死神のFoot

日回

死神のFoot

 今私は、この世にお別れを告げるための一歩を踏み出そうとしている。


 この街を一望したことはなかった。駅前の賑わい。ショッピングモールで行われているイベント、学校の校庭を走り回る子どもたち、大きなゲームセンターの看板。

 世界は色々なものにあふれ、せわしなく動いている。

 対して、私は緩慢で色味がない。


 昨今の流行り病による煽りを受けたリストラ。私のような可もなく不可のある人間から切り捨てられていく。勤続3年目、頑張るしか能がなく、死ぬほど要領の悪い私は薄々もてあまされている事に勘づいていた。これで弊社がまっくろくろすけなブラック企業だったら少しは言いようもあるが、中小ながら真っ当な会社だったためどうにも言いようがない。私がやってきた残業はだいたい自業自得の残業である。


 このご時世にまた新たな働き口を探さなければならないと決った時、心が折れた。ついていくだけで必死だった現代に、大きなハンデを抱えてまた走りださなければならない。

 とろい私にはこの時代は早すぎる。複雑すぎる。おいてかないでくれ。でも周りのみんなは遊歩道に乗っているかのように過ぎ去っていき、私だけ乗れていないかのように、取り残されていく。


 頼れる家族もいない。頼る友達もいない。頼りになるのは、このビルの高さと重力だけだ。重力が下に向かっているから、私は飛んだ後ぺしゃんこになれる。


 あーあ。ビュービューと風が吹いている。死ぬ前くらいと身なりを整えて一番気に入った服を着てきたが、薄い服とスカートの生地がやたらはためいて動きづらい。

 空模様は晴れと曇りの半々。太陽は出ているが雲が多く出ては隠れを繰り返し、なんとも中途半端。いっそ土砂降りなら悲壮感も出そうなのに。


 死に場所に選んだ廃ビルは、リストラの帰り道にふと見つけた場所。住人と役目を失った、さびれたそのたたずまいに惹かれた、元雑居ビル。それはときめきに似ていた。昨日まで、深夜にこそこそ通いつめ、屋上まで入れるルートを見つけていた。振り返ってみれば、ホラー映画も見れない人間がよくやったと思う。死ぬという目的のためスリルを味わうことを、少しだけ楽しんでいた。


 屋上を囲む、塗装の禿げた白い柵。日光を浴び、鉄板の様に熱されたそれを身をよじりながら越え、いまもたれかかりながらに立っている。


 に立ったとき身がすくみ、怖気づいてしまうのではないかと心配だったが、今のところそれはない。死のうと決めてから昨日まで悔いと未練を考え続けた結果、疲れたから死のうとしているのに考え疲れている自分が馬鹿らしくなった。

 結論、思考停止。楽になる為に死ぬのだから、それが一番楽だという答えを出した。


 眼下を眺める。今は平日の午前。世間情勢もあって、下の歩道も車道も嘘のように閑散としている。

 人に見つかる前に飛んでしまおう。飛んでしまえば後は一瞬。ネットで調べると、飛び降り自殺はその途中に気を失ってしまうらしい。うん。本当にそうなってくれれば何よりも楽。


 3、2、1で飛ぼう。私の気が変わってしまう前に。さよなら私。さよならお父さん、お母さん。私が死んだって聞いたら、二人は泣くのかな。



(3・・・・・・・・)


「ねぇねぇお姉さん」


(2・・・・・・・・)


「お姉さん!あれ?聞こえてない?」


(1・・・・・・・・)


「ちょっとちょっと!聞こえないことないでしょ!目の前で飛ばないでよ!」


(・・・・・・・・・!)


