第2話 閼伽井 誠
西暦、2026年4月4日。
少し前に世間を賑わせた事件の事も人々は忘れ、品川は変わらぬ雑踏に包まれていた。
駅前には街を行き交う人々がすれ違い、濁流の如き人の川が流れている。
そんなあらゆる人間を迎え入れる駅に、今日も一人の青年が到着した。
「次は~品川、品川です。 右側の出口が開きます、お降りの際は──」
電車の中で眠っていた青年は、アナウンスの声で目を覚ました。
自らの周囲をキョロキョロと見ると、青年は自分の両の掌を開き其処をジッと見つめる。
「……どうしたの誠、そんなにジッと自分の手を見つめて?」
隣の席に座っていた妙齢の、だが美しさを纏う女性が荷物を纏めるのを中断し誠と呼ばれた青年に話しかけた。
「いや、何でもないよ母さん……あ、それ俺が持つよ」
誠は首を横に振ると、今話しかけてきた母親が持とうとしていた大きな鞄を手に取った。
「あらそう? でも悪いわね……そうだ、それじゃあお礼に今晩は誠の好きな料理作ってあげる」
「別にいいよ、これ位」
「そう……? でも、これから暫くは誠にご飯を作ってあげられないからお母さん寂しいわ~」
電車が停車し、扉が開くと中に居た大勢の客たちが降車していく。
誠も荷物を担ぎ上げると、後ろで寂しそうに呟くと涙を滲ませる母より先に一歩を踏み出した。
「参ったな、そんなこと言われたら断れないよ母さん」
荷物を担ぎながらそう言うと、母は笑みを見せた。
「嘘泣き?」
「えっへん、お父さんの居なくなったこの数年でお母さんは逞しくなったのです」
青年より少し小さい母は、えっへんと胸を張りながら電車を降りた。
「……そうだね」
「あっ、ごめんね誠……お母さん別にそういう意味で言ったんじゃなくて……」
「大丈夫、分かってるよ母さん」
少しだけ重苦しい雰囲気の中、品川駅を歩いていく。
階段を下り、ホームへと降り立ち誠は頭上にある看板を見た。
「どっちの出口だっけ、新しい家」
「え~っと、確か……高輪口ね、うん、そうそう」
誠の母はスマホを見ながら指を差した。
「母さん、本当に大丈夫?」
「大丈夫だって、ちゃんとこの間も部屋の掃除しに行ったんだから」
不安そうな顔をする誠を余所に、母親は品川駅の中をずんずんと進んでいく。
そんな母の小さな背中は誠にとって大切なものだった。
とある事件で誠が父を失ってからの数年間、彼を必死に守ってきてくれた優しい母のことをとても大切に思っていた。
「えーっと、ここを後は右に曲がって……あ、ここよ誠!」
そんな母の背中を見つめながら駅を出て暫く歩いていると、母が足を止めスマホとの睨めっこを止めて顔を上げた。
彼女が指差す場所を見て、誠は驚きの声を上げた。
ボロ屋だった。
圧倒的にボロ屋だった。
「こ、個性的な家だね……」
「築50年だからねぇ、でも外見と違って内面はきちんと掃除したから結構綺麗なのよ?」
その二階建ての家は品川のビル群の間にひっそりと存在していた。
外壁には蔦が幾つか垂れ、壁面にも罅割れがかなりの数見えていた。
だが母はそんなボロ屋の入口へ向かって歩き出し、入り口の扉へ手を掛けた。
「……高校卒業までここに住むのか」
ボロ屋の中に消えていった母の後を追いながら、誠は軽い溜息を吐いた。
彼が引き戸の扉に手を掛けた時、そのがたつく扉に酷く不安を覚えるのだった。
だが家の中に入ると、最初の印象は直ぐに払拭された。
「結構綺麗だね」
玄関に入って直ぐ見えた通路は綺麗に磨かれ、直ぐに人が住めるような状況であることを青年に感じさせた。
「最初は凄く酷かったのよ~、お母さん頑張って掃除したんだから! 表側だけ……」
「そんなに?」
「そうよ~、入ってみたら誰かに荒らされてたっぽくてねぇ……壊されて無い物が何も無い位だったんだから」
「それ、警察には言ったの」
母の言葉を聞いて、誠の表情が少し険しくなった。
それに気づいていないのか、母は変わらぬ口調で言葉を続ける。
「えぇ、でも事件性は無いの一点張りで……やっぱりお父さん絡みの事件だからかしらねぇ」
「そんなのって……!」
「はいはい、落ち着きなさい誠」
母が、誠の頭部に手刀を振り下ろす。
「いてっ」
「此処に来る前にお母さんと約束したこと、もう忘れたの?」
「いや、それは……忘れてないけど」
「ならちゃんともう一回お母さんに聞かせてちょうだい」
母の目が、しっかりと息子の顔を捉えていた。
「父さんの事に触れられても激昂しない」
「はい、よくできました」
それを聞くと、母は笑いながら誠の頭を撫でた。
「世の中には面白半分や悪意であなたを虐める人が居るかもしれないけれど……もっと良い事も沢山あるわ」
「分かってるよ母さん、でも……」
「でも?」
「いい加減この、俺の頭を撫でる癖はやめて欲しいかな」
「うふふ、嫌よ」
そう言って、暫く母のナデナデ攻撃は続いた。
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「ふぅ……とりあえずこんなもんかな」
誠は拵えたばかりのベッドに腰を下ろすと壁掛け時計を見た。
時計の長針は、午後五時を指そうとしていた。
