第3話 覚醒


「さて、完成間近となった東京湾メガフロートですが──」


「やはり環境の問題も考えてですね、国にはしっかりと──」


「いやいや、そこはやはり大門司さんが──」


「…………」


 テレビから漏れ出る夜のニュース番組を、誠は居間で流し見ていた。

 時刻は午後六時を過ぎた所である。

 どうやら番組では今年東京湾に完成するメガフロートと、それの作成を数年前に指示したらしい政治家の男について話し合っているようだ。


「はぁ」


 だが、誠の関心は其処には無く。

 今の彼の心は、右手に嵌められた指輪に夢中となっていた。


「結局外れなかったな、これ」


 つい一時間ほど前、二階の部屋で見つけた指輪。

 何となくそれを嵌めた誠は突如幻聴が聞こえ、更にはその指輪を外せなくなってしまっていた。

 誠は一階に降りると、直ぐにそれをあらゆる手段で再び外そうとしたのだが……。


「はぁ……」


 結局指輪は外せず、誠は本日何度目かの溜息を吐いた。

 あれ以来特段変わったことも起きてはいないのだが、誠はこの指輪に気味の悪さを感じていた。

 

「一体何だったんだろう、あの声は」


 二階で聞いた地面の底から響いてくるような恐ろしい声。

 それを思い出し、誠は身震いした。

 まるで捕食者に狙われるネズミの様な、そんな気分にさせられる声だった。


「そういえば、メガフロート建造のきっかけとなった例の事件からもう少しで三年が経つわけですが──」


「あぁ、あの令和最大の不祥事と言われた事件ですね、確か──」


「当時、公安警察職員だった閼伽井容疑者による──」


 テレビに、男の写真が犯人として映しだされていた。

 それを見た瞬間、誠は即座にテレビを消した。


「…………父さん」


 三年前、誠の父は逮捕された。

 逮捕容疑は外患誘致罪。

 海外のとある国と共謀し、日本を危険に陥れようとした大罪人としてだ。

 突然の事だった。

 当然、母は抗議した。

 だが……。


「やめよう、もうこのことを考えるのは」


 心に深い影を落とす思い出を振り払うように顔を横に振る。

 そこでふと、誠はおかしなことに気が付いた。


「……テレビが消えてない」


 先ほど、確かにリモコンで消した筈のテレビが点いたままだった。

 画面も先ほどのままである。

 だが……音も無く、映像も父の写真から先に進むような気配がない。


「壊れたかな、中古屋の安物だし」


 何度もリモコンを押すが、テレビは一切反応を返さない。

 仕方なく誠は立ち上がり、テレビの電源を押しに行った。

 

「ん?」


 だが、やはりこちらも何度押してもテレビが消える事は無かった。

 やれやれと頭を掻くと、今度はテレビの電源を抜いた。

 しかし……。


「…………なんだこれ」


 テレビは先ほどと同じ画面のまま、まるで時が止まったかのように停止していた。

 誠は今右手に持っているテレビの電源は、確かにコンセントから抜けている。

 気味が悪かった。

 更には……。


「携帯も動かないのか……」


 時刻を確認しようと、ポケットに入れていたスマホを取り出すと電源ボタンを押す。

 だがスマホは一切の反応を返さない。

 完全なる無音の空間だった。

 外界からの音も、先ほどから二階で作業をしている音も何も無かった。


「一体何が起きて──」


 誠が困惑している、その時だった。


「きゃぁぁぁぁ!」

 