「おいおいおいおい!!!俺が来た意味!!!」



 そして、最後の一歩を踏み出した。空中に身をゆだねる。重力が私の背中を押し出して、固いアスファルトが私を豪速で迎え入れる・・・・・・筈だった。


 重力に押され出した背中が、何かによって掴みとめられる。


「・・・???」


「ハァ・・・ハァ・・・カッコつけて直前に声かけた自分を殴り飛ばしたいね・・・」


 自分の意志でなく体が引き戻される。何事かと振り返るとそこには黒いもじゃもじゃ頭のひょろひょろした男がいた。


「おわあああああああ!!?」

「あっっぶ、あばれるんじゃねえ!!落ちる落ちる!!」


 私は、この男のせいで死ぬことに失敗した。



────────────────────────



 長身痩躯、謎の天然パーマ男に柵の内側へ引き戻された。引き戻される途中、死に失敗したことだけがはっきりとわかり、途端失望し、冷静になって、私がカウントダウンしている最中に彼の声が聞こえていたらしいことに気づいた。死を前に集中しすぎてしまっていた。


 男はひとまず私を座らせて、自分も屋上のコンクリート製の床に腰を下ろした。い、一体

 どこの誰なんだろう・・・?目の前で飛ぼうとしたし、説教でもされるんだろうか・・・。警察とか呼ばれるのかな。


 正体不明の男を前に脳内アラートが警戒音を発し続けていたが、自殺を引き留められた手前、ただ単なる不審者とも断じにくい。むしろ自殺現場を見られた罪悪感が強い。男は白いワイシャツに黒いボトムと、昼休憩中のデスクワーカーにも見えた。だが、デスクワーカーにしては黒い天然パーマの主張が強すぎる気もする。

 にしても、いつからいたんだろう。屋上はもとより、廃ビルの中にも人はいなかったはずなんだけれど。




「ほんと、マジで。危なかったよ。ごめんなさいね、カッコつけようとして。私はこういうもんです」


「え・・・?は、はぁ」


 差し出されたのは名刺。疑問を感じつつも受け取る。そこに書かれていた文字。


『死神局:二等死神  烏丸 丸治』


「死・・・え・・・?」


「あー名前なんですけどね。丸が二つ並んでややこしいんですけどね、苗字はそのまんま『からすま』で、名前は万事丸く治めるって意味で『まるじ』って読みます。いいでしょこの名前」


 男はへらへらと笑いながらに話すが、気になるのはまったくもってそこじゃない。


「はぁ・・・。あの、それより『死神』って・・・?」


「ですよね。まずそこっすよね。はい、お姉さんが知ってる通りそのまんまの死神です。死を司って、死人をあの世に送る死神です」


「・・・・・・・」


 わんわん脳内アラートが最大警戒令を発し出した。これだけアラートが鳴り響いたのは高校のとき、帰り道露出狂に出くわし一目散に逃げ出した時以来。

 勿論一目散に逃げだしたいが、この距離で立ち上がってから逃げ切れる気がしない。

 先程まで死のうとしていたはずなのに、今になって恐怖心がドバっとあふれ出し顔から血の気が引いていく。

 死脳としていた矢先、や、ヤバい人に目を付けられてしまった。何をされるんだろうかゆすられるんだろうか脅されるんだろうか。


 そんな私をよそに男はへらついた笑みを崩さない。意図の分からない笑顔が逆に恐い。


「あーお姉さん表情によく出るタイプだね。ビビりまくってるね。ま、そりゃビビるよね。あのー、あんまちゃんとしてないけど、一応証明ね」


 男は私の表情から恐怖を察したらしく、初対面の子どもに話しかけるような朗らかさを繕った声でそう言って、振りかえり背中を見せた。


 そこにあったのは、黒い翼。


 ワイシャツの白にくっきりと浮かぶ一対の翼は、その艶やかな羽根の一枚一枚が僅かに光を反射しているようで、烏のそれを思わせた。大きさもちょうどそれくらいだ。『からすま』。ふっと彼が名のった名前を思い出す。


