一台の自転車が停まっている時、もっと多くの自転車が走っている――ボブ・マーリー

第95話 卒業です Graduation

 二月の半ば。

 一年の締めくくりとなる学年末考査が行われた。

 結理先輩や愛紗は特に問題も無く、光先輩も、

「まぁ、あたしにしてはがんばったね」

 と少々自信なさげに話していた。

 それを聞いてダメだと思ったが、光先輩も無事進級出来るらしい。

 同学年になる事を少し期待したので、残念に思えた。


 三月に入ると卒業式。

 鴇凰高校から先代部長と柳先輩が旅立って行く。

 少し寂しい気持ちと共に、なぜ柳先輩は柳先輩と呼ばれていたのか、謎が解けなかった所に少しモヤッとした。やはりユーレイ部員だったからだろうか。

 先輩方とはもう学校では逢えないが、走り続けていればどこかで遭遇するかもしれない。


 そして完全に三人となってしまった自転車愛好部。

 鴇凰高校グラウンド端に有る部室荘こと、旧部室棟には三人が集まっていた。

 完全に三人となった自好部に変化が有ったかと言うと……


「で、あったかくなってきたから、練習も兼ねて油山走ってたんだけどさぁ――」

 いつもの様に机に座る光先輩。

「それって……タイヤの交換時期?」

 作業場でクロスバイクのホイールを外してなにやらしている結理先輩。作業をしながら、光先輩の話を聞いていた。

「まだ行けるよ! ガチな走りしなければ」

「そのうち……タイヤ滑って転ける」

「ってか、今お金がないし」

「タイヤとブレーキは重要……」

「分かってるけどさぁ、限界まで使い切ってから交換したいじゃない? カーカス見えるまでとは言わないけど」

「ケチ……とは思うけど、私も廉価タイヤだから、あまり人の事は言えない」

「金色のタイヤならスグ交換するんだけどね」

「ゴールデンタイヤはケンダでも出してない……と思う。ゴールデンホイールなら有る。普通のホイールも、自転車メーカーの名前としても」

「金色のホイールは憧れるよねぇー。カッコいいし」

「別に……」

 そんな二人の会話をイスに座って聞いている愛紗。カーカスがよく分からないが、タイヤとかホイールとか、車輪関係の話をしているのは間違いない。


 と、自好部内は何も変わらなかった。

 変わらない事が良い事が悪い事かは分からない。

 それよりも、愛紗は結理先輩がやっている事が気になっていた。

 結理先輩はホイールをフレームから外している。チューブでも交換するのかと思っていたら、タイヤまでホイールから外してしまった。そこからもまだ何かをするようである。

 これは気になって仕方が無い。

「結理先輩、何しているんですか?」

 我慢出来なくなった愛紗は、作業場へ移動して結理先輩に聞く。

「さっきも言った通り……タイヤは重要。私はスリップサインが消える前でも、不要なトラブルが出る前に交換する」

「スリップサイン?」

 初めて聞く単語だ。

「これ」

 結理先輩はタイヤに有る小さな丸いヘコみを指差した。

「タイヤにヒビや穴が開いたら当然交換。でも、それが無くてもスリップサインが消えたら交換の時期。平田さんのタイヤにも有るはず」

 そう言われると、確かにタイヤにはヘコんだ部分が有ったような気がする。

「これそういう意味だったんですか! なんか製造上のミスかと思ってました」

「そうじゃない……。タイヤ交換の時はチューブとリムテープも交換している」

「リムテープ?」

 遠い昔に聞いた事有るような、無いような。

「これ」

 結理先輩はリムに有る濃い青のテープを指差した。テープは所々ヘコみが見える。

「……スリップサイン!」

「違う」

 被せ気味に否定された。

「チューブが高圧だから、ヘコんでいる。このテープがズレたり、劣化して穴が開くと、ニップルホールでチューブがパンク。だからタイヤを交換するぐらいのタイミングで交換する」

