鍵の夢
今日の礼拝が終わり、人々が席を立って帰り始めると、途端に慌ただしくなった。フィフラは合間を縫って募金箱を差し出したり、大聖堂の椅子に忘れ物がないか見て回ったりしていたが、足の悪そうな老婆が一人、よろよろと震える足取りで去っていくのを見かけて、フィフラは手を貸した。
「おばあさま。大丈夫ですか?」
「ああ、ありがとう。お前……ヨキの祝福だね」
老婆は鮮やかなフィフラの髪を一瞥し、嗄れた声でそう言って微笑んだ。
「ありがとうございます」
「大聖堂の子かい」
「はい。ここで暮らしています」
「そうかい」
階段は難儀だろうからと、出口横の緩やかな傾斜通路まで誘導し、別れようとした時だった。
「いい子だ。お前にはヨキの御加護があるだろう。これを」
そう言って彼女が懐から差し出したのは、真鍮製の、ごく簡素なつくりの鍵だった。紐を通すための輪っかが棒の端にくっついた、情けないほど単純な。
「え?これ……」
「持っていなされ。いずれ役に立つ時が来る」
驚いたが、見知らぬおばあさんから鍵を貰う理由などない。手の中の鍵をまじまじと見つめていたが、自分は聖堂の人間だし、聖堂への寄進以外で物を貰うのはバツが悪いので返そうと顔を上げた。しかし、目の前にはまるで最初から誰もいなかったかのように、老婆の影も形もなかった。
「嘘……」
足の悪い老婆だったはずだ。今の一瞬でどこかへ消えられるはずがない。ぞっとして手の中の鍵を見つめた。にぶい金色に光っているそれを、ひとまず自分のエプロンのポケットに突っ込んだ。誰かに見咎められても、なんとも言い訳ができない気まずさで、フィフラは急いで聖堂の中に引き返した。今見たものがなんなのかわからず、自然と足早になる。うまく呼吸ができなくて、胸がドクドク脈打つのがわかった。
「ねえフィフラ」
「なに?」
部屋に備え付けられた簡易の鏡台の前に座って、寝る前の習慣で髪を梳かしていると、同室のミラが話しかけてきた。
「今日何かあった?」
「え?」
「なんだか上の空じゃない。礼拝客に文句でも言われた?」
核心を突かれてどきりとした。そんなに顔に出ていたんだろうか。
「ううん、そんなことないけど……なんか、白昼夢でも見てたみたいで」
「白昼夢?疲れてるんじゃない?白湯とかもらってこようか」
気を遣わせるのが悪くていいよと言ってみたが、ミラは私も欲しいからといってベッドから抜け出していってしまった。しばらくして、陶器のマグからこぼさないように慎重に、しかし足早にミラが帰ってくる。本当はホットミルクだともっといいんだけど、とため息をつくが、そんな贅沢が許されるのは風邪を引いた時だけだ。
「ううん。ありがとう」
「どういたしまして。ああでも、ジンジャーシロップをちょっとだけ混ぜてもらえばよかったなあ。ぽかぽかになるし」
ミラとこうして白湯を飲みながら、そのうちおやすみと言い合ってベッドに潜るのはこれが初めてではなかった。ミラもまた孤児で、大聖堂の前にまだ幼児の頃に置き去りにされて、ここで暮らしている。他にも子供は数人いるが、ミラは年長でこそないものの、ここにいる時間は誰よりも長かった。
「それいいね。おいしそう」
「でしょ?ジンジャーシロップも、ねだればもらえそうだったけど……最近ほんとに倉庫の中もなにもかもすっからかん。戦争だもんね。市もどんどん高騰してて……やっぱり帝国の方が強いみたい」
調理の手伝いでも働いているため、食材の状況に詳しいミラがため息をつく。
今この国は戦争の真っ只中だ。とはいえフィフラの住んでいるこの街は、国の中でも特に末端の辺境なので、内地の方の戦争の情報はあまり入ってこない上に、オレインの平原があることもあって、人々、特に大人たちは流通の心配をするくらいで非常に呑気なものだった。
オレインの平原とは、この街を抜けてすこし行った一帯の土地のことで、雷が常に降るため、特別な装備なしに通り抜けることはできないのだ。はるか昔雷神オレインが、ここをねぐらとしていたからだとお伽話で伝わっているが、実際は地理的なものらしい。山の狭間に吹き上げられる風と雲の影響で一年中雨が降っている上に平地なので、人が立っているだけでも危ない。逆に言えば、だからこそ安全だった。この地を通ってまでやってくるものはいなかったからだ。
「聞くところによると、帝国が海側から攻めてくるらしいって話もあるよ。1週間前の新聞しか手に入らないから、司祭様が読んでる内容を聞いたの」
「そうなの?」
「でも海側なんてあんな複雑な入江なんだから、船なんかそうつけられないよね。だから品薄で困ってるんだし……」
この街は、海には面している。街自体が高地にあるとはいえ、陸側からの到着が難しい一方、海は近いのだった。ごく浅い入江なので、多くの船が停留できる港のような場所ではないが、それで細々ながら輸入を行っていた。ここが、帝国から狙われているのではないかと噂が出回っているらしい。
「やだねえ戦争なんて。ヨキの御加護がありますように」
ミラは胸の前で手を組んで、そのままベッドに倒れ込んだ。
そうなれば、どうやって逃げていったらいいのだろう。
その日の夜、フィフラは夢を見た。どこか重厚な扉の向こうから、開けてくれと声がする。男性の声だ。なんとなく見覚えがあると思っていたら、聖堂の中の、普段人が入ることのない地下への入り口だ。聖人の棺桶や権力者の個人的な祭壇などがしまわれてあるから、一般に公開はしていない。ポケットに手をいれると、今日現実で老婆からもらったあの鍵が入っていた。よくできた夢だ。でもそれは、取り出した瞬間からみるみるうちに形を変えて、あっという間に重厚で繊細な装飾のついた鍵に変わってしまった。
フィフラは迷った。これで扉を開けても良いのだろうか?この扉の向こうにはいったい何がいるんだろう。
そこで目が覚めた。
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