第93話 人生で最初に握るコントローラー

 目の前には、落ち葉の広がる道が有る。落ち葉の無い所からは、茶色い土が見えていた。その土の道路が飲み込まれるのは、鬱蒼とした森。今居る付近だけが、陽の当たっている。

「これ、行けるんですか?」

 こっちから行くと言ったのは愛紗自身だが、流石に不安になってきた。

「愛紗ちゃん、夏を思い出して。雷音寺の参道とか」

 篠栗八十八ヶ所霊場四十九番札所雷音寺。猫峠の途中から参道を登って行くのだが、スリップ防止の溝が入ったコンクリート舗装や未舗装の砂利道だった。徒歩や自動車の人はいいだろうが、自転車で走るのは大変な道だった。

 あの道を考えると、目の前の土道はまだ走れそうな気はしてくる。

「どうする? 戻ってバス道から行ってもいいけど?」

 光先輩が聞いてくる。

 矢印板に書かれた展望台までの距離は九百メートル。そんなに長くない気がする。

 ――と思って何度かダマされた事か。

 しかし、戻れば倍以上の距離。それでは時間がかかる。

 だとしたら、答えは一つしか無い。

「行きましょう、光先輩!」

 愛紗は力強く答えた。

「行く?」

 なんか、光先輩の方が引き気味だ。

 しかし、愛紗の決意は固い。

「行きましょう。文学碑が有る道なら、通れないはずは無いです」

 檀一雄文学碑は一〇〇メートル先。その先には思索の森。思索の森はよく分からないが、通られるのは間違いない――はず。

「私も……檀一雄文学碑が気になる」

 結理先輩も珍しく乗ってきた。

 賛成は三人のうちの二人が確定。もう、これで決定だ。

「そこまで言うなら行くか!」

 三人は土道を進み始めた。

 土で出来た道は予想以上に走りやすい――と思ったのは最初だけだった。落ち葉が積もっている所は落ち葉でタイヤが滑り、思うように進まない。勾配が緩いのが、不幸中の幸いだ。

 なんとか登って進んで行くと、右側に大きな石が見えた。

「これが……檀一雄文学碑?」

 大きな石の真ん中に黒い石がはめ込まれ、何か文字が書かれている。

 ロードバイクを停めた光先輩が文学碑の前で腰を下ろし、文字を読もうとする。

「モ……モガリ……モガリなんとか? 字ぃ崩しすぎて読めないよ」

 石板には、こう書かれている。


 モガリ笛 いく夜もがらせ

 花二逢はん

         檀 一雄


 これは檀一雄が亡くなる五日前に残した辞世の句である。

 モガリ笛とは、冬のヒューッと笛のような音を立てる風の事。虎落もがり笛は冬の季語として、俳句にも登場する。

 碑文の説明にはもがり笛がそういう風の形容のことばと書かれているが、肺の病に冒された檀一雄自身を表しているのではないかという解釈も有る。

 この辞世の句にちなみ、毎年五月に花逢忌かおうきが行われている。

「ねぇ、ココで言うのもなんだけどさぁ……」

 光先輩が文学碑を前に語り出す。

「檀一雄って何を書いた人なの?」

「えっ……」

 檀一雄が作家だと言うのは、愛紗でも知っている。

 女優・檀ふみの父親である事も知っている。

 『走れメロス』の元ネタと言われる太宰治の熱海事件で人質になった人というのも知っている。

 何を書いたか――それは知らない。

 答えを知らない愛紗は、茫然と立ち尽くすしか無かった。

「檀一雄さんは……」

 愛紗のそばに居た結理先輩が話し始めた。

「『真説石川五右衛門』『長恨歌』で第二四回直木賞を受賞した作家。自身をモデルにした『リツ子』シリーズや『火宅の人』が有名」

「へぇー」

 結理先輩の解説に、光先輩の分かってるんだか分かってないんだかという返事が返ってきた。

 それにしても、結理先輩が知っててよかった。誰も知らなければ、ここでググらないといけなかった。

「結理先輩、よく知ってますね」

「私……部室でも本よく読んでるから」

 結理先輩って自転車関連の本を読んでいる印象しか無いが。

「ええっ? 結理先輩、自転車以外も興味有ったんですかぁ!?」

「酷い……」

 一年近く一緒に居るのに、まだまだ知らない事が多いんだなと思う。

「檀一雄がなに書いたかは分かったけどさぁ、なんでココに文学碑があんの?」

 光先輩が再び聞いてくる。

 なんでここに有るのか……建てたかったから?

