【第2章―聖典騎士団―】

ACT14 記憶の夢

 夢を見ていた。漠然とした記憶の夢を。

 目の前にある全てが大きくて、自分自身はまだとても小さかった、幼い過去。

 夢で思い出す過去の断片は、いつも同じ場所から始まっていた。

 冷たい水溜りの中に投げ出され、蹲って震える一人の少年。

 もとは美しい燃え盛るような炎のような赤色をしていた髪は泥塗れになって乱れ、着ていた衣服もぼろぼろに引き千切られて褐色の肌が露出している。焦げ茶色の瞳は涙に潤み、その表情は悲痛によって醜く歪んでいた。冷えた泥と雨水は身体から止め処なく体温を奪っていく。それだけでも苦痛だというのに、全身の傷が冬の刃のような風に吹きつけられるせいで更に激しく痛んだ。それでも、屈辱に声を上げて泣くことだけは頑なに拒んだ。泣き叫ぶことは、敗北を意味しているのだ。

(泣けば、あいつらはもっとつけあがって攻め立てる。なら、ただされるがまま波風立てず、ひたすらに耐え続ければいい。そうすればいつかは飽きるだろうから――)

 それが、幼かった頃の彼が経験によって培った処世術だった。

 赤い髪に褐色肌と言えば、聖典騎士団が結成される以前より蒼き聖女ウェンデレリアに仕えてきた由緒正しき騎士の家系たるエスカウィル家の、勇者の血を引いている証であった。

 しかし、彼は弱かった。そして誰よりも臆病だった。あの度胸試しである学園の古城に入ることも、見ることすらも怖かった。

 その一方で彼の兄はエスカウィル家の名に恥じない文武両道に秀でる優秀な生徒だった。既に騎士選抜候補生の筆頭にもあげられている彼の兄は、彼にとって憧れでありりつつも常に劣等感を抱かせる存在だった。

(きっと、生まれる場所を間違えたんだ)

 彼にとってその赤い髪も、褐色の肌も、深緑色の瞳も、憎悪の対象でしかなかった。

「弱虫」

 誰かが、そんな言葉で彼の心を突き刺した。

「お前、本当にあのルーゼイの弟かよ」

 身体を傷つけられるよりも、ずっと辛かった。

「英雄の末裔の癖に、何も出来ないんだな」

 と――

「卑怯者!!」

 声高に、そう叫んだ言葉が彼の耳に届いてきた。

 途端、差し向けられていた攻撃がぴたりと静まった。

 彼を囲んでいた子供達が散り散りになり、人垣に隠されていた陽光が傷を癒すように暖かく降り注ぐ。

「もう大丈夫。あんな奴等のことなんて気にしちゃ駄目だよ」

 溌剌として言い、手を差し伸べたのは少女であった。

 澄み渡る青空のような蒼い瞳に、赤いリボンで纏められた光に煌めく金色の髪。

 彼と同じ黄色い制服を着ているが、その年齢は彼よりもずっと幼い。だがその少女が持つ威厳は、まるで聖女の騎士か、はたまた聖女そのものようでもあった。

(聖女様だ)

 彼は、その陽の光を背にする少女の姿を見て、率直に思った。

 夏の花のように燦然とした笑顔を向ける彼女はまさに今、自分を窮地から救い出す為に天の国から降り立ったのだとすら思った。

 少女は自分の制服が汚れることも厭わずに、彼の髪や衣服にこびりついた泥を丁寧に落としていく。

 彼は抵抗することなく彼女の行動を受け容れた。

 一緒に自分の荒んだ心すら濯いでくれるような気がした。

 跪く彼と、手を差し伸べる少女の構図は、さながら儀式であった。

 自然と涙が出ていた。

 けれど哀しみの涙ではなかった。こんなに優しくしてくれる人なんて居なかった。誰もが彼を英雄の末裔の名に相応しい者とする為に厳しく、きつくあたった。出来損ないと言われ、家の恥と揶揄され、弱いと知れば嘲り、罵倒された。

 なのにこの少女は、そうしなかった。

 あまつさえ笑顔で接してくれた。

 彼はそれが嬉しくて、泣いていた。

「ほら、もう泣かないで」

 少女は彼の頭を撫でながら言った。

「たったひとりで耐えてきたんだよね。頑張ったんだよね。えらいえらい」

 ふと、少女は気配を察して顔を上げた。

 がさり、と草叢をかきわける音がした。

「そこに居るのか、ディア!」

 大人の男の声だった。

「やば、アスキス先生だ……私、次に見つかったら反省文二十枚って言われてるんだ。君も早く逃げたほうがいいよ」

「あ、あの……」

「ひとつだけ言っておくね。君、とっても強いんだよ。私が言うんだから間違いないよ」

 少女は彼の額にキスすると、「じゃあね」と言って逃げるように去って行った。


 彼は、青年になった今でもその日の事は忘れていない。

 だからこそ、強くなれた。

 時を経て、再び出会った時には、剣を交えていた。

 彼は、まだ少女に勝てずにいた。

 きっとこれからも、勝てないのだろうと思っていた。

 しかし少女は、彼があの時の少年だという事を、まだ知らない。

 打ち明ける機会は何度もあった。けれど彼は言い出せなかった。

 そうしてそのまま、彼は少女を置いていった。

 次に会った時は、今度こそ話そう――

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