「・・・!?な、なんですかこれ」


「死神の翼。いや、メジャーなイメージってローブに鎌だと思うけど、俺たちは実際天使たちと同類でさ。羽生えてんの。あれだね、リークだかユークだかも羽生えてたでしょ?」


「は、はぁ・・・」


 一目見て造り物に思えないくらいには、まるで背中の中に烏を飼っているかのような、リアルな翼。が、彼は私の内に残る猜疑心を見透かしたように、翼を僅かに動かしてみせた。ぱたぱたと翼ははためき、細部の関節が流動する。どうみても、生き物のそれに思える。翼の根元に目を凝らすと、まるでワイシャツの生地と物体同士が干渉していないかのように、切れ目や穴もなく彼の背中から生えていた。


「どう?信じてくれない?なんなら好きなだけ触っていいよ」


 彼の声色が少し変わった。初対面の子供ではあるが、会話の糸口をつかんだ時の様だ。

 私は、猜疑ではなく純粋な興味から翼に手を触れた。死を前にした緊張が途切れ、特段気が緩んでいたからだろうか。


 道端に落ちている烏の羽根とは違う、血の通った羽毛の感触。人工物では決して表せない生体のぬくもり。


 しばし小学生に戻ったように好奇心と驚きで頭の中が埋まった。ついふわふわとまさぐる。彼のくつくつと言う笑い声が背中越しに聞こえる。


「モノホンでしょ。少なくとも、この世で作れるモンには思えないっしょ」


 夢でも見ているのかと思った。だけど、それにしては意識がはっきりしている。もしかしたら私はもう死んでいて、走馬燈的幻覚あるいは臨死体験的サムシングを体験しているんじゃないか?・・・ならこの人が死神を名のることに筋が通っちゃうじゃないか・・・!?


「ほ、本物なんですか・・・」


 おどおどしながらもそういうと、男は達成感を隠さない笑顔ですたっと振り返り立ち上がった。


「モノホンモノホン。お姉さんが死のうとしてるって連絡入ってね。お姉さんっていうか、日比野詩子さん」


 ぎょっとする。ずばり本名を言いあてられた。

 こ、この人がマジで、マジモンの死神だと言うなら。

 改めて、背筋が凍り付く。


 こ、殺されるんだ・・・今から。鎌的サムシングで。こう、スパッと。多分、飛び降りを止められたのは、なんか死に際がぐちゃっとしてダメだったからなんじゃないか・・・!?綺麗にあの世へ連れていかれるんだろうか。スパッと魂だけ切り取られるんだ・・・。


 死神(仮)を前にし、スパッと殺される想像もつかない痛みを想像しようとすると、かいたことのない汗が全身から溢れてきた。

 鎌で切られて死ぬとか、そういえば映画でも漫画でも見たことない。わ、分からない。魂を取るんなら心臓を真っ二つなんだろうか。心臓真っ二つって、どう痛いの?どんくらい痛いの・・・!?


 し、死ぬ決心はつけたけど殺される覚悟なんか1ミリも持っていない・・・!!


 青ざめる私を見下ろして、男はくふっと笑った。その表情は笑いをこらえるようにこわばっている。もしや、哀れな人間を笑っているんだろうか。死のうとしてたことに殺されることに怯えだした私を・・・!


「お姉さん、ほんと表情出るね。死神って信じ始めたら今度は恐くなってきたんでしょ」


「うっ・・・」


 そんなに楽しいのか。面白いのか。怯える人間をながめることが・・・!


「誤解です。誤解」


 ご、誤解・・・・?

