第1話 舞い降りた少女②

 学校時代は輝かしい時代であり、この時にしかできないことがたくさんあるという。

 そして俺は、そういったあらゆるものを失ってきた。

 小学生の時、えんぴつを取った取らないで女の子を突き飛ばし、怪我をさせた。

 それ以来、誰からも相手にされなくなった。

 ブレーキの効かないやつらのサンドバッグとして大抜擢されたのもこの頃からだ。


 中学生の時、俺は部活に入らないというだけで教師に呼び出された。

 我慢できなくなり、机を蹴り飛ばしたら体育教師に殴られた。

 このことは学校全体で隠蔽され、俺は自分で転んだ怪我をしたことになった。


 修学旅行、運動会、文化祭、音楽祭……そのすべてを欠席した。

 あまりの孤独におかしくなり壁を殴りつけ拳を骨折し、ついに母親に精神病院に通院させられるようになった。


『学生時代の友達は一生の宝物』


 この言葉を聞くたびにぞっとした。

 では、それを得られなかった俺はなんなのだ?

 生きていても無駄なのか?

 ……無駄なのか?



 高校に進学するつもりはなかった。ただ両親に「どこでもいいからいってくれ」と言われ、勉強だけはそこそこできたので普通科の高校に進学した。


 そして今日に至る……。

 そう、あの悪魔の取引を持ちかけられた今日に……。



「おーい、みんな聞いてくれ! 馬場が一発芸してくれるってさ!」


 倉田の大声にクラス中の注目が俺に集まる。一気に冷や汗が背中に吹き出す。

 しかし俺はそんなことおくびにも出さず、へらへらと答えた。


「お~い~やめてくれよ~。できねえよそんなすぐにはあ。えへへ」

「いいからやれって! みんな見たいだろ?」


 クラスの人間の反応は様々だ。

 にやにやしながら眺めているもの、嫌悪感を露にしているもの、まったく無視して友達と喋り続けているもの……。

 確かなのは、俺の味方は存在しないということだ。

 倉田の楽しげな声が教室に響き渡る。


「ほら、いつものやれよ、いつもの!」


 思いっきり足を蹴られる。痛い。だが逆らうことなどできない。奴隷はどんな仕打ちにも笑顔で従うだけだ。

 俺は精一杯明るく声を張り上げた。


「じゃあいくぜ!

 おちんちんびろーん!!」


 俺はパンツを下ろした。

 誰もなにも言ってくれなかった。

 倉田が楽しげに笑っている。俺も笑っていた。涙はだいぶ昔に流れなくなっていた。




 下校のチャイムが鳴り、生徒はバラバラに動き始める。部活へ行くもの、帰宅するもの、教室で麻雀を始めるもの……俺はそのどれにも属さなかった。

 いつものように誰にも挨拶せずに屋上へいく。

 立ち入り禁止の札を無視すると、そこは大空でした。

 この高校は生徒数が多く、校舎が8階まである。だから屋上まで来ると街を一望できるのだ。


「よう、馬場」

「やっほー、きてやったぜ雨宮!」


 俺のなけなしのプライドが恐怖と屈辱を隠す。

 雨宮は屈伸などをして体をほぐしている。そばには取り巻きの倉田と八木もいた。

 やつは古くから続く地主の家に産まれ、ボクシング、空手、柔道から剣道まで経験し、成績は常にトップクラス。

 校則違反の金髪をしながら唯一教師から叱責を受けない。当然、顔もいい。高い鼻と鋭い顎がスマートでゾッコン、とはクラスの女子の弁。

 この学校に舞い降りた天才。それが雨宮だった。


「おい、今日はあの日だぜ。ちゃんと持ってきたか?」

「おいおい、俺が忘れるわけないだろ~?」


 へらへら笑いながら、一か月分の小遣いと、親からくすねた金を取り巻き1の倉田に手渡す。倉田は受け取るとすぐに中身を改める。これが無礼に当たると知ったのはつい最近のことだ。


「馬場センパイ、今日もサイコーでしたよ、あのギャグ。マジ廊下からみんなで見てたんすけど、めっちゃウケたっすよ~」

「そうだろうそうだろう、サイコーだったろ!」


 取り巻き2、一年生の八木が俺の肩を叩いてくる。

 後輩とはいえ身長は180センチを越していて、その細い腕からは鋭いパンチが繰り出されることを俺の腹筋はよく知っている。


「ほらよ」


 雨宮がヘッドセットを渡してきた。


「今日もみっちり鍛えてやるよ」

「へへっ、負けないぞお」


 太陽との闘いが始まる。





 雨宮のグローブが俺のもろい腹筋に弾丸のように突き刺さり、もう何度目かわからないが俺は地面にぶっ倒れた。

 それを八木と倉田が抱え起こし、雨宮が畳みかける。

 最初はウォームアップがてらに軽くなぶられるのだが、だんだんと雨宮は見境なくなっていく。時折膝蹴りや頭突きなども浴びせかけてくる。


「あああああああっ! 死ねっ、このゴミっ、生きててもしかたねーくせになんで呼吸してんだっ、恥を知れっ、ゴキブリでも食ってれば いいんだっ、貴重なっ、米をっ、無駄にしやがってえええええええ!」


