第92話 スイセンのタネ

 緩い登りの斜面を歩いてバーベキューハウスの方に進む。

 バーベキューハウスが近付くにつれて、結理先輩がソワソワしだした。

「結理先輩、目的はあっちじゃないですよ」

 そう言うと、結理先輩の眉尻が明らか下がった。

 結理先輩の希望を叶えてあげたいのはやまやまだが、今日はまだ行く場所が有る。冬は陽が傾くのが早い。ゆったりまったりもしていられない。

「おっ!」

 先を行く光先輩が坂を登り切ってバーベキューハウスの横に着いた所で、声を上げた。

 愛紗も坂を登り切る。

「ぅわぁーっ! すっごい……」

 目の前の斜面には、黄色い副花冠と白い花びらの日本水仙が一面に咲き乱れていた。

 まだ花のついていない葉だけの水仙も多い。花がついているのは四割、五割ぐらいだろうか。だが固まって咲いているので、花が少ないという印象は無い。

 咲いている水仙の花は、ほとんど同じ方向を向いていた。陽を一番浴びる方向を向いているのだろうか。

 そんな水仙は風に揺られ、甘く淡い香りが周囲に漂っている。

「まぁだ、ちょっと早かったかなぁ」

 ここでは毎年、一月の中頃から二月にかけて十万本の日本水仙が咲くのだという。

「いや、十分じゃないですか?」

 愛紗は斜面を下りて、水仙畑の前でしゃがみこんだ。

 目の前にびっしりと咲く水仙の向こうには青い博多湾。博多湾の向こうには西戸崎の町並みが見えている。

「綺麗……」

 花との距離が近い愛紗の鼻の奥は、空気を吸い込む度に爽やかな香りにくすぐられていた。

「まぁ、今の時期ならまだ誰もいないから、好きな角度で水仙を独占し放題かもね」

 確かに水仙が咲いていない部分もあるが、咲いている所が収まるように見れば、一面咲いているように見える。

 愛紗のそばに来た光先輩が、愛紗の右隣に座る。

「それにしても……」

 続いて結理先輩も愛紗の左隣に座った。

「水仙とニラって似てる?」

「ニラ……」

 愛紗はニラの形を思い浮かべる。

 緑で細く平べったい葉。

 目の前の水仙は花が咲いているが、それ以外の部分は緑で細く平べったい葉。

 一緒だ。

 違いはと言えば、店頭で見かけるニラほどは長くないぐらい。

「こんなに違うのに……」

「え? 違う!?」

 長さ以外、あまり違いが分からない。

 敢えて言えば、水仙の方が葉が太いような気がする。

 気がするだけ。ハッキリは分からない。

 なんと言うか、大分・高崎山の猿を見分けるレベルで難しい。

 結理先輩曰わく、どうしても分からない時は引っこ抜けばいいらしい。根元に球根が有れば、有毒の水仙かハナニラなのだそうだ。

 野生のニラを食べるつもりは無いので、今後その知識が役立つかどうかは分からない。

 水仙とニラの違いを考えていたら疲れてきた。今目の前にある水仙さえも、ニラとは明らかに違う花がついているのに、葉がニラに見えてきた。

 一旦違う事を考えよう。

 遠くの博多湾を見ると、船が浮かんでいた。湾内を航行している。

 元々船はそんなにスピードの出る乗り物ではないが、遠いせいかゆっくり進んでいるように見える。

 静かな景色では、時折鳥の声が聞こえるだけ。

 時間までもが、ゆっくり進んでいるように感じた。


 冬のアイランドパークを漫喫した三人は、園の外へと出てきた。入口近くの駐輪場に戻ってきている。

「さ、こっから本日のメインイベント、展望台行きだよ」

 そう。能古島で一番高い展望台を目指すのである。

 二等三角点が有る場所が、標高一九五メートル。数字だけ見れば、大して高くないように見える。

 いや、実際徒歩だろうが自転車だろうが山を登っている人にとっては低山の部類だろう。普段登らない人にとっては、一〇〇メートルですら高く感じる。このアイランドパークまででさえも、キツいと言う人が多いのだから。