 男はこらえきれないといった様子で口角を緩め、ふへへっとこらえていたものを最低限の大きさで吐き出すように笑った。


「殺さないです。死神ですが。つーか、本来死神は“殺したがらない”もんなんです」


「へ、殺さないんですか・・・?」


「ええ殺しません。むしろ死んでほしくありません。詩子さんみたいな人には」


 ・・・・・・。

 ふいに、死神のイメージとは真逆の印象を受ける言葉を投げかけられ、何か、変な感じが胸のあたりで湧き上がった。


「死んで、ほしくない・・・?」


「ええ、生きといてほしいんです。いつか詩子さんが立派なお婆さんになって、臨終するまで」


 ・・・・・・。

 彼の言葉は、とてもあっけらかんとした口調で、何も特別なことを言っていないような感じだった。だけど、其れゆえに、そのために、その言葉がまるで当たり前に放たれたことが、私のどこかに、さくっと音を立てて刺さった気がした。


 彼は頭を掻きながら、飄飄と話す。

「いち死神としてね、見すごせないんですよ。そういう想定外の死。最近アホ程多いんですけどね、処理と始末に死んだ方も死神も苦労する。未練たっぷりのべったり死後は大変です。何があってもね、“ふっと”死なないでほしいんです」


「“ふっと”死ぬ?」


 自称死神さんは、少しだけ歩み寄って目線が合う高さになるよう膝を曲げる。


「ええ、何もかんも嫌になって、どうでもよくなって、勢いに身を任せて、死を『一番マシ』だと決めつけて死んで逝っちゃう人です」


 彼の瞳が、私を見据える。黒に見えていた彼の瞳は、この距離で見るとただの黒じゃないことが分かった。例えば、明け方の空のような。深い藍色が混ざり、奥行きを与えている黒。


「・・・・・・私のことですよね」


「はい。詩子さんみたいな人の事です」


 口元が微笑む。でも目が笑っていない。怒っているわけではない。憐れんでいる。その眼の奥で。そう思えた。


「死ぬのって、ほぼほぼ『一番マシ』じゃないです。そんでほぼほぼ『楽』じゃないです」


「『楽』じゃない・・・」


「ええ、まあいきなり死後の話は胡散臭いんで、現実的な話からしましょうか」


 死神さんはにっと笑い、私の手を掴んで、自分が立ち上がるとともに引っ張り上げる。よろついたが、私もつい勢いで立ち上がった。ちょうど風が吹いて、彼の翼がすこし揺れ、私の長いスカートもぶわっと舞い上がる。


 彼はそのままわたしの手を引っ張りながら白い柵に手をかけ、身を乗り出した。

 あぶない、と言いかけたがどの口が言うのかと思い直して口をつぐむ。

 何かあるのかと近づいたら、彼は眼下の道路を見つめていた。ところで、この手はいつまで繋いでいるのだろうか。そのことが気になっていると、彼はまたふいに、滔々としゃべりだした。


「このビル、5階建てですよね。屋上から落ちたら大体20m。地面にぶつかるときは大体時速70㎞くらいのはず。間違いなくすごいスピードですけど、それがきっちり致命的な所に衝撃として入るかって難しいんですよ」


「・・・・・・」


ああ、やっぱりそういう話か。


「衝撃って、案外逃げやすいんでね。足から着地したら悲惨で、肺心臓頭に助からないけど死にきれないダメージが入るなんてざらです。余命何秒か何分か、虚ろに意識が残って苦しみ続けるとかね。そんで人間はどうしようにも脚で立血続けた生き物なんです。楽に頭から突っ込もうとしても、無意識で脚を使おうとする。実際、飛び降りは脚からの着地が多い」


「・・・・・・あの」


私は、つながれたままの手をぐっとひっこめて、振りほどいた。


「はい、なんでしょう」


 手を振りほどいたことに別段驚かず、私の心中を察していながら、あえて気づいてないふりをするような、妙に取り繕った様子で彼は向きなおった。


「・・・・・・あの、あなたがほんとに死神だったとしても、もう現実から逃げ出したいと思うのは私の意志です。恐がらせようとか、やめさせようとか、勝手に計らわないでください・・・」


