夜の匂い

キノ猫

 深夜のコンビニは特別な何かかあると思う。

 いつか彼氏の前で呟くと、わからん、という答えが返ってきた。知らん。でも何かが確かにあるのだ。


 雨上がりの夏の夜。くたびれた私はアイスが食べたいと座椅子に座っている彼氏にねだった。彼は肩の汗をきらめかせながら「ほないこか」とスマホに言った。

「あーん? てめえの相手はスマホかよおらあー」

 ベッドを独占していた私も天井に投げる。

「みきちゃんは天井じゃん」

「ラブラブやねん」

「それはよかったね」

 投げキッスのような素振りをして、彼氏を見た。彼は干してあったTシャツを着て、外に出る準備をしていた。天井投げキッスは虚しくなってやめた。

「それでも関西人ですかあなた!」

「知らんよ、俺県外に居たんだけど」

 私が何かを言い出す前に、羽織るものを腕にかけて「ほら、行きますよ」と手を差し出した。

 これをされると私は何も言えなくなるのを知ってるからずるい。彼の手を取って立ち上がった。


 白いスニーカーの踵を踏みながらアパートを出た。雨上がりみたいで、水気を含んだあの独特な匂いが全身にのしかかる。隣に黒が基調のスニーカーが並んだ。ヒールカウンターが折れてなくて綺麗なもの。

「早いよ、待ちに待った散歩にやっと行けた犬じゃん」

「お、夜の散歩か? いいぞ?」

 彼氏は笑って、私の手を握った。あたたかい。

 そんな彼氏の隣をライトをつけた車が通った。濡れたアスファルトをきらきらと照らしては消えていく。だんだん遠くなっていくテールランプ は、夜を引っ張っていくようだった。

「くぅーっ、夜だな。おらワクワクすっぞ」

「夜ってだけで覚醒するんかい」

「金髪になるかも」

「俺とお揃いかな?」

 ブリーチして髪の色素が抜けた金髪が街灯に照らされてきらきらしている。色がすぐに落ちてしまって落胆していたのを思い出した。

「お揃い、いいんじゃない?」なんて、揺れる髪に笑いかけた。

 彼氏は繋いでいた手を離して私の頭を撫でた。照れ隠しのそれは、靴を買いに行った時を思い出す。降りてきた彼の手を取り、繋ぎ直した。


「ねえねえ、ペトリコールって知ってる?」

「え、なんて?」

 繋いだ手を振っていた彼は、ピタリと止めて私に尋ねた。私はもう一度、ペトリコール、と同じ単語を口にする。

「んー……。知らんわ」

 俺の聞き間違いかと思ったから聞いたんやけどな、と車道側の手で頭を掻いた。

「雨上がりの地面から上がってくる匂いらしいよ」

「不思議な言葉もあるもんだね」と彼氏に笑いかけた。

 彼氏の知らない言葉を知っている共有できる喜び、そして僅かな優越感が生まれた。

 彼は私より頭が良かった。さまざまな知識を披露して、教えてくれるから、会話がとても楽しいが、同時に、知識や学がない私と話していて楽しいのだろうかと不安になる事もある。でも、そばに居たいから、恋というものはそういうものなのだろう。

「でもペトリコールなんて言葉使う事なさそう」

 核をついてきた。うぐ、と喉から音が出る私。

「確かにそうやけど……。でも、自分が好きなものに名前がついてるのって嬉しいんよ」

 雨上がりの街の匂いは特別な雰囲気がある気がする。

「へえ、好きなんだ」

「うん、今とか」

 彼氏は少しの間目を閉じていたが、「独特な感性だなあ」と呟いて私の腕を優しめに引いた。歩道橋の下を通れば、後少し。


 コンビニから出ると、蒸し蒸しした空気に晒される。コンビニはクーラーが効きすぎてもはや寒かった。

 道端の柵にかけられたビニール傘を一瞥して彼氏の前を歩く。あいつはひとり、私は彼氏とふたり。嬉しくなって、買ったばかりの袋をぶんぶん振り回した。

 コンビニが寒かったとはいえ、やはり夜風は冷たい。くしゃみで空気を裂いたら、彼氏は後ろから上着を掛けてくれた。ふわりと彼氏の匂いがする。

「風邪ひくでしょ、もー」

 ありがとう、と返した。ホントは私のために持ってきてくれたんでしょ。

 彼氏はレジ袋を見た。

「でも買い物それだけでよかったん?」

「うん。これがよかった」

 ガサガサと袋から買ったアイスを取り出す。二本つながっているアイスで、分け合う事を想定したものらしい。パキッと折って、彼氏に押し付ける。

「半分こ! チョココーヒー嫌なんでしょ、地中海レモンにしたよ」

 彼氏はコーヒーが入っていると警戒する。あまりコーヒーコーヒーしてないんだけどなあ。

「ありがとう。じゃあ帰ったら俺のも半分こね」

「わあい」

 栓を取ると、甘酸っぱいレモンの匂いがした。アイスがじんわりと冷たいが、心にはあたたかな感情が、広がって笑みが溢れた。


 アイスがなくなりそうな頃。

 私のボロボロの靴を見て、彼氏は呟いた。

「靴、買わなきゃな」

「なんかごめん」

「深い意味はないよ。みきちゃんずっと靴欲しいって言ってるからさ」

 俺は先月買ったし、と彼は続けた。


 ……いつだったか、靴を見に行った時、私は店員さんと話し込んでしまい、イヤリングの話になった。彼氏から貰ったと言ったところ、店員さんに沢山褒められた。店を出て、真っ赤になった彼氏は、無言で私の頭をわしゃわしゃと撫でた事があった。


 思い出してにやけた私に彼氏は小突く。

 ごめんごめんと謝りながら、思い出した話をすると、彼氏はそっぽを向いてしまった。

「でも靴はお揃いがいいな」

「別にいいですよ」

 明らかに拗ねたような声に小さく笑って、「嫌ならしないよ」と言っておいた。

「照れてるだけです」

 ぶー、と続いて返ってきた返事がとても可愛らしくて、握った手に力が入った。


 アパートの前で私は彼氏に振り返った。

「ね、深夜のコンビニ散歩、悪くないでしょ?」

 彼氏は私に近付きながら答える。

「そうかもしれない」

 その答えがとても嬉しくなって、目を細めて、にひひと笑った。「でしょ?」

「さ、お家に入ろう、寒いでしょ?」

「そうね、じゃあまた、付き合ってくれる?」

「もちろん」

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