部屋を見渡すと、先ほどまで埃が山積していた荒れ放題の部屋はすっかり人が住める程になっていた。
「ほんと、よく頑張ったよ俺……」
数時間前、母親のナデナデ攻撃が終了した後に誠が自分の部屋だと通された場所は酷い有様だった。
大量に地面に転がった本、破壊されている壁や机、更には蜘蛛の巣も山ほどある状態を一人で掃除したのだ。
それを思い出す誠は、ドッと疲れが押し寄せるのを感じていた。
「しかし、この家で一体何があったんだ? 普通あんな荒れ方はしないと思うんだけど」
最初に見た部屋の荒れ方は、どう見ても人為的なものだった。
まるで部屋の中で何かを探していたかのような……。
「大方、証拠探しだったんだろうけど」
数年前、家に警察が押し入ってきた時の事を思い出し誠は頭を横に振った。
「駄目だ駄目だ、さっき母さんと約束したばっかりじゃないか」
ベッドから立ち上がると、誠は部屋から出た。
「母さんの手伝いでもしよう、晩御飯もそろそろだし買い出しにも行かないと」
そう言って、彼は家の中を歩き始めた。
最初に見た時はかなり小さな家の様に思えたが、実際は奥行きが長く結構な大きさの家だった。
彼は足を乗せるたびに軋む階段を登りながら、屋根裏部屋を掃除しているであろう母の元へ向かっていく。
階段を上ると、直ぐに扉があった。
「母さん、手伝いに来たよ」
扉を押して、部屋へと入る。
するとすぐに鼻孔を洗剤の匂いが襲った。
「あら、もう終わったの? それじゃあその机の辺りを掃除してもらえる?」
中にはマスクを付けた状態で、部屋をぞうきんで拭く母の姿があった。
他には左側に小さな机と、丸い何かが転がっていた。
「あぁ分かったよ……ん、これは?」
誠は机の上にあったそれに興味を惹かれた。
近くに寄って、それを拾い上げる。
「あぁそれ? この部屋に落ちてたのよ、玩具かしらね?」
それは指輪だった。
だが指輪本来の輝きなど何処にも無く、全体的にくすんだ色をしており錆びついていた。
「ほんとだ、玩具かな?」
指輪を手に取って、隅々まで眺めていると指輪の内側に何かが書いてあるのが見て取れた。
「なんか文字が書いてある」
「玩具会社の名前とかかしら」
部屋の隅の汚れを拭きながら、母が答えた。
「何語だこれ……?」
電気が点いているとは言え、ほの暗い室内でじっと文字を見る。
だが、日本語でも英語でも無い字を見て誠は解読を止めた。
「よくわかんない言葉で書かれてて読めない」
「外国のかしらね? お父さん、良く海外にも行ってたから」
誠はそう言って、改めて指輪を見た。
「向こうで浮気してた相手の指輪だったりして」
「こら、そういう事言わないの!」
「ははっ、ごめん」
そんな軽口を言いながら指輪を見ているとふと何となく、自分の指にこの指輪が嵌りそうな気分に彼はなった。
何故かは分からない、だが……最初はふとした気持ちだったが指輪を見ていると次第にそれを身に着けたい気持ちが抑えきれなくなっていた。
「…………」
次第に、指輪を持つ左手が右手に近づいていく。
指輪を嵌めようとする指が震えていた。
誠には自分の意思ではない、何かの意志が介在しているように思えてしょうがなかった。
止めようと思った時には、指輪は右手の人差し指に綺麗に嵌っていた。
「入っ……た」
それは人差し指の根本まですっぽりと入り、鈍い輝きを彼に返した。
少しの間、その指輪に魅入っていたが誠はハッと意識を取り戻すと指輪を外そうとした。
「あれ?」
だが、指輪は抜けなかった。
まるで根でも生えたかのようにがっしりと指に嵌っている。
「くそ、何だ……!」
左手で渾身の力を籠めて外そうとするが、びくともしない。
仕方なく、母に手伝ってもらおうと顔を上げた時。
『……見つけたぞ』
地獄から響く様な声が、彼の耳に届いた。
「だ、誰だ!?」
指輪を抜こうとしていた手を戻すと、誠は直ぐに周囲を見回した。
だが、其処には掃除をする母以外には誰も居ない。
母はいきなり叫んだ誠を、驚いた顔で見ている。
『直に分かる……フフフ、フハハハハハ!』
「誠、どうしたの?」
「……この指輪か!?」
再び周囲を見回すが、声の主は居ない。
先ほどから変わった部分を考え、誠は再び指輪を外そうと左手に力を籠めた。
だが、やはり外れない。
「くそ、こいつ……どうして!」
「誠!」
突然叫び声をあげ狼狽える息子に、母は走りよると息子の両肩へ手を置き揺さぶった。
「はっ……か、母さん?」
「一体どうしたの誠、何か居たの?」
「あ、う、うん、いや……何でもないよ」
母によって平静さを取り戻した誠は、心配を掛けまいと首を横に振ると笑みを見せた。
「何でもないって……いえ、あなたがそう言うならそうなんでしょうね」
でも、と母は付け加えた。
「大丈夫じゃなかったら困るから、下でテレビでも見て少し休んでなさい」
分かった? という母の顔には否定の言葉を告げさせるのを拒否させるだけの迫力があった。
誠は素直に頷き、部屋から出た。
指輪はまだ彼の右手に嵌りながら、淡い輝きを発していた。
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