 勝手に計らわないで。導かないで。

 甘言、綺麗ごと、正論。見慣れはしたが、それを使う人が私より苦しそうに見えたことはない。そう。多分あなたも、そうやって私を止めようとしてくれるのでしょう。

 でも、その正しさを受け入れたくない。受け入れることに、疲れたのだから。


「・・・・・・」


 彼は口を止めた。しばし、沈黙の間に風の音だけが流れた。

 それでも、やがてまた口を開き始めた。少しだけ、言いづらそうに。


「んーーー、ちょっと違いますね。恐がらせはしたかもですけど。違うんです、死ぬために飛び降りまで吹っ切れられる人なら、もっと痛くない逃げ道を、“ふっと”選べると思うんです」


「“ふっと”・・・?」


「はい。死ななきゃ、“ふっと”逃げるは、いい“ふっと”です」


彼はにっと笑った。こちらのわずかな苛立ちも、むりやり丸め込んでしまうような、気の抜けた笑み。


 ふっと。心の中で口ずさむだけで、気が抜けるような言葉。飛び降りる前にでも、口ずさみたくなるような。


 また何かを見計らったように、また顔をへらつかせながら、ワイシャツの胸ポケットより何かを取り出した。カードのような。あ、さっき貰った名刺っぽい。


「これ、どうぞどうぞ」


 あくまで彼はへらへらと、押し付けるように私に名刺を差し出した。突きつけられたのは5枚。多いな。彼の指の中で扇状に拡げられたそれは統一感がなくカラフルだ。

 私は怪訝な顔をしつつも、恐る恐る受け取り、おずおず名前を見る。


「○○区 わかものハローワーク 相談窓口」

「***メンタルヘルスホットライン 相談窓口担当 ××△△」

「##無料相談窓口 $$%%」・・・



「・・・公共福祉!!」


「はい。公共福祉です」


 あっけらかんと言い放った。見る限り、名刺に書かれている地区名、施設は私の常識に馴染みのあるもので、死神の様な突飛なワードは含まれていない


「え、死神を名のられてましたよね・・・?死神って公共福祉を勧めるんですか」


「いやー勧めるんですよ。時代のスピードについていかなきゃならないんでね。こっちも」


 やはりへらへらと、左手で頭の後ろを掻いている。

 一時的に感じていた信憑性がぼろぼろと消え去っていく。そもそも、流されに流されてしまっていたが、知る限りこの人は背中に不思議な羽根をつけてる人でしかないのだ。どう死神だというのか。まあ、本名こそ知られていたけど・・・・。


「あの、そりゃこういうところがあるのは知ってますけど、それが楽な逃げ道だっていうんですか・・・?今の世の中じゃ、どんな道だって大変なのに」


一旦彼が死神かどうかは構わず、というかどんな変人だろうと伝わるであろう、私的な反論を述べる。


「ええ、はい。福祉は逃げた後で頼らせてくれるとこですから。大変なことは大変でしょう。まぁでも、今までちゃんと自立して働いてきた詩子さんにとって無理な道じゃないと思いますけどね」


「何を、知った風に・・・」


「すいません。まあでも、どう思われようと本音ですよ。今は『もう無理』かもしれませんけど、すこしでも楽になれば『無理じゃないかも』ってときが来ると思いません?」


 彼は白い柵にまたもたれかかった。風と戯れるように、体を回して上体をもたれかからせたり、また戻って背中を柵に預けたりしながら。子どもが友達を遊びにでも誘うような、軽い口調で話す。ワイシャツがわずかに風に膨らんだり、翼が風になびいたり。奔放という言葉が似合っていた。でも、その奔放さは今の私にとって愉快なものじゃない。


