第17話
しばし気を抜いていたら、がくんと手に乗せていた顎が落ちたことで我に返る。
いつの間に眠っていたのだろうか。寝起きでしばしばする目を擦ると、頬に涙が流れた跡があった。
意識があるときは我慢できても、眠っているときまでは涙腺を制御できなかったのだろう。
サイドテーブルに肘をついて手の上に顎を置いたところまでは覚えている。そのままの姿勢で眠ってしまったのだ。
制服の袖で頬を拭う。傍らのベッドの中には、顔色が悪いリーヴァイが昏々と眠っている。
「エセル、泣いてたの?」
唐突に聞こえた懐かしい声にぎくりと身体が強ばる。
ここ数日、ずっと心配していたエマである。しかし、今は魔女の結界が張られていて、一般人は入れないはずだ。
驚愕の表情で振り返ると、エマが側でエセルバートを見下ろしていた。
「この人がいないと、エセルは悲しい?」
底が見えない瞳は感情がこもっておらず、本当にエマ本人なのか疑念が浮かぶ。しかし、いくら目を擦っても本人である。
「エセル?」
首を傾げ不思議そうにしている妹に、迷いながらも正直に話すことにした。
「レヴィさんがいない生活を想像できないくらいには大切だ。側にいてくれないと、きっとこの世界は灰色に見えると思う」
「そう」
満足そうに頷くと、懐から何かの粒を取り出した。一度掌の中で握りしめた後、窓から外に放り投げた。同時に風が起こって、小さな粒はどこかに運ばれていった。
「今のは?」
「見ていれば分かるよ」
しばらくすると、複数の場所から地面を割って、大木がめきめきと音を立てながら生えてきた。短い時間で大きな樹へと成長し、枝が生えて先に蕾を付け始める。
「これは……」
「私の魔法だよ。植物の成長を促す魔法が得意なの」
「すごいな」
城の庭園や、家の屋根を突き破って生えた樹もある。そして膨らんだ蕾がゆっくりと花開いた。
白い花が一斉に咲くと、周囲に優しい芳香を撒いて、淡い光の粒が樹の周りで舞う。闇夜の中で白い花がぼんやりと浮かび上がる。
蛍によく似た淡い粒は、大木の周囲でふらふらと漂っていた。
「あの光の粒子はなんなんだ?」
「魔法の残り香……かな? 私だけじゃなくて、師匠も同じ系統の魔法を使うから、こんな感じになるね」
初めて見た魔法は幻想的で美しかった。想像していたのはもっと禍々しいもので、邪悪なものだとばかり考えていた。
「綺麗だな。それで、これはいったい何のために?」
風に煽られて大木の枝がさわさわと揺れている。こちらまで香りは届かないけれど、甘い匂いが容易に想像できてしまう。
「内緒! ……といってもすぐに分かると思う」
そのとき医務室の扉がノックされた。
「ハートネットはいるか?」
「はい」
第一騎士団の団長が部屋に入って来て、慌てて向き直る。
「そう畏まる必要はない」
騎士団長は黒騎士隊で言うと、総隊長と同じ役職になる。一介の騎士では他の騎士団の団長と話す機会はあまりない。
エセルバートも第一騎士団の団長と話すのは初めてだ。
第一騎士団は戦闘のスペシャリストだ。黒騎士隊が対魔女用の集団なら、彼らは対人用の戦闘集団である。
そのため、荒くれ者が多く、騎士たちを束ねるのは大変だと聞いたことがある。
団長の視線がエマへと移る。
「そちらは?」
リーヴァイはエマのことを上に報告していないと言っていた。総隊長は妹が倉庫で捕まっていたことを知っていても、理由はリーヴァイが誤魔化したはずだ。
もし他の騎士団長が知っているとすれば、そのでっち上げた理由のはずだ。けれど、城内にエマがいることを見られてしまったため、その理由を使うわけにはいかない。
他人の振りをするか、それとも別の理由を作るか。
どう説明しようかと悩んでいると、エセルバートの前にエマが一歩踏み出す。
「エマ・ハートネットです。エセルの妹で魔女です」
「魔女? きみがか?」
「はい。ついさっきも魔法を使いました。そろそろ効果が出ている頃ではありませんか」
騎士団長は驚愕に目を見開いた。
「うう……っ」
ベッドからリーヴァイの唸る声が聞こえて、慌てて覗き込む。額にはじっとりと脂汗が滲んでいた。
「エセル、私ちょっとこの人と話があるから、あっちに行ってるね」