「どういうルートで行くんですか?」

 念のため、ルートを確認しておく。

「まず、さっき登ってきた道を下って、右のバス道へ入る。そこから登って二つ目のバス停の所に展望台方向への登り口が右側に有るから、曲がって登る。あとは十字路の所に展望台入口が有るから、左に曲がってラスト登って到着、だね」

「――登りばっかりですね」

「そうだろうね。展望台までは約一・五キロ。最初だけ下りで、あとは登りだね」

 バス道の分かれ道から一・三キロ。この距離がずっと登りだ。

「最初の下りさえ無ければ、登る距離も短いのに……」

「まぁ、他にルート無いし」

 そう言われると、仕方無いと思う。

 諦めてアイランドパークを出発し――ようとした所で、愛紗は向かいに有る公園の前で案内の矢印板を見つけた。

「光先輩、向こうから展望台行けるみたいですよ?」

 島のあちこちに有る木製の案内矢印板。場所と距離がメートルで記載している。

 そこには『だん一雄かずお文学碑』『自然探勝路』『思索の森』『展望台』の四つが同じ方向を向いていた。

 自然探勝路は島の左回りルート。狭い道だ。

 そして展望台はここから一三〇〇メートル。バス道入口からと同じ距離で、下らなくていい分、登る距離も短い――はず。

「えー、前来た時自然探勝路から登ってきた道だけど、展望台に行く道とかあったかなぁ……」

 思い出してみても、他に道があったようには思えない。

「でも檀一雄さんの文学碑が有るみたいですよ? 文学碑って言うぐらいだから、変な所にはないでしょう」

 檀一雄は昭和期の直木賞作家。晩年は能古島南側の海が見える小高い丘に居を構えた。

「うーん……文学碑とか、見た記憶も無いんだけど……。目立つよね? 普通なら」

「走るのに夢中で気付かなかったんですよ。行ってみましょうよ。新しいルートの開拓になるかもしれないし」

「んー…………行ってみるか」

 しばらく考えたが、結局光先輩は愛紗の押しに負けて、当初とは別ルートで展望台を目指す。

 自然探勝路の方向は、来る時に登ってきた坂と、駐車場の間の狭い道を進む。

 左右は背の高い生け垣。この生け垣の圧迫感が、道路を余計に狭く感じさせる。

 だが道は平坦に近く、非常に走りやすい。

 途中のアイランドパークの倉庫らしき場所を過ぎると、生け垣というよりは樹木が並んでいるような風景になる。林の中を走っているかのようだ。

 やがて開けて左に倉庫らしき建物が有る先で、真ん中に謎の石像が立つ分かれ道が現れた。

 三人は石像の少し手前で停まる。

 右はそのまま下っていく舗装路。

 左は落ち葉がびっしり敷き詰められた未舗装の登り坂。

 石像の右側には、西区役所の名義で自然探勝路は狭くて離合が困難という内容が標識に書かれている。

「光先輩、自然探勝路から来た時、どっちから来ました?」

「コッチ」

 光先輩は迷わず右を指差した。

「と言う事は、右が自然探勝路?」

 左の方が自然という気しかしないが。

「こっち……矢印板が有る」

 結理先輩が標識の裏側に有る矢印板を見つけた。石像と標識で存在が分かりづらかった。

 見ると舗装路の方はやはり自然探勝路で、その先で渡船場へ戻れるようだ。

「ねぇ……コレ」

 光先輩がその裏側に有る矢印板を見ていた。

 愛紗も落ち葉の未舗装路側へ回る。

 そこには『展望台』『檀一雄文学碑』『思索の森』の矢印板。

 この三つが、未舗装路の方を向いていた。

 光先輩が展望台の矢印板を指差す。

「展望台、この先みたいなんだけど?」

 愛紗は未舗装路の先を見た。その不安定な道は、そのまま森へと飲み込まれていく。

「ぇえ…………えええぇえええええぇええ!!」

 愛紗の叫び声が、森に響き渡った。

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