 甘言の匂い。無責任な綺麗ごとの匂い。


「楽にって、どうすれば楽になれるんですか・・・?どう生きたって、疲れるのに、疲れてきたのに・・・!!」


 ああ、そうだ。昔から人が怖い。社会が怖い。早すぎて、容赦のない彼らが。なのに、なぜ私は生きるというレースを走り続けている。成績も功績も、遺せる当てもなく。


「っすね。ですから、そのために俺が来まして。おひとつ、あなたに死神から楽を提供させてほしいんです」


男は詐欺師の様に劇場的な身振りで柵から跳ね起き、少し身をかがめ、私の前に指を一本突き立てた。


「────話してもらえませんか、詩子さんが抱えてるうっ憤全部」


「は・・・?」


 男はもう一度柵に背中を滑らせて、地面に腰を落ち着けた。


「全部聞きますんで。大丈夫、個人情報とかプライベートはご心配なく。死神なんで、現世に話が漏れたりなんてことはありません」


「えっ、あの」


「ささ、お構いなく。ぶっちゃけちゃいましょう。どんな話だろと聞きますんで。ふっと、勢いに任せて、ね?」


「いや、ですから!」


 私は抱えていた憤懣をぶちまけた。


「訳わかんないですよ!死神とか名のるくせに、私を死なせるでもなく、窓口教えてきたり、話聞くとか言ってきたり!なんですか!カウンセラーごっこですか!?あなた、ほんとは何なんですか!?人が死のうとしてるのに、奇をてらってるだけなんですか!?」


 なんとも、締まらない怒り。それでも、こっちは命を捨てようとしているときに、軽んじられながら助けられるような気がして、苛立ちが収まらない。


「ほんとに死神を名乗るなら、はやく地獄でもなんでも、連れて行けばいいじゃないですか!私には、この世の方が地獄なんです・・・・・・!!」


「・・・・・・それはなぜ?」


 私がぶちまけている間一言も発さなかった彼は、一息にしゃべり終わったのち、少しだけ首を傾げ、促すようにそう問いかけてきた。瞳はわたしの目を見据えている。そこに責めるような色はなく、やはりただ吸い込まれるような深い藍色があった。


 僅かにためらったが、先までの言葉が呼び水になってか、溢れるように言葉を吐いてしまった。


「得意なこともない、誇れるものもない、頼れる人も場所もない。実家からは逃げるように出てきて、もうどこにも戻れない、働いてもお金は足りないし、時間も無くなるし、どんどん取り残される、ついていけないんですよ!誰にも!どこにも!」


 情けない、その言葉。口に出した事で、自分の矮小さが形になって頭の中に見えたような気がした。


「・・・・・・日比野詩子さん。宮城のご実家は大分困窮されてたんですよね。高校時代はバイト詰めで、そのお金は殆ど家計に回っていた。お父さんから、ときに暴力を受けることもあったそうですね」


「え?なんで」


 急な彼の言葉にビックリした。事実だ。

両親はともに町工場の下働き、私のバイト代を合わせないと家は回らなかった。そして、そんな家庭の大黒柱の、どうしようもない遣る瀬無さは、酒にぶつけられ、賭け事にぶつけられ、ときに私にぶつけられた。


 両親は、高校卒業後も私の事を頼ろうとしているらしかった。それが怖くて、両親の知らぬ間に都市部の起業へ就活をし、なんとか3年務めた弊社に入ることができた。給料がいいとごまかして、逃げ出した。自宅の住所は両親に教えていない。最初こそ追いすがられたが、最近では両親も諦めたようで、連絡もめったに取らなくなった。


「なんで、それを」


「死神局の色々ですね。こっちに来る際、少しだけ対象者である詩子さんのことを教えてもらいました。よく、自立できるまで一人で頑張られましたね」


その言葉にはさっきまで纏っていた軽薄さはなく、本当にそう思っているかのように感じられた。だが、だからこそ、そういう台詞なんじゃないかと、まともに受け取れない。


「・・・逃げた、逃げただけです」


「ほらやっぱり、逃げ切ってるわけじゃないですか。一度、しっかり。逃げ出して、逃げ切る脚力って立派なもんです」


「・・・そんな、褒められるようなものじゃない」


「逃げるが勝ちって言います。もし森の中でクマと出くわして、何とか逃げ切った人を、臆病者呼ばわりする人もいません。すごいんですよ、あなたは」


 ・・・・・・。

 意図は分かる。私を踏みとどまらせたいための誉め言葉、お世辞。たとえ偽善であろうと、存在はしているだろう親切心にさえ、ひねくれた私の心はささくれ立つ。それでも、久しく受けていなかった肯定の言葉に、私のひねくれ乾いた心は意志に反してうずいていた。


