月色相冠 / forget-me-not
藤井 環
1 深い、深い 海の底から
白と黒とを基調にした揃いの服の少年が十人程度。年の頃は十四、五の者が多いが、それよりずっと幼い少年は外へ向かう彼らの流れに逆らいながら、こちらへ走ってきた。
使い込まれた花崗岩の床と白い壁に光が差し込む、広くて明るい廊下だ。重くはないが落ち着いた茶色の髪が、少年の足音に合わせてふわふわと揺れた。
六歳程度に見える。彼は時折立ち止まり、すれ違おうとする少年を捕まえては何か質問をし、また走り出しては立ち止まった。まるでリスか何かの小動物のようにせわしなく目立つ動きをする。少し先にいた彼の探し人はそのままの場所で、時間にすればかなり前から少年の様子を見ていたが、少年があまりに自分に気づかないのでとうとう諦めて手を挙げ、少年を呼んだ。
「フィー」
少年は声に顔を上げ、目を輝かせながら一目散に走っていく。そうして彼は探し人、彼の父親の脚にまとわりついた。息子の頭をわしわしと撫でまわした父親は、それから片膝をついた。それでようやくふたりの目の高さが揃うのだ。
三十代半ばの男である。
「お母さんは」
「海に行った。僕も行きたい」
「だめ。お父さんは仕事中」
少年は食い下がった。どうしたら連れて行ってもらえるか聞くのがあまりにしつこいので、父親は誰の影響だろうなと思いながら一度うなだれ、顔を上げると肩をすくめ、そんなら、と言った。
数字の一を示すように右の人差し指を立てる。手首をくいと曲げて少年の視野の右端を指し、つられてそちらを振り向いた少年に、父親は「違うよ」と言った。少年が前を向く。
「フィーも人差し指出して。そんで同じように。向かい合わせで」
「うん」
「片目つぶってな。指先合わせられるか賭けよう。フィーが勝ったら連れていく。負けたら連れていかない」
「できるよ」
簡単だよ、と言いながら少年は指先を近づけたが、案の定空振りばかりでうまくいかない。むきになって指を何度も突き出し始めた少年に父親は「ほらな」と苦笑して、少年の目の前に指は構えたまま、左手で膝に頬杖をついた。
「お母さん、何しに行ったの」
まだ挑戦を諦めない少年は相変わらず律儀に片目をつぶったまま、視界で右の人差し指を行ったり来たりさせながら答えた。
「人が呼びに来た。ハシラが出たって」
「柱」
「うん、ネコも行っちゃった。だから暇」
「ネコって呼んだら嫌がるでしょ」
「でも
少年は突き合わせた指先が離れないように慎重に、それでも喜びを全身で表現したので、結果としてなんとも言えない不思議な動きをしている。
父親は少し考え、ため息をつきながら「分かった」と言った。繋げられた指先を彼はそのまま渦を描くように動かし、立ち上がる。
「でもちょっとだけ待って。キリつけてくるから、それから一緒に行こう」
満面の笑みで両手を上げ、父親のハイタッチをせびった少年は名前をフォルセティという。まだ小さいために誰からも愛称でしか呼ばれない彼は、軍を数年前に退役し今はユーレ王立士官養成所で実技指導の任に就いているナイト、ヴィダ=シュッツ・コンベルサティオの息子である。
--
柱。
つまり遺体が陸揚げされた、ということである。
その報せを受けたフィーの母親、フリッガ・コンベルサティオは、彼女の家にいる「ネコ」のたっての希望で、彼を連れて港へ向かった。
この国や周りでは、聖職者の多くは紫の目を持つ。
今では海底遺跡くらいにしか痕跡のない、高度な文明が栄えていた時代に人間は「魔法」の源泉を解明した。現代の人間はその源泉を「竜」と呼んでいる。
そして、紫の目を持つ者が聖職者に選ばれるのは、竜と特殊の関係を結ぶことができるからだ。彼らは竜の宿主として、竜の力を借り受け民に分け与える。そして竜はその対価として、この世界に形あるものとして顕現する。
