火の神は願いを聞き入れた
あんな夢を見てしまったせいか、一日中どうも落ち着かなかった。
フィフラは結局、夜ご飯を食べて祈りの時間が終わった後、皆の目を盗んでそっと大聖堂へ引き返した。最低限の明かりだけが灯された大聖堂はほとんど真っ暗で何も見えない。入り口に用意されている予備の燭台と蝋燭を手早く組み立てて、火を移した。
ポケットに手を突っ込んで、鍵の感触を確かめる。ちゃんと鍵の形をしている。自分が掲げた蝋燭の明かりで、綺麗に並んだ礼拝堂の椅子の背もたれが艶々とゆらめいた。誰かが来る前に急いで確かめてしまおう。
まずは祭壇の端の裏方へ続く木の扉を開けて、狭い通路を通り抜ける。その先の人一人通れるくらいの鉄製の螺旋階段を降りた先に、その扉はあった。夢の中であれほど鮮明に見たのが不思議なくらい、フィフラには馴染みがない。金の装飾で縁取られ、厚い木で作られた両開きの扉に、頑丈な閂がはめこまれて、それが鎖でぐるぐる巻きにしてある。その鎖に錠前がついていた。
ポケットから取り出した鍵を錠前の前にかざしてみるが、見れば見るほど貧相な鍵だったので、とてもこの錠前を開けるための鍵とは思われなかった。やっぱり夢だったんだ。フィフラは残念なような、安堵したような気持ちになった。あんなこと実際におこるわけがないもの。
幸い、ここに入ってまだ五分と経っていない。長居して誰かに気付かれないうちにと、踵を返して戻ろうとした。
「開けてくれ」
その時。
背後から声がした。男性の声だ。
フィフラはぞっとして、指先からさあっと血の気が引くのを感じた。間一髪燭台を取り落とすことはなかったが、足がこわばって動かない。その不鮮明な声音から、すぐそこではない、扉一枚隔てた先から聞こえてくるのを確信した。くぐもった、どこか遠い声。
「誰?」
相手に聞こえたか聞こえなかったかわからないくらいかぼそい声で、フィフラは誰何した。
「鍵を。持っているんだろう。開けてくれないか?」
「誰なの?そこにいるの?」
「気づいたらここにいたんだ。暗いし腹は減ったし、はやく出たいし」
微妙に噛み合わない会話をしながら、フィフラの心臓は早鐘のように打ち続けられていた。鼓動の方が大きく感じられるほどに。
気づいたら?一般公開していないこの地下の部屋に、誰かが閉じ込められているわけがない。大聖堂の関係者が誰か誤って入ってしまって、そのままなのだろうか?それにしても、外側から頑丈に鍵をかけているのに、その間に気づかないなんてことがあるだろうか。
「こ、この鍵、でも、合わないと思う……形が」
「いや、開く。俺の鍵だ」
いやに自信満々の口調で促すので、フィフラは言われるがまま、震える手で鍵を鍵穴に差し込んだ。本当にこんなことをしていいのか、一体誰がこの奥にいるのか、開けてしまったらなにが起こるのか、ぐるぐる考えていると後悔で鍵を取り落としそうだった。その瞬間、簡素な鍵が指の間でにゅるりと形を変えて、鍵穴に嵌ってかちり、と音がする。
フィフラは息を飲んだ。まるで魔法みたいに、鎖が自分から蛇のようにうねって、閂から離れて地面に落ちた。重たそうな閂がごとごと言いながら勝手に開いていく。フィフラは一体何が起こるのかわからなくて、茫然と立ち尽くした。扉が開く。真っ暗なはずの扉の向こうから、あたたかな光が漏れ出した。
目を奪われたのは鮮やかな赤い髪だった。内側から炎が揺らめいているように見える不思議な色の長い髪が、ふんわりと肩口から背中にかけてを彩っていた。黒っぽい衣類をざっくりと羽織っている目の前の男は、どこか野生のしなやかな生き物に似ていた。どこから取り出したのかわからない火が、彼の持つ銀の燭台に点っている。光原はたったそれだけのはずなのに、まるで昼間のようにあたりが明るくなる。
緑柱石の色をした瞳がフィフラを見下ろして、すっと細められた。
「祝福の子」