 二階から母の叫び声が聞こえた。


「母さん!」


 誠は、即座にスマホを持ったまま居間を出て階段を駆け上がった。

 普段それ程大した運動もしていない誠だったが、この時ばかりはとてつもない速さで走っていた。

 段を飛ぶように進み、誠は母が居る部屋へと続く扉を開け──落下した。


「母さ…………うわぁっ!?」


 扉を開き部屋に入ったと思った誠は床を踏みしめようとしたが代わりに足は空を切り、彼の体は自由落下を始めた。

 勢いをつけたまま、前転をするように回転しながら誠は数秒後に地面に落下した。


「うぐッ!」


 強かに地面に背中を打ち、体中の酸素が排出されるような感覚を覚えながら誠はゆっくりと起き上がった。


「一体何が──」


 背中を抑えながら起き上がった誠は部屋の中を見渡し、驚愕した。

 先ほどまで母が掃除していた部屋は、ワインセラーの様にあらゆる場所にワインが並んでいた。

 また、部屋の大きさも先ほどまでの小さな部屋ではなく少なくとも数倍の広さにまで広がっていた。


「なんだ、これ……さっきまで普通の部屋だったよな」


 部屋の中を見回す最中、部屋の奥に誰かが倒れているのを彼は発見した。

 誠の母だった。


「母さん!」


 体の痛みも忘れて、誠は母へ走り寄った。

 だが息子の呼びかけに、彼女は目を閉じたまま答えない。

 彼は直ぐに母の胸に耳を当て、心臓の鼓動を確認すると誠は安堵の溜息を吐いた。


「良かった……気を失ってるだけか」


 そうして息を吐くと落ち着いて来たのか、誠は改めて部屋の内部を見回した。

 高価そうな食卓机が無数に並び、その上には席一つに付きこれまた高価そうな空のグラスが並んでいる。

 机の傍にはワインが何本も入れられた棚があり、そういった光景が誠を中心に何処までも続いていた。

 そして先ほど自らが落ちてきた入り口は現在誠達が居る場所からかなり高い位置にあり、とても成人女性を一人担いで登れるような高さではなかった。


「隠し部屋、って訳じゃないよな」


 誠は母を仰向けに地面に横たえると近くに並んでいる机に近寄り、グラスを手に取って眺めた。

 手に持ったグラスは美しく、何時間、何日でもそれを眺めていられるようなそんな美しさだった。

 誠も魅了されかかったが、直ぐに顔を横に振ってグラスを机の上に戻した。


「綺麗だな……はっ! 危ない危ない、今はグラスなんか見てる場合じゃなかった」


 この部屋からの脱出の糸口を掴もうと、誠は部屋の捜索を再び試みる。

 誠は次に机に目を向けた。

 その食卓用の長机は、恐らく長さは一つ三メートル程である。


「机を立てかければ入り口までいけるかな……?」


 そう言って、誠は机と入り口までの高さを目測で測る。


「足りそうだけど……母さんを背負っていくのは無理だな」


 そうして、次に椅子、更にはワインが入った棚を誠は見た。


「……棚か、そうだ! 棚を壁際まで押した後に上に椅子を乗せればいけるかもしれない!」


 誠は指を鳴らすと、直ぐに動いた。

 棚を開け、動かしやすい様に机の上にワインボトルを取り出していく。