 文学碑の向こうには海が見える。

 ここは森の途中だが、海の見える場所に文学碑が建てられているのは、間違いない。

「海が見える所に建てたかったから、とか?」

「海……あっ」

 何かに気付いた結理先輩が文学碑に駆け寄る。文学碑と海を交互に見ていた。その目線は海と言うよりも、海の向こう側を見ているようだった。

「ここ……小田こたが見える」

「小田?」

「最初の妻、律子最期の地」

 戦後、檀一雄が結核に罹っていた律子と移り住んだのが、北崎村小田である。翌年四月に律子は亡くなり、この時の話を元に書き上げられたのが『リツ子・その愛』『リツ子・その死』の二部作である。

 この文学碑自体は、檀一雄が亡くなった翌年に知人、友人、アイランドパーク創業者の手によって建てられている。

「有名な作家だと、こうやって歴史を残す物が造られるのか……面白そうだな」

 歴史好きの光先輩が興味を持ち始めた。

 この県に他の作家の文学碑や記念碑的な物は有るのだろうか。私は知らない。


 三人は檀一雄文学碑を出発した。

 道は相変わらず落ち葉の積もってタイヤの滑る状態が続く。

「わっ!」

 前を進む光先輩が声を上げた。

 目の前には、今までの緩い勾配とはまったく違うやや急な坂。

「坂だぁ!」

 光先輩は嬉々として坂に突っ込むが、土でタイヤが滑ってしまい、ロードバイクが止まってしまう。このままではコケるので、素早く飛び降りた。

「無理なんですけどぉ!」

 光先輩はロードバイクを押して坂を登って行った。愛紗は坂の前からクロスバイクを下りて、押して坂を登る。

「ぅうーわっ……」

 坂を登り切った光先輩から、悲痛の声が聞こえた。

 坂を登り切った愛紗が見たのは、つるつるとした石がボコボコと飛び出しており、非常に不安定になった道。

「これは……乗ったら死ぬね」

 土や落ち葉以上に、石でタイヤが滑りそうだった。安全を考えて自転車を押して進む。

「今ほど、SPDにしてよかったと思ったコトはないよ」

 いつも通りロードバイク用のクリートが付いた靴なら、歩くのも大変だっただろう。

「グラベルロードだったらよかったとは思わないけどさぁ」

 今歩いている所は舗装路ではない。ロードバイクやオンロード仕様のクロスバイクで走るのには向かない。グラベルロードだったら、舗装路も今のような道も走られたのだろうか。


 ほどなくして、なにやら四阿と、丸い石を円柱状に積み上げた井戸っぽいものが二つ見える。

 近付くと井戸っぽい物は上部に大きな円状の石が載っている。井戸を塞いでいるのかと思ったが、近くに案内板が有った。

 それによると、これは『いざなぎ石』と『いざなみ石』だそうで、凸面の石と凹面の石が男性と女性を表しているのだそうだ。

 確かに片方は少し膨らんでいるように見えるし、もう片方は少しへこんでいるように見える。膨らんだ石の前には『いざなぎ石』のプレートが、へこんだ石の前には『いざなみ石』のプレートが有った。

「これ、どっちが男性を表わしているんですか?」

 と愛紗が聞くと、

「そりゃあ、イザナギが男神なんだから、いざなぎ石でしょ」

 すぐに光先輩から返事が返ってきた。

「なんで、凸面で男性を表しているんですかねぇ」

「そ、それは……」

 先ほどと違い、光先輩は返答に詰まっていた。顔も真っ赤になっている。

「さ、さぁ先に行くよ! 早く展望台まで行かないと」

 光先輩は愛紗を置いて先に進んでしまった。

「えー、知りたかったのにぃ……」

 しかし、愛紗の後ろにはもう一人居る。

「結理先輩は分かりますか?」

「……ノーコメントで」

 極めて冷静な回答が返ってきた。

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