フィーもまた、紫の目を持っていた。彼の母親はこのあたりで最も信仰されている宗教における最高位の聖職者、サプレマである。そしてネコはというと、先代サプレマに引き続きフリッガを宿主とした、風の竜なのであった。
今でこそ翡翠の色をした髪に金色の目を輝かせ、首元には古びたパイロットゴーグルをひっかけたやんちゃそのものの少年の姿をしているが、それでも彼は「ネコ」と呼ばれる。その原因は彼の本来の姿が黒猫だからだ。人間が見つけた限りの竜は、大きさや細部に差はあれ、おおむねが翼を持ち鱗に覆われた姿をしているので、獣の姿の竜は珍しいし、猫のような小さなものとなるとなおのこと。
それがゆえに彼は、見た目は彼より一回り小さいフィーや、フィーを宿主としている地竜翠嵐から、彼が人の姿をしているときでさえ「ネコ」と呼ばれていたのだが、フリッガとヴィダとはそうはせずに彼を律儀に名前で呼んだ。彼がその呼び方を好まないことを知っているからだ。
ネコはかつて先代サプレマに、自分の名前は「うー」というのだと名乗った。
とにかく、ネコの「マスター」であるフリッガは、引き上げられた遺体を前に首をひねった。一見しただけでは性別も分からない。というか「ご遺体」であることさえかなり分かりにくい。
それは、半島に位置する小さなこの国の遥か沖合に沈んでいる、島ほどもある巨大な船の残骸の中から発見されたものであった。おそらくは、その船の乗組員である。
空を飛べるのは鳥だけの現代では想像もつかないが、その船はかつて星と星との間を渡っていたという。今の技術では到底作り出せない積荷と外装とは過去の文明の遺産として、現在この国ユーレで重要な資源とされていた。
それらは海底から引き揚げられ、または掘削され、
ときには武器も見つかり、中でも作りのよいものは王家に献上された。王家はその武器を、王の選んだ軍人に貸与する。そうしてヴィダの手元には現在、対になる剣が二振りあることになった。
とにかく遺体はそういう時代のものであったから、正確な没年など全く不明であった。分かるのは、少なくともここ数百年のものではないということだけである。
にも拘らずそれが海の藻屑になりきってしまわずに遺体と判別できたのは、何がしかの技術により、許された人間以外の生物の侵入を許さないコクピットの中で、これまでの長い時間を静かに眠っていたからだ。
水のほかの何にも邪魔されず。どんなに短くても数百年間を。フリッガはそう考えて思わず身震いをした。気を取り直すように頭を振り顔を上げると、遺体を引き揚げてきた作業員ふたりが怪訝な顔をしていた。彼女は頭を掻いた。
「身元がさっぱり分からないからなあ。埋葬はするけど、名前はいつもの……」
名無しの、といいかけたフリッガをネコが遮った。
「シャハルとシャルム。それとケレト」
「え?」
「この人たちの名前。シャハルとシャルムはどっちがどっちか分からないけど、腕章の痕跡が残ってるのがケレト。あそこに沈んだ船のキャプテン」
普段よりずっと落ち着いた声でそう言いながらネコは、乾き始めた「ケレト」の頭のそばでしゃがんだ。
少年が首にかけたゴーグルが揺れ、藍色のレンズが海沿いの陽光を反射した。
そこに彼らの名前を示すような手がかりは何もなかった。けれどもネコの言葉は確信に満ちて力強い。フリッガは肩をすくめた。
「なんで分かるの?」
ネコは金色の目をちらりと上げた。彼は片手をついて立ち上がり、一度目を伏せてから再び顔を上げ、にんまりと笑った。
「ケレトはオレの前のマスターだよ。マスターのお父さんの、その前のだ」
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