリッガがにわかに信じられないのには、ちゃんと理由がある。
精神作用の一部を共有するという方法で縁を結ぶ宿主と竜との間では、程度に差はあれ記憶や感覚の共有が起きる。しかし、うーからそうした記憶が漏れてきたことなど未だかつてないのである。出先で見つけた大好物などの、他の竜からは絶対に響いてこない程度のものでも彼からは聞こえてくるのに、だ。
そうは言っても本人がいなくなってしまったのではどうしようもないので、フリッガは本当は月に一度が恒例になっているものの、折角来たのだからとその月二度目の鎮魂式を略式で済ませ、家族と一緒に家へ戻った。
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戻った家では八十を過ぎた老人が若い女性を前に一講釈ぶっていた。この国では相当の高齢だが、そんな様子は微塵も感じられない。もっとも耳は若干遠くなっているようだ。随分大きな声で話す。
老人はイザーク・チェンバレンという。血縁関係はないがフィーは彼を「じいちゃん」と呼んでいる。事実祖父だと思っているのかもしれないが、誰も訂正はしなかった。血縁上の祖父母は父方にも母方にも既になく、混乱も起きないからだ。
そして女性――若いとは言っても落ち着いた物腰だけなら、三十路に手が届くかどうかのフリッガより上に見える――は、彼女と契約を結ぶもうひとりの竜である。フリッガの父親と契約していた時からざっと数えて軽く三十年はその姿を保っているが、もともと寿命などない彼らはわざわざ見た目を老いさせたりはしない。彼女はそあらと呼ばれている。フリッガがずっと小さい頃につけた名前だ。
これがこの家の全員だ。家族三人に、家族同然の老人がひとり。それから人外のものが三柱。揃えば大所帯である。
とくに食事の賑やかさと量とは目を見張るものがあった。最近はどうやら男連中の間で、食卓に出た卵を立てる競争が
ともあれ今日もそあらは、お帰りなさい、と微笑み立ち上がった。
「ご一緒ではなかったのですか」
「ネコどっか行っちゃった。ただいま、おねえ」
「そうですか。お帰りなさい」
いつものままの涼しい顔と口調で返事をしたそあらは、翠嵐を呼びながら奥に走って行くフィーの背中を見送り、それから顔を戻した。
「何かありましたか」
「うん、ちょっと」
「やっぱり帰ってきてないか」
「ええ」
その返事に頭を掻きながら外に目をやる。暗くなるまでまだ少し時間がありそうだった。フリッガはため息をついて口を開いた。
「探してくる。悪いけどその間に、物知りの彼女に連絡を」
「かしこまりました。詳細は?」
「それなら俺が」
ヴィダが手を上げ、そのまま玄関に目配せしながら手を振ったので、フリッガは「頼んだ」とだけ返すと外に出、砂色のレンガで組まれた階段の多い町並みを走り降りていった。
西の空が赤い。
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