妹を騎士団長と二人きりにすることは不安ではあるけれど、リーヴァイを放置することもできない。
「すまん。心配させるようなことはするなよ」
「もう。私は子供じゃないんだからね」
頬を膨らませたあと、エマと騎士団長が部屋を出て行く。
サイドテーブルに用意された水を張った洗面器に、タオルを浸して水を絞る。優しく額の汗を拭って、リーヴァイの顔を覗き見る。
今の状態が続けば、リーヴァイの命はこのまま尽きる。
何もしないままじっと眺めているなんてできない。何をすればいいかは、エセルバートに分からなくてもエマなら知っているかもしれない。
彼が生きる可能性を考え、エセルバートはようやく自分の足で進むことを決めた。
医務室を出ると、エマと団長が待っていた。
「エマ。今の俺にできることはあるか?」
「……顔色が悪いよ?」
眉を八の字にして、気遣わしげにエマが言う。
「大丈夫だ。じっとしているより、動いている方がましだとやっと気づいたからな」
苦い笑みを浮かべて、先程まで暗く沈んでいた自身を反省する。
安堵した表情を浮かべるエマは、すぐに応えてくれた。
「師匠に会えばリーヴァイさんは何とかなるかもしれない。でも師匠は変わった人だから少し難しいかも……。それでもいいなら、行こう」
差し出してきた手を迷いなく握り返す。小さな手は、エセルバートの手にすっぽりと収まった。
「先程のお話、帰ってきたらお受けします」
「分かった」
エセルバートが見ていないところで話が進んでいたようだ。騎士団長は頷いた後、騎士団本部へと戻って行った。
会話が気になって口を開こうとすると、エマがポケットから取り出して鈴を振る。
周囲に澄んだ音が響くと、淡い蛍のような光の粒子が現れた。足元が揺れると床から突き出るようにして扉が出現する。
「これは……転移門?」
転移門は転移魔法と似たような魔法で、呼び出した扉の向こうには行きたい場所へ繋がっている魔法だ。
エマが呼び出したのだろうか。疑問にエマは苦笑して首を横に振った。
「私じゃないよ。今鈴を振ったでしょ? これは師匠への合図なの。城に入るときも師匠に頼んだんだよ」
城の中に入れたのは、そういう手段を使ったからだと知ると、エセルバートは納得して頷いた。
エマは使わないようだが、魔女にも魔法の向き不向きがあるのだろう。
「行こうか」
エマがドアノブを回して扉を押す。扉を境にして、向こう側にはここと別の景色が広がっていた。
飛ぶらの向こう側へ足を踏み出すと、一瞬で森の中へと移動した。双子が潜ると、扉は消えて行った。
空間を移動するときに嫌な感覚があったり、気分が悪くなったりするのかと思っていた。けれど呆気ないほど何も感じなかった。
普通は徒歩か、馬などで移動する。その場合は肉体も精神もかなり消耗してしまう。
負担がかからない移動方法はとても魅力的である。
「便利だな」
「一度に大人数の移動は難しいんだけどね」
周囲を見回すと樹木が広がり、地面には草が生い茂っていた。目の届く範囲はずっと一面緑一色だ。かなり広い場所のようだ。
「どの辺りなんだ?」
「たぶん、オルヘイム帝国かな」
一瞬で隣国まで移動していたのかと、改めて魔法の偉大さに感心した。
「マリオンさんに会うにはどこへ行けばいいんだ?」
「ここだよ」
エマが目の前を指さすけれど、木や草が生えているだけで、他には何もない。
「えーと……?」
「少し待ってね」
エマが腕を上げると、何もなかった空間が裂けた。
木や草をなぎ倒したのではなく、何もない場所に綺麗に切れ目ができて空間が開いたのだ。
エセルバートは驚きで硬直してしまった。
人が入るには小さい切り口に、エマが両手を突っ込んで広げる。音もなく裂け目は広がった。
まるでチーズのように柔らかいものを裂いているようだった。
人一人が余裕で入れる大きさになると、少女が一仕事終えた職人のように満足そうに微笑む。
「この奥に師匠の小屋があるの」
「そ、そうか……」
魔法は便利だが、エセルバートには理解できない領域なのだろう。
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