「無理じゃなければ、話していただけませんか。なんでもいいので、詩子さんの事。話したい事で良いです。プライバシーのこともあって、死神と言えど知れるのは大まかな事なんです。詩子さんがどういう風に生きてきたか」


「なんで、よく分からない人なんかに・・・。よく知りもしない人に」


「よく知らないからです。俺死神ですから、今後関わることもないって考えると話しやすくありませんか」


 ね、ね、といった風におどけつつも表情は話の続きを促している。


 ああ、正直なところ堰は切れかけていた。

 多分この人は、なんであろうと最後まで聞いてはくれるのだろう。死にかけた人間を引きずり戻して、ぺらぺらと話を始める、どう転んでも変人な好事家ではある筈だから。


 吐き出した言葉が空を切らず、誰かに受け止められるというだけで、話すという行為に救いがある気がした。受け止めてくれる動機などこの際構わない。言葉に着地点があるだけで、私が吐き出したい胸のモヤモヤが死なない気がした。


「私は──!」


 口を開いた。わたしの意思より前のめりに、言葉が溢れ出していった。



────────────────────────



 登りきっていない筈だった太陽が、すっかり中天に登っている。多かった雲はどこかに流されたようで、遮るものの無くなった太陽が燦々と屋上に照り付けている。眩しくて、暑苦しい。



 わたしは多くのことを彼に話した。中学生時代のいじめのこと。今やどこでどうしているかも分からない数少ない友達のこと。小学生の頃、旅行先で家族喧嘩したこと。家庭で振るわれた暴力、胸ぐらを掴まれ鼻先まで迫った父の顔面の恐ろしさ。都会に出て、危ない目にあったこと。職場での、人間関係。


 取り止めはなく、時系列もめちゃくちゃ。年月により腐敗した、感情の濁流。

 突拍子もなく現れた、目の前の死神への当て付けもあったかもしれない。彼の飄々とした風体に、嫌悪が浮かび偽善の仮面が剥がれることを黒く期待した。

 それでも、彼は静かに、適切に相槌をうちながら、ついにその態度が歪むことはなかった。どんな話でも聞くといった通りの、せせらぎのような澄んだ態度。


 胎の奥まで吐ききったのち、私はへたり込むように座り込んだ。今、空を見ている。見ず知らずの人に濁流をぶつけたという、今更な自己嫌悪感が湧き上がってきた。


 ふっと、短く息をついた。


 小さなため息のようでもあり、久方ぶりにできた、まともな呼吸のようでもあった。


 やけに空気が澄んで感じる。肺と胎に入る酸素の鮮度が分かるような。吐ききってみれば、なぜ今まで吐き出さなかったのかと、あっさり思えるほどだった。


話し終わってからしばらく、静寂が廃ビルの屋上を包み込んでいた。私はただ、吐きだした余韻に浸っていた。昂った感情が静寂と風によってゆっくり、ゆっくり冷まされていく。