 ふとその時、ワインラベルが彼の目に映った。

 銘柄にはこう書かれていた。


「2026年4月1日閼伽井……成華?」


 誠の母の名前だった。


「なんだよこれ……」


 誠は慌てて、ワインボトルを机の上に置いて離れた。

 すると、先ほどまで自分が出していた他のボトルラベルが目に入る。

 それら全てに、西暦と人物名らしき物が書かれていた。


「見れば分かるだろう、銘柄だ」


「っ!? だ、誰だ!」


 突然の声に、誠は驚き周囲を見回した。

 部屋の奥にある暗がりから、それは床を軋ませながらゆっくりと現れた。


「頭を垂れよ、王の許し無く侵入しただけに飽き足らず余を知らぬとは不敬である」


「う、牛!? 牛が喋ってる!?」


 暗闇の中から、巨大な背中に鷲の翼が生えた牡牛が現れた。

 牛と呼ばれた存在は、誠の言葉に腹を立てたのか右前足を強く地面に打ち付けた。


「不敬!」


 その振動で、部屋全体が振動し誠は思わず地面に腰を打ち付けた。


「ひっ……!」


「頭を垂れよ人間、矮小な存在で余と同じ目線に立とう等と烏滸がましいわ!」


 その三メートルはあろうかという巨大な牛は、鼻息荒く日本語で誠へ命令した。

 だが誠は腰が抜けてしまい、彼の体はまるで蛇に睨まれた蛙の様に動かない。


「ブフフフ、竦んだか人間? 良い、実に良いぞ……お前達のその余を見る目は実に心地よい」


「お、お前は一体何なんだ……」


「不遜な態度だな人間、余がお前達が家畜にしている動物と同じに見えているか?」


 牛は鼻息荒く、どんどん誠に近づいてくる。

 眼前に配置してある長机も、頭部に生えた二本の角で後ろへ放り投げていく。


「余はザガン、地獄の33の軍団を率いる序列61位の偉大なる大王にして総裁である」


「ザガン……? 地獄の大王……?」


 突然告げられた単語や状況に、誠の理解が追い付かず困惑した表情を浮かべる。


「ふん、余の名すら今の人間は知らぬか。 だが良い、実に百年ぶりの食事だ、些細な事は寛大な心で許そう」


 そう言って、ザガンと名乗った牛は誠の母の目の前まで歩いていく。


「このように二つも供物を運んできたのだからな」


 ザガンはその巨大な右前足で、仰向けに倒れている母の腹部を踏みつけた。

 すると彼女の口から、ポンプから水が押し出されるように勢いよく真上へ真っ赤な血が吹きあがった。

 牡牛はそれを大きな口を開け、飲み干していく。


「ブフフ、最近の人間は魔力が薄く味も劣悪であったがこの女は実に良い……良い人葡萄になるぞ」


 噴き出す血を飲みながら、久方ぶりの味を堪能していたザガンの頭部に微かな衝撃が奔った。


「…………何をしている?」


「母さんから、足を退けろ……!」


 ザガンが視線を横にずらすと、そこには砕けた椅子を両手に持った誠が息を切らしながら立っていた。

 

「母? あぁ、この人葡萄のことか……ふんっ!」


 ザガンが軽く頭を振るうと、その衝撃で誠は後方へ吹き飛ばされ机へ激突する。


「うぐっ!」

 

