第10話 我を忘れる
「あ」
幸次は日曜の午後、幸太と蕎麦を食べに商店街に出かけていた。朝、家族で昼食を何にするかで、ファミレス派対蕎麦派に分かれてちょっとした言い合いになっていたのだ。
結果、男性陣(幸次含む)は蕎麦、女性陣はファミレスと相成った。
ま、小一時間もすると、家族でカラオケ大会になる予定だが。その程度の対立だ。要するに好きなもん食ってからみんなで遊ぼうぜ。ということである。
「あ、あ」
幸次は身を捩る。幸太は目の前の美少女は父親だけど、ちょっとエロいなぁと思う。父親だけど。
「どしたの」
「あ、う、痒くて。か、痒くて」
ちょうど肩甲骨のあたりに手を伸ばすが、届かない。
「はっほっ、と、届かん。幸太、掻いてくれ。手を突っ込んでいいから。ブラどかしていいから!」
「ちょっ、父さん声でかいって……ここ?」
顔を真っ赤にして少女の背中を掻く幸太。手を首元から突っ込んで。
「ほわぁぁ……うん、そこ。気持ちいい」
何言ってるのかわかってるんだろうか。この父は。
幸太は、少女の滑らかな肌など堪能する余裕もなく、背中を掻き終わると、ポンと父の背中を叩く。
「はい、もういいだろ」
「うむ、ありがと……う」
我に返ると、周りの視線が生暖かい。子供が指差しておる。男子中学生はがん見しておる。ちらちら見ているオヤジもいる。見られてる方は気が付いているからな。
「あ、あれ?」
幸次は思った。なるほど、賢者タイムとは女性になっても来るものなのだなぁ。と。なにしろあれだ、なんだか恥ずかしい。あれ、やっぱり往来で背中を掻く行為は恥ずかしいものなのか。そういうものなのか。
若干、世間の常識と自分の常識の温度差を実感した幸次。もういたたまれない。
失笑を買っているような。あれれれ? 脱いでないんだからいいじゃないかよう。
頭に血が上るのを自覚する。世間の常識の一線を、異世界で無くしてしまったのだろうか。いや、無くしたらハズカシイなどという感情は溢れてこないだろう。なんだよう、世間体さんよ。ほっといてくれよう。
「こ、幸太よ。蕎麦行こうか。もう、ファミレスでもいい」
あ、それほど恥ずかしいのか、と思いつつ、幸太は返す。
「はいはい、『藪一』でいいよね」
「あ、うん」
「しかし、あれだな」ずるずる。
幸次は蕎麦を啜る。
「うん、気を付けた方がいいよ」さくさく。
幸太は天ぷらを齧る。
「やっぱり、こっちの世界でも女の人は何かと大変なんだなぁ」ぽりぽり。
御新香を齧りながら、幸次はしみじみと述懐する。
「うん、どこの世界でも大変な気がするけどね。40の手習いだね」ずばばばっ。
「……」ずるずる……
力なくそばを啜りながら、幸次は思う。こっちの世間の方が向こうより厳しくないか。と。
そして、40の手習いって、この場合は使い方合ってるのだろうか。と。や、40だと若すぎて誤用になるのか。ずるずる。
「あ、すいませーん、蕎麦湯くださーい」
「お、外人さん蕎麦湯なんて通だねぇ」
……隣のテーブルで蕎麦を啜る新入社員っぽい二人組を見て、この言葉を送りたいと思う。自分と世間とのズレは、どこにでも生じるのである。と。
「父さん、今日は不調だねぇ。姉さんたちになんか奢ったほういいんじゃない?」
「……うん」
そうか、思えば昼飯問題から不調ではあったなぁ。と、蕎麦湯を啜る幸次だった。
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