私が落ち着くころを見定めていたのだろうか、十分に静寂が流れきった後。彼は、何気なく聞いてきた。


「詩子さん、ご趣味はありますか?」


「趣味ですか?・・・読書です。たくさんは読まないけど・・・」


「なるほど。好きなジャンルとかあるんですか?」


「なんでも読みますけど・・・そうですね、ヒューマンドラマ・・・とかですかね。@@ €€€とか・・・」


「☆☆ ♪♪とか?」


「ああ、そうです!☆☆ ♪♪とか。++ ××とか・・・」


「☆☆ ♪♪、もうすぐ新刊出ますね」


「ああ、そういえば、そうでしたね・・・」


 そうだった。約ニ年ぶりの新作。執筆中と知ったときから、楽しみにしていた。ご時世によって刊行が遅れていたけど、そっか。そうだった。


「新刊、読みたいですか?」


「・・・・・・。読みたくなっちゃいましたね。烏丸さんのせいで」


 クスクスと嬉しそうに彼が笑った。


「なによりです」


 彼が呟いた。


「ありがとうございます。なんだ、ほんと、死ぬより『楽』になりました」


 私は呟いた。


────────────────────────



 はたと、自分が空を見上げていたことに気づく。暑さのせいだろうか、意識が少しだけ朦朧としている。


 何してたんだっけ。


 ああ、そうだ。死のうとしていた。

 そこを、偶然居合わせた烏丸さんに止められた。

 ポケットを弄る。あった。


『〆〆印刷 営業部 烏丸 丸治』


 長身痩躯に天然パーマで、最初は少し慄いたけど、元福祉業の方で親身に話を聞いてくれた。

 思わず吐き出してしまった、ドロドロした身の上話も静かに受け止めてくれた。

 色々窓口とか教えてくれたっけ。


 おかげで、飛び降りる気はなくなった。


 なんだっけ、あの言葉。

 気の抜けるような、楽になるような。

 そう。


「ふっと」


 肩から力が抜ける。


 日差しは容赦なく照り付けている。色々と気が楽になってみると、今度は暑さが苦になってきた。どこか、涼しい場所に逃げ込もう。


「ふっと!」


 その言葉を掛け声にして、立ち上がった。やけに体が軽く感じる。

 視界に広がる街の光景は、いつものように忙しない。車が、電車が、人が、早足に動いている。

 それでも。

 電車が駅に止まった。車が小さな渋滞を作っている。こどもとおばあさんが、ベンチに並んでアイスクリームを食べている。


 落ち着いて眺める街の景色は、いつもより早くなく見える。


 暑い。


「アイス食べよう」


 誰もいないけれど呟いた。だから言葉は私にしか届かなくて、口の中にアイスの冷たさと甘さが想起される。


 そして、アイスを食べたら、烏丸さんからもらった窓口の番号に勇気を振り絞って電話してみよう。

 新刊、買いたいし。

少し、また頑張ってみる。


 あ、頑張って電話をするなら、その勢いで、あの子にも勇気出して電話してみようかな。久しぶりに。


「ふっと!!」


 できないよ、と言いかけた自分を飛び越すように、私は一歩目を踏み出した。掛け声とともに。


 ゆっくりと歩き出す。



────────────────────────



「カウンセラーだって。その通りだねえ」


 電柱の頂上に立つ、奇怪な、長身痩躯、黒髪天然パーマの男。背中には、ある筈のない烏のような黒い翼が一対。


 騒動の一つでも起きそうな光景だが、眼下を行く通行人が騒ぎ出す気配はない。どうやら、男が見えていないようだ。


「にしても、死神しか間に合わない死の間際なんて悲しいことですよ、ほんとに」


 男は何かを憂い、ひとりごちる。

 彼の黒いボトムから、着信音が鳴った。男はおもむろにスマホを取り出し、耳に押し当てる。


「えぇ。はぁ。またですか」


 ふっと、彼は短いため息をつく。すると、彼の背中の翼は、烏のそれぐらいの大きさから途端、その長身を羽ばたかせるに足りそうな翼長へと変大する。


 ばさりと音が鳴ったが、未だ誰も気づく気配はない。


「死神もついていけるのかねぇ、この時代に」


 またそう呟いて、男は真昼の蒼天に飛び立った。

 行く先を知る人間はどこにもいない。

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