「この女は既に死んでいる、これは既に余にワインを提供するだけの葡萄でしかない」


「嘘を、つくなぁ……!」


「余が踏みつけても悲鳴一つ上げないのがその証拠であろう」


 ザガンは右前足で器用に誠の元へ母を蹴り飛ばすが、彼女は悲鳴も上げずにゴロゴロと地面を数回転がった。


「母さん!」


 息子の呼びかけに、相変わらず母からの返答はない。

 ただ瞳孔の開いた目だけが、息子を見つめていた。


「すぐにお前もこうなる」


「はぁっ……はぁっ……!」


 自身が唾をごくりと飲む音が、誠にはとても大きく聞こえた。

 今の状況は彼にとってとても理解出来るものではなかった。

 先ほどまでとは違う部屋、動かない死体の様な母、羽の生えた巨大な喋る牛……あまりの不可解な出来事の多さに彼は混乱していた。

 だが、一つだけ分かっている事があった。

 それは……このままでは自分は何も分からないまま死ぬ、ということだ。


「ふ……ふざけるな! 母さんを元に戻せ!」


「ほう、余に抗うつもりか?」


 少年は、何も分からないまま死ぬのは嫌だった。

 彼の父が突然の逮捕され獄中死から三年、母と息子は悲惨な生活を送りながらそれでも少しずつ戻りつつあった日常が。

 訳の分からないまま、母と自らの死で幕を閉じるなど少年にはとても受け入れがたい事であった。

 そう思った時には誠は先ほど彼自身が衝突して壊れた机の脚を両手に持ちながら、倒れる母の前に立っていた。


「あ……当たり前だ、地獄の大王だか何だか知らないがこのまま黙って殺されるわけにはいかないんだ……!」


「ブフフフ、久しぶりの人葡萄は味も気質も余を滾らせるな」


 ザガンは鼻息を噴出させながら、嘗め回すように誠を見た。


「今までの連中とは違って実に良い味が出そうではないか、なぁ」


 そうして、視線を誠から側面にあるワイン棚の中に入ったワインボトルへ目を向ける。

 それらに書いてある名前と年代を眺めながら、ザガンは長い舌で口を拭った。


「……まさか、棚に入ってるワインボトルは全部」


「そう、そのまさかよ、これは余が今までにその指輪を求めてきた連中を人葡萄にした連中の血を入れたワイン」


 ザガンはそのまま長い舌を使って器用に棚を開けると、数本のボトルを口元へ運び口の中へ放り投げた。


「指輪……!?」


 誠は自らの右手の人差し指に嵌められた指輪を見た。


「ブフフフ、ワインの味は死ぬ間際の感情の強さやその人間の魔力が濃いほど良くなる」


 ボトルをかみ砕きながらワインを飲むと、数秒後に大きなげっぷを吐き出す。

 その匂いは、一瞬で部屋をアルコール臭くさせた。


「最近はゴミの様な味ばかりだったがお前の母は実に濃い魔力をしている、その息子であるお前も実に良い味だろうな」


「俺はお前のワインになんかならない、母さんと一緒に帰るんだ!」


 誠は強く手に持った机の脚を握ると、ザガンへ向けてそれを振りかぶりながら駆け出した。


「おぉ、おぉ、勇ましいことだ。 だが自ら食卓へ赴くとは実に滑稽な小僧だ」


 ザガンは大仰な台詞を吐きながら、目を光らせた。

 

「あっ……な、ん……だ?」


 次の瞬間、誠は突然足がもつれザガンの前に倒れこんだ。

 

「おぉ、なんと哀れな人間よ、お前のその勇気は蛮勇であったようだな」


 ザガンは目の前で倒れた誠を嘲笑う。

 誠の意識は急速に遠くなっていく、心臓はばくばくと早鐘を打つ様に跳ねる代わりに彼の体はぴくりとも動かない。


「そ……んな……」


「余は人間の血をワインに変える事が出来る、ブッフフフ……人間とは何と愚かな生き物か」


 誠を嘲笑うザガンの声が、どんどん遠くなっていく。

 そんな中でも、誠は強くザガンを睨みつけていた。


「気に入らん目だ……だがお前達人間は所詮余に搾取されるだけの愚かな生き物よ、ブフフフフフ!」


 視界はワインに変わった血液のせいか赤く染まり、どんどん鮮血に染まっていく。

 言葉も発せなくなり、体の自由も効かず、目も見えず、ただ遠くに声だけが聴こえていた。


『どうした……諦めるのか? このままではお前の母は本当に死ぬぞ』


 それは、先ほど指輪を嵌めた際に聞こえてきた声だった。

 その声を聴きながら何処を見ているともしれぬ真っ赤になった両の瞳で、暗闇の中に誠はそれを見た。


『それとも、母親諸共に死ぬか?』


「そんなのは、お断りだ……!」


『では選べ、我と契約し生き残るか、この場で死ぬか、お前はどちらを選ぶ?』


 選択をするまでもなかった。

 百回同じことを問われれば、誠は全て同じ選択をするだろうことは明白だった。

 誠の体が、ゆっくりと糸で操られる人形の様に不自然な形で起き上がっていく。


「………………なんだ、何が起きている?」


 それを見ていたザガンは、一歩後退する。

 誠の指輪が、鈍い光を放っていた。


『よかろう、覚悟──聞き届けたり』


 彼の選択を聞き、声の主は口角を上げる。

 そして誠の頭に、激しい頭痛が襲った。


「うっ、ぐああああああああああ!」


 あまりの痛みに、先ほどまで動かなかった筈の体が激しく揺れた。

 喉は張り裂けるほどに声を張り上げ、赤く染まった視界が元に戻っていく。


『契約だ』


「まさか……奴が干渉しているのか!?」


『これより我は汝、汝は我。 炎の様に熱く、全てを焼き尽くすその果てしなき怒り、我が名と共に解き放て!』


 誠の体が、足から燃え上がっていく。


「炎……やはり、貴様か!!」


 ザガンはこれが一体誰の仕業か気づき、怒りの声を上げると同時に誠の心臓目掛けて角を猛烈な速度で伸ばす。


『例え世界を敵に回そうと、己の正義を示す強き意思の力を!』


 角が誠の心臓に到達した瞬間、誠はその名をあらん限りの力を篭めてその名を叫んだ。


「アモン!!!」


 角が突き刺さると炎は弾け、それは現れた。


『さぁお前の時間だ、契約者よ!』


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