第80話

「ま、まだウォータースライダー乗るの?」

「せっかくフリーパス買ったんだから、いっぱい乗らなきゃ損でしょ?」

「にしたって、かれこれ一時間ずっと振り回されてるんだけど」


 悲鳴を上げる三半規管に代わって、私は矢来さんへと抗議をする。

 更衣室に全然人がいなかったから当然なのだけど、お目当ての室内プールもこれまたガラガラだった。

 極めつけはウォータースライダー。なんと待ち時間が誇張抜きに一秒もない。

 実質貸し切りなのをいいことに、矢来さんは延々と私をウォータースライダーへ連れ回している。たしかに、楽しいことは楽しいのだけど、こうも連続してしまうと酔ってしまったらしい。


「じゃ、ちょっと休憩しよっか」


 私が本気で苦しそうなことに気がついたのか、矢来さんはあっさりと引き下がり、休憩を提案してくるので、頷いて同意を示す。


「向こうに温泉みたいなのあったし、そこ行こっか」

「ええ」


 矢来さんは足取りがおぼつかない私の手を引いて、古代ローマ時代を意識していそうな装飾の温泉へ。

 室内の温水プールとはいえ、それよりも幾分か温かいお湯が身体に染みる。


「うーん、気持ちいい。ね、あとで普通の温泉にも行くんだよね?」

「ええ。というか、ここはそっちがメインみたいなところあるから」


 室内プールは一フロアだけなのに対して、温泉施設は三つの階層にまたがっている。

 露天風呂こそないけれど、様々な種類の温泉から、岩盤浴、サウナなど基本的なものは全て揃っているのがここのウリだ。


「そっちも空いてるのかな」

「温泉はそこそこ人がいると思うわよ」

「冬だもんね」

「そうねえ……」


 お互いに水着でプールに来ているものだから、季節感が失われてしまっているが、言うまでもなく今は冬。ましてや明日はクリスマスだ。世間はきっと浮ついた雰囲気に満ち満ちていることだろう。

 なんて、どこか他人事のように思っていたのが去年までの私だ。

 誕生日とクリスマスが被っていたがために、イマイチ誕生日を祝われてもモヤモヤとするところがあった。それは私を祝っているのか、それとも磔おじさんを祝っているのか、と。祝われる側がそんなことを考えのは傲慢だ。そんなことはわかっている。それでも、言っても私はまだ子供で、だからこそ拗ねてしまっていた。

 だけど、今年は違う。

 矢来さんはきっと私がこの世に生を受けたことだけを祝福してくれる。

 好きな人の視線を独占できるのだ。と思ったけれど、誕生日かどうかは関係なく、矢来さんは私のことしか見ていないか。

 まあ、なんであれ。

「幸せね」


 隣で湯に浸かる矢来さんの肩に頭を乗せる。他にお客さんがいないからこそ、人目を気にせず睦み合えるというものだ。


「そうだねえ……」


 温泉に身体を沈めながらしみじみと息を漏らす私たちはさながら老夫婦だ。

 と、しみじみとしているのも束の間。

 そっと湯の中で矢来さんの手が動く。黙って見守っていると、腕が私の身体に回された。

 元々肌と肌が重なる程度には接近していたのだけど、矢来さんによって更に密着するかたちになる。端から見ればおかしな距離感だろう。


「矢来さんは相変わらず大胆ね」

「誰も見てないからいいよね?」


 イタズラをする子供のような笑みを浮かべて聞いてくる矢来さん。


「そもそもダメなんて言ってないわよ」

「えへへ、そっか。それなら……」

「はい、ストップ」


 さも当然と言わんばかりに顔を近づけてくる矢来さんを制止する。

 危ない危ない。矢来さんは完全にその気だったらしく、目を閉じて唇をすぼめていた。

 関係が深まったおかげで矢来さんの起こす行動にも予測がつくようになっている。

 それはいいのだけど。


「殆ど貸切とはいえ、一応周囲の目もあるのだけど?」

「……でも、海道さんダメとは言ってないって」

「くっつくのと、キスするのとでは話が違うでしょ」

「むぅ……」



 明らかに不満にしつつも矢来さんは顔を引っ込めた。


「聞き分けが良い子は好きよ」

「あんまり嬉しくないなあ」

「どうして? 褒めてるのに」


 わかってるくせに、と目で訴えながら矢来さんは更に強い力で私を抱きしめてくる。

 矢来さんの中ではこれが良くてキスはダメなのは理に適っていないのだろう。

 だけど、私は一番好きな食べ物を最後まで残しておくタイプなのだ。

 今日という特別な一日はまだ始まったばかり。

 メインディッシュを頂くにはいささか早すぎる。

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