第9話 先代犬のこと
コギの前に飼っていたワンコは、仕事場に捨てられていたワンコでした。
駐輪場の柵に、無常に、くくりつけられたワンコは、誰にでも尾を振る人懐っこい子でした。
体毛も目も茶色で。すでに成犬の中型犬でした。
首輪の代わりに首に巻かれたスズランテープと。
そこから伸びる、リード代わりの汚らしい紐が、なんともいえない色をしていて。
「あの、すいません、皆さん。飼い主はどこでしょう」
という顔で無邪気に私たち職員を見ていたことを、今でも覚えています。
上司が保健所に連絡をする、というのを夕方まで待ってもらって。
結局、私が引き取ることにしました。
仕事の終わりに動物病院に連れていき、とりあえず、狂犬病の予防接種だけしてもらおうとおもったのですが、「警察に拾得物の届け出は出されていますか」と言われて驚きました。
このワンコは。
捨てられたのだけど、「落とし物」なのだそうです。
だから、注射を打つ、などの決定権が私にはないのです。
獣医さんは、ワンコの頭を撫でながら、それでも大雑把な年齢や体調を確認してくれました。
「首輪も外されて、そんな状態で放置されてたんだったら、飼い主は出ないでしょうけどね」
ため息交じりに言いながらも、警察への届け出と、保健所の連絡先を教えてくれました。
言われた通りに届けを出し、写真を提出して、その日は家に帰りました。
近所の人には、経緯を伝え、「しばらく夜泣きや無駄吠えをするかも」と伝えましたが、皆さん比較的好意的で、むしろ、捨てた人に対しての怒りを口にしておられました。
夜間、悲し気に遠吠えをしていましたが、それも数日でやみました。
結局、飼い主は現れず。
一定の期間をおいて、ワンコは私の犬になりました。
元の名前がわからないので、私が別の名前を付けて、改めて登録。
当初、私がワンコの名前を呼ぶたびに、ぽかん、とした顔で見上げる姿が、心に痛かったです。
「ごめんね。君の名前がわからないのよ。だけど、ここで暮らすには、新しい名前と、登録が必要だからね」
数カ月後には、新しい名前にも、小屋にもなじみました。
私はこどものころから、何頭か犬を飼ってきましたが。
でも、これほど遠慮をする犬をみたことがありません。
おとなしく、気立ての優しい、近所の小学生たちに撫でられまくっているワンコでしたが。
それもこれも。すべて、遠慮しているからのようにおもいました。
ご飯を食べる時も、お水を飲むときも。私と散歩に行くときも、いつも遠慮をしています。
基本的なしつけはできているようですが、ボールを投げても追いません。いろんなおもちゃを買って与えてみましたが、すまなそうに上目遣いに私を見るだけでした。
ここは、自分の居場所じゃない。
ずっと、そう思っているような犬でした。
一度、仕事で仲良くなった獣医さんに聞いてみたことがあります。
「飼い続けていたら、私に慣れますかね。甘えてきたり、遊んだりできますか?」
獣医さんはしばらく考え込んで、答えられました。
「犬にだって心はあるんです。捨てられる、というのは、相当なダメージを受けるんです」
本当に、そうだとおもいました。
なぜ、人間は、傲慢にも、自分たちにしか心がない、と思うのでしょう。
それから数年経って。
ある日、ワンコは癌になりました。
病院で摘出をしてもらって。
徐々に元気になっていったのですが。
突然、散歩の途中で歩けなくなってしまいました。
その日は私が抱えて帰ったのですが。
次の日は、さらに歩けなくなっていました。
三日目。
散歩のため、庭を少し出たところで、おしっことうんちをして。
私はワンコを抱きかかえて帰りました。
この当時、もう市販のドックフードは食べられなくなっていたので。
その日も、手作りをした、ほぐしたささ身とジャガイモのご飯を与えたことを覚えています。
夕方、もう一度、病院に連れていこうか。そんなことを考えました。
ただ、ご飯は、ぺろりと食べたので、私は家の中に戻り、仕事に行く準備をして、再び外に出ました。
そのときには、ワンコは、虹の橋を渡ってしまっていました。
先代ワンコのことを書くつもりはなかったのですが。
なんとなく、おもったのです。
犬にだって。猫にだって、心はあります。
人間のように話せないだけ。
飼う限りは、最期まで寄り添ってあげてほしい。
身体をいためつけるだけが、虐待ではありません。
心を傷つけることだって、虐待です。
ワンコを捨てた飼い主は憎いけど。
魂だけになって。
ようやく自由になったワンコは、きっと本当の飼い主のところに行けたとおもいます。
本当の名前を呼んでやって、もう一度撫でてあげてほしい、と切に願います。
……ちょっと、しんみりした話になってしまいました。
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