「へぇー」

 結理先輩は古いリムテープを外すと、新しいリムテープをハメる。

 バルブ穴を合わせて、古いチューブから切り取ったバルブ部分だけの物をバルブ穴にハメる。無ければドライバーでも良いらしいようで、大半の人はドライバーを使うだろうと結理先輩は言う。

 リムにリムテープをハメていくが、テープが全然伸びないのか、少し大変そうだった。

「これは……伸びを最小限にしてパンクリスクを減らしたシマノの優しさ」

 本当にそうなのかは分からない。

 リムテープをハメ終えると、新しいタイヤの登場。新しいタイヤは平べったい状態で折りたたまれていた。

「こんなにコンパクトなんですか? 新しいタイヤって」

「フォルダブルなら……ワイヤービードならよく見る形」

 新しいタイヤを広げて、タイヤの形に整える。その形はふにゃふにゃで、頼りない感じがした。

 リムにビードの片方ハメると、あとはチューブ交換の時と同じ手順になる。少し空気を入れたチューブをタイヤの中に入れて、もう片方のビードをハメる。チューブがタイヤとリムの間に挟まってないかチェック。

 そしてフロアポンプで空気を入れていく。ある程度空気を入れると、タイヤがビキッ! バキッ! と音を立てた。

「結理先輩……これエイリアンが卵から孵る音ですよね?」

「産まれるかぁ!」

 机の上から光先輩のツッコミが飛んできた。

「いや、音的にそうじゃないですか?」

「これはリムにビードがハマる音……新しいタイヤは滑りにくいから、勢いよくハマって音が出やすい」

「よかったぁ……。もしエイリアンが出てきたら、誰がママになるのかと」

「愛紗ちゃん、エイリアン育てるつもりなの?」

 チューブに空気が詰まると最初は頼りなさそうに見えたタイヤも、いつもの見慣れた形へと変貌していた。

 前後ともタイヤ・チューブ・リムテープを交換してフレームにホイールを戻せば、作業終了である。

「タイヤ交換って聞くと難しそうですけど、意外と簡単なんですね」

「作業的には、チューブ交換の延長みたいなもの」

 確かに一部の工程はチューブ交換と同じだった。

「世の中には、タイヤローテーションをする人もいる。後輪の方が減りが早いから、前後のタイヤを入れ替えて延命。私はしないけど」

「入れ替えちゃっていいんですか?」

「別に前後決まってる訳ではないから。タイヤ交換で一番難しいのはリムテープの装着……いやタイヤ選びか。自分に合うタイヤが決まっていないと、あれもこれも試したくなって、タイヤ沼へ」

「沼……」

 この部に入ってよく聞く単語である。

「タイヤは高級でも廉価でも沼。メーカーや品種によって乗り心地も走りも全然違う。変化が一番分かるパーツと言っても、過言では無い」

「恐ろしい……」

「雨の日とか考慮し出すと、更に泥沼……タイヤによっては凄く滑る」

「私たちは雨の日は乗らないから、安心ですね」

「あと、場合によってはこれが必要になる」

 結理先輩は工具箱から円筒の白い容器を取りだした。蓋は青いプラスチック容器だ。

「これは?」

「チューブがタイヤに付かない魔法の白い粉」

 メーカーによっては、チューブとタイヤが融着する場合がある。こうなると、交換の時に剥がすのが大変になる。

 元々新品チューブは少し白い。これはチューブ同士がくっつかないように粉が付いている為。追い粉でタイヤと融着しにくくしてくれるのが、この魔法の白い粉タイヤパウダーである。成分は似ているし、いい香りがするからとベビーパウダーを使う人もいる。

「白い粉……プロテインじゃダメですか?」

「流石に勿体ない」

 食べ物は大切に。

 結理先輩は後輪をメンテナンススタンドに乗せてホイールを回した。その様子を眺めては、うっとりしている。

「私、新品タイヤのスピューヒゲバリモヒカンが好き」

 結理先輩がヒゲ面のモヒカン男が好みだったらどうしよう。

 余計な心配が増えた愛紗であった。

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