手が頭に触れた。そのままくしゃくしゃと撫でられる。
「お前の火が毎朝俺を照らした。礼を言うぞ」
「え?」
「ともかくここから出よう」
突然彼は長身をかがませて、フィフラの体を抱き上げた。何が起こったのかわからず声を出せないでいると、彼がパチンと指を鳴らす。その瞬間、地下にいたはずのフィフラは大聖堂の前に戻ってきていた。
「……!?」
その瞬間移動に驚く前に、フィフラの眼前には壮絶な光景が広がっていた。
熱い。火がついている。生木の燃える匂い。そして、血の匂い。
「戦か?」
大聖堂の階段を降りた先に、みんなが植えた木々に火が移って、尽く葉を落としていた。大勢の人の気配がする。入り口から村へ続く正門までまっすぐ引かれた道に翻る旗は、帝国のものだ。フィフラにもわかる。
来てしまったのだ。昨日の夜ミラと話していた帝国軍の襲撃が。司祭様は一週間前の新聞を読んでいたと言っていた。
ミラ。司祭様。みんな。
灰が舞う中で、フィフラは男の腕から抜け出そうともがいた。だが男はフィフラを離してはくれなかった。
「まだいたぞ!」
「殺せ!」
そこかしこから怒号が聞こえてきて、あっという間に兵士たちが男とフィフラを取り囲んだ。ひどい血の匂いだ。炎のオレンジ色の明かりを反射して、彼らの甲冑がてらてらと光った。
「この地は帝国が支配する。抵抗するものは殺せとのお達しだ」
兵士のひとりから血に塗れた剣先を向けられ、赤い髪の男は不快そうに眉を寄せた。
「神を祀る地まで血で汚すとは。よほど信仰心がないとみえる」
「黙れ!」
「司祭たちがいただろう。彼らをどうした」
「異教徒など生かすに値しない」
笑いながら大声でそういった兵士につられ、他の男たちも下卑た笑い声を漏らした。それを聞いて、フィフラは全身の血がさあっと引くのを感じた。なにもかもが焦げついて燃える匂いがする。神殿の祭壇の燭台に点火する時とまったく同じ火なのに、もっとずっと恐ろしかった。生臭さが鼻について、気分が悪い。
また誰もいなくなってしまったのか、とフィフラは思った。今ここで殺されるかもしれないことよりも、みんながいなくなってしまったことの方が衝撃が大きかった。自分にずっとよくしてくれた司祭様、見習いの人たち、自分と同じような境遇で、ここで働いている人々が、みんな。
また失われてしまう。
「祝福の子」
こんな状況とは思えないほど落ち着いた声で、傍らの男は言葉を紡いだ。
「お前の火が毎朝俺を照らした。お前の願いが俺を呼び起こした。俺の一部を受け継いだ、祝福の子」
彼の指先が、俯いた自分の髪の先に触れるのを感じる。
「俺の名はヨキ。俺は人の願いを叶えるもの。人の世に火をもたらし、凍りついた大地を溶かすもの。人の願いを受け、人のために戦う半人の神」
男はいう。まるで呪文のように。唇がきれいに弧を描いた、不敵な笑みをうかべて。炎のような髪がゆらめく。見上げた先の、緑柱石の色をした瞳の奥で、炎が燃えている。瞳の奥で渦巻く焔が爆ぜている。
「祝福の子よ。俺に願え」
人の祈りが、本当に神を動かすというのだろうか?
「私の願いは」
もうフィフラに残っている願いはこれしかない。涙で、うまく言葉が出てこない。それでも。
「助けて。もう失いたくない」
突然円形に湧き上がった炎が兵士たちの陣を吹き飛ばした。先ほどまでの兵士たちの余裕のある態度が消え、途端に阿鼻叫喚の地獄図になる。たちまち火傷を負い、地面を転がり回った。集まってきた兵士たちが、さかんにマントで移った火を消そうと試みたが、ヨキの火は風や土で消すことのできない自在の炎だった。なすすべもなく追いやられて、兵士たちは散っていく。
「失せろ!消し炭にされたくなければな」
フィフラは全てを見届ける前に、意識を失ってしまった。
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