番外編 バレンタインはあくまで日常
「今日はバレンタインです」
「……そうね。それがどうしたの?」
矢来さんが唐突に改まってさも深刻そうに切り出した。
「わたしは海道さんにチョコを用意してます」
「うん。私もしてるわよ」
「だよね」
ヘラっと矢来さんはいつも通りの笑いを浮かべる。多分、さっきまでの真剣な表情に意味はないんだろう。
「海道さんとチョコを渡し合うようになって、もう何年か経つよね」
「あー……。付き合って初めてのバレンタインって、私がチョコのこと失念してて矢来さんが本気で泣きそうになったんだっけ?」
「それは忘れてよー」
矢来さんが私の肩を押して頭を揺らしてくる。しかし、いくら脳をかき混ぜられてもあの出来事は忘れないだろう。主に申し訳なさで。
「でもさ、バレンタインって毎年くるでしょ? だからチョコのバリエーションなくなってくるんだよね」
「別に奇をてらう必要はないと思うけど」
「私は海道さんに驚いてもらいたい!」
「矢来さんと一緒にいたら、毎日が驚きの連続よ」
「わたしは珍獣なの?」
うん。
「ってことでね、今年はちょっと珍しいチョコを買ってきたんだ」
ソファから立ち上がった矢来さんは、綺麗に包装された袋を片手に私の元へと戻ってきた。
「はい、どーぞ」
「ありがとう。開けても?」
「もちろん!」
矢来さんが快諾したので、遠慮なくラッピングを剥がしていく。
現れたのは、片手に収まるサイズで縦長の箱だった。
これがチョコレート……? と、思わず首をかしげたくなったのだけど、箱から見覚えのある本体を取り出すとその疑問は更に大きくなった。
「矢来さん、これ」
「うん」
「リップにしか見えないんだけど」
黒く光沢のある円柱状のそれは、どこからどう見てもリップクリームだ。
蓋を回転させると、ピンク色で先端が斜めに形成されたスティックが姿を見せ、これまたリップでしかない。
「それはね、リップ型のチョコなんだ。チョコ味のリップじゃなくて、リップ型のチョコだから食べられるよ」
「お、おおう」
リップとチョコがゲシュタルト崩壊しそうな説明に頭がクラクラする。
まあとにかく、ちゃんと食品であることはわかった。
ということで、さっそく一口……。
「ちょっ、ちょっと待って!」
私が口を開いてチョコレートを迎え入れようとすると、矢来さんが大きな声で制止してきた。
「え、なに?」
「どうして食べようとしちゃうの!」
「はい……? え、これチョコなのよね。それとも実はドッキリで香料が使われてる普通のリップだったり?」
「いや、チョコはチョコだよ? でもさ、形的にさ?」
「ああ……。塗ってほしいってことね」
たしかに、いきなり食べるのは風情がないし、わざわざこんなチョコを用意してくれた矢来さんにも申し訳ない気がする。
先端の斜めになっている箇所を唇に当てると、当然ながらほのかにいちごフレーバーのチョコレートの風味がした。そのまま、普段使用しているリップと同じように塗ろうとするのだけど、これが難しい。
リップ型、とはいえこれはチョコレートだ。皮膚に塗ることは想定されていない。
どうしたもんかとしばらく考えた末、唇にしばらく押し当ててチョコを少し溶かすことで塗ることに成功した。
上唇と下唇を合わせて、馴染ませる。
「これでいい?」
「うん、バッチリ! それじゃ、失礼して……」
矢来さんは鷹揚に頷いたかと思えば、私の肩に手を乗せてきた。
何事かと矢来さんの顔を見やると、その目には怪しげな炎が揺らめいている。
ゆっくりと、矢来さんの端正な顔がこちらへと接近してくる。
そこで私は気がついたのだ。
これは罠だったのだと。
しかし、今更気づいたってもう遅い。
私は既に矢来さんの射程圏内におさめめられてしまっている。
だから、私は甘んじて矢来さんを受け入れた。
静かに音もなく唇を重ねてくる矢来さん。
しばらくはお互いの熱を交換しあうだけの、それでいて甘ったるいキスを交わす。
私の肩に乗っていた矢来さんの手は、いつの間にか背中に回っていて、次第に強く抱きしめられていく。
体温が均一化して、二人の境界線がなくなった頃。
矢来さんの舌が、私の唇をなぞった。
これはいつもと違う。普段なら、私の唇を無理やりこじあけてくるところだ。
だけど、今日は私の唇についているチョコを啄むのが目的のようで、丁寧に余すところなく舌が這う。
ひとしきり私――もとい、チョコを味わった矢来さんがそっと離れる。
「ごちそうさまでした。えへへ、海道さんチョコ味だった」
ほくほく顔で矢来さんが手を合わせる。
「そりゃそうでしょ……。ていうか、あなた最初からこれが目的だったのね」
「そうだよ。どう? ビックリした?」
「チョコレートそのものにはね。キスはまあ、日常だから別に」
「えー、キスにも驚いてほしいなー」
「なら隙あらばキスしてくるのをやめるべきね。そしたら、ちょっとはレア感出るわよ」
「それは無理!」
「でしょうね」
提言しておいてなんだけど、矢来さんがそれで納得するとは露ほども思っていない。そもそも、私もやめて欲しいと考えているわけでもないし、本当にただの仮定だ。
「じゃあ、今度はわたしが塗ろうかな」
「……それ、私が舐め取らないといけないのよね?」
「もちろんだよ。ちなみに、唇に塗るとは限らない」
「ど、どこに塗るつもりよ」
「えへへー、内緒! でも、とりあえずお風呂入らないとだね」
言って、矢来さんはそそくさと脱衣所へと消えてしまった。
早く追いかけて一緒にお風呂へ入ってあげないと拗ねるのだけど……。
あの子、いったいどこにチョコレートを塗るつもりなんだ。
それが気になって、しばらく足が動かずにいるのだった。
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