 雨宮がなにに怒っているのか、なにを言いたいのかはだいぶ前に考えるのをやめた。理由などない。

 恐らく、人間は誰でも自由にストレスをぶつけられる対象を見つけたらこうなるのだろう。

 雨宮の気まぐれで、俺は放課後ここに呼び出されて嬲り殺しにされるのが恒例となっていた。

 それは10分で終わることもあれば、日暮れまで終わらないこともある。ただし少なくとも最終下校時刻までには帰れるし、ホントに死にそうなときは八木と倉田が止めに入る。

 今日もとどめの雨宮の飛び蹴りを俺の腹筋が受け止めたところで


「やめだ」


 雨宮はグローブを外した。すっかり辺りは暗くなっている。


「へへ……あい……かわらず……いい蹴りだったぜ……ガクッ」


 なんで俺はまだ冗談を叩いているんだろう。自分でもわからないが、雨宮はもっとわからなかったらしい。

 跪いた俺の背中を踏みつける。それぐらいもう屁でもない。

 頭上から冷たい言葉が降ってくる。


「おまえさあ、プライドとかないわけ。こんなことされてさ、悔しくないの」


 絶対的な力に守られてるくせにプライドだ? 寝言も大概にしろこの人格破綻者が。

 俺の思いとは裏腹に、口は生き残るための言葉を撒き散らす。


「へいきへいき……トレーニングにもなる……から……」


 これで今日もミッションコンプリート。

 ようやく家に帰れる……。

 しかし、今日はいつもと違っていた。

 いつもはそこでどくはずの足が、乗っかったままだ。


「……やっぱ、おまえ死んでいいわ」

「え?」

「ちょっとこれ見てみな」

「おいおい雨宮ぁ、ちょっと馬場くんにはショッキングすぎない~?」

「過激ッスからね~! クク……」


 なんだ?

 いまさらなにが来たって驚くわけ……。


 俺は、雨宮が差し出した写真を見た瞬間に凍りついた。

 それには二人の男女が写っていた。全裸で、公園のベンチで絡み合っている。男は女に覆いかぶさっていて、顔が見えない。

 そして男の体越しに見える女の顔を俺は毎日見ていた。カメラの存在に気づいていないのか、頬を赤らめ目を細めているのは渚だ。

 俺の妹の、馬場渚が写っていた。

 そしてこんな写真の使い道などひとつしかない。


「やめてくれ……」

「ん?」

「妹は関係ないだろ……」

「涙ぐましいな、家族愛ってやつか? 俺にはよくわからんが……まあ、安心しろよ。誰も貰い手がいなくなったら俺がもらってやるさ。何人目かな……」

「雨宮は激しいからなあ~おまえの妹、きっと病みつきになるぜ」

「やめろって……」


 背中の上の靴にさらなる圧力が加わり、俺は声を出せなくなった。

 雨宮が耳元に口を寄せてくる。


「やめてやってもいい。というか、この写真とフィルムを返してやってもいい」

「……どうすればいい。なんでもする」

「なんでもする、か。じゃあそうしてもらおう。

 俺とギャンブルしろ。負けたら一生、ただ働きだ」

「……ギャンブル?」

「そうだ。おまえ、麻雀やったことあるか?」

「……ネット麻雀なら、少し」

「よしよし、いいぞ。これでできないとか言われたら興ざめだったからな……」

「待ってくれ、そんなに慣れてるわけじゃ」

「あっそ。じゃ、明日の朝はおまえの可愛い妹のプロマイドが全校生徒の机の中に入ってることになる。

 拒否権なんかおまえにはねーんだよ、馬場。

 今日の深夜3時、街外れの廃墟に来い。わかるよな? でっけー屋敷だぞ、バイオハザードみてえな」


 雨宮はようやく靴を上げ取り巻きを連れて立ち去ろうとしていた。

 麻雀? ギャンブル?

 負けたら……ナギサの写真が公開される?

 これは悪い夢なのか……?


「あ、そうそう」


 雨宮は足を止めた。半身で振り向いているやつの口元から、鋭い犬歯がちらりと見えた。


「この写真、すぐに焼き払ってやらないこともない。

「ほ、本当か?」

「ああ。嘘はつかない。

 おまえ、自殺しろ」

「え……」

「妹を確実に助けたいなら、死ねば?

 クク……ハハハ……」


 雨宮の笑い声はだんだんと高くなり、最後は通報されるのではないかと思うほどの高笑いへと変わっていった。

 俺はたった一人、取り残された。

 頬を噛んでみた。

 痛かった。

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