第72話 ウィンター人
もう秋も深まってきた。夏寄りの秋と冬寄りの秋とでは、性格が全く違う。少し前までは朝寒くて昼は暑い! なんて事も有ったが、今はもう昼も暑くない。
そろそろ冬支度を始めないと……と思いながら部室に入ると、一番に来ていた光先輩が真剣な表情で入口の鉄扉を見ていた。
「そろそろココの防寒対策をしないと、冬が地獄になっちゃうんだよなぁ」
こっちも冬支度か……。
「去年は地獄だったからねぇ。今年はエアーキャップか発泡スチロールでも貼り付けて少しでも断熱する。見た目が悪くなるけど、どうせ来る人いないし」
「暖房とか駄目なんですか?」
愛紗は鉄扉を閉めた。確かにこの古くさい鉄扉には、断熱性という言葉が有るとは思えない。春夏秋の三シーズンは気にならなかったが、前の冬を体験している光先輩がそう言うのなら、相当に寒いんだろう。
「暖房はさすがにダメ。火事になる危険性が高いからね。夏の扇風機は許可出るんだけど」
夏の扇風機は役立っていた。
「ほんのりあったかいのなら、ソコに」
光先輩が指差したのは、冷蔵庫。確かに放熱はしているから温かい。
だが、
「暖房としては役に立ちませんね」
熱量が足りない。
「うん。立たなかった。ないよりマシかなぁぐらい」
「駄目じゃないですか」
「だから今年は寒さ対策をする! それが部長としての使命だと思うんだ」
光先輩は気合いが入っている。もっと部長としてやるべき事が別に有ると思ったが、それは言えなかった。
「ま、寒さなら着込めばなんとか、ねぇ。去年もウィンドブレーカーとか着てたし。でもユリが寒くて指が……って言ってたから、なんとかしてあげないと。もこもこ手袋して作業とか出来ないし」
手袋した結理先輩を想像すると可愛いが、作業はし辛そうだ。
手袋と言えば……。
「あの、光先輩」
聞いておきたい事があった。
「なに?」
「前にちょっと話してましたけど、冬ってどんなグローブすればいいんですか?」
最初に買った指抜きグローブだと少し寒いと思う時がある。しかし指先まで覆われたグローブは種類が多すぎて、買おうと思ってもどれがいいか決められない。指抜きグローブだと手の平側クッション以外は、どれを選ぼうが大きく違いは無かったのに。
そこで参考となる意見を聞きたいのだが、店員よりは光先輩の方が色々聞きやすそうだった。
愛紗に聞かれた光先輩は、少し考える。
「うーん……冬グローブは、沼」
いきなり恐ろしい事を言い出した。
「絶対寒いのがイヤ! って言うなら、その辺のミスターマックスとかで安くて防風の冬グローブ売ってるから、それ買っとけば寒くないよ」
「え? それでいいんですか?」
意外な回答に驚く。
が、
「うん。ただゴワゴワして操作性も悪いし、通気性、透湿、速乾性もまーったくないから、何かあって外した後に再び手にハメると、冷えた汗で冷たくて最悪」
「うわっ!」
甘くはない。想像しただけで手が冷たくなったような気がした。
「操作しやすくて通気性もあって暖かいってグローブも有るけど、そんな便利なグローブは当然高いし、メーカーでの違いも大きい」
「ですよね」
自転車関連用品は、利便性と価格が比例する。入部して半年以上経つ愛紗にも、それは分かる。しかし、学生さんはお金が無い。ガクワリなんて制度も無い。
「そこで、愛紗ちゃんは極寒の山とか走らないと思うから、適度に通気性があって操作しやすいグローブから選択する」
「寒さは……」
そこが一番重要なのだが。
「中にもう一枚手袋着けちゃえばいいのよ。百均のスマホ対応のだと、スマホ操作する時も外さなくてイイから便利」
「そんなんでいいんですか?」
「いいんだよ。極寒用だとオーバーグローブってのがあるからね。その逆の考え。百均の手袋って単体だと薄くて頼りない感じがするけど、インナーグローブには最適なんだよね。外のグローブ外したときにヒヤーッとするけど、乾くのは早いし。あと、ボロになったとか臭くなったとかになっても、百円だから気軽に買いかえられる」
「なるほど」
そういう手が有るのか。というか、そんなんでいいのか。
「それに、少し寒いときはアウターだけ。寒くなったらインナーもってすれば、幅広い気温で使えるよ。グローブ一つだけでぜーんぶ済ませようと思ったら、沼にハマる」
「そんなに沼なんですか?」
「冬グローブって、何度ぐらいの気温に対応って、細かぁーく設定されてるのよね。それに合わせて買ってたら、お金がいくらあっても足りないよ。冬グローブだけで足りないから、調整用にアウターやインナーがあるんだけどね」
「服にインナー、アウターが有るような物ですよね?」
「考え方としてはね。でも、手はブレーキやシフトの操作があるから、厚手のモノは着けられない。指が動かしにくくなっちゃうよ」
「難しいですね。グローブはそれでいいとして、上下のコーデはどうしてます?」
「絶対条件として、防風」
さっきのグローブの時は出て来なかったワードだ。
「なんと言っても、風が余計に寒さを感じさせる。だから風を防ぐのが一番重要になってくる」
確かに風が有ると寒く感じる。夏とは逆の意味で、風が有るのと無いのとでは、全然違う。
「グローブは防風要らないんですか?」
「グローブは自転車用になると思うけど、だいたい防風仕様になってるし」
改めて言われると、そうだろうなと思ってしまう。
「防風アウターの下を、寒さに合わせて保温性がありつつも動きやすいようにすればいいよ」
「結局、グローブと考え方変わらないんですね」
「そだね。変わんないね、言われたら。アウターはジッパー式がいいよ。暑いっ! て時に開けて冷気を送り込んで冷やせるからね。調整しやすい。インナーは冬でも汗をかくから速乾のモノを。間は保温性重視にしつつ、動きやすいモノを。上はこんな感じだね。下は脚の動かしやすさ重視で」
「なんか大変そうですね」
「ま、自転車のウェアなんて大体毎回ある程度は固定されるから、答が見つかれば後はラクだよ」
言われると、今まで季節で多少変わるぐらいで、あまり大きく変えてない気がした。
「悩むぐらいならサイクルジャージでいいじゃないと思うかも知れないけど、これがまた沼でねぇ……」
グローブに続いて、こっちも沼ですか。
光先輩の遠い目が、その沼の深さを物語っている。
「『サイジャとか着てられるか! 俺は自分のコーデを見つけるぞ』と出て行っても、そっちも沼なんだけどね」
どこ行っても沼が待ってる。
恐ろしき自転車界。
「だからスパッと決めた方がいいよ。『こうした方がいいかなぁ』とか『こっち着た方がもっとよさそうだなぁ』なんて考え出したらダメ。ゼッタイ」
「そうやって沼にハマったんですね」
「ん……まぁ」
光先輩が口籠もる。
どうやって沼を抜け出したか気になるが、それを聞くと自分も沼に片足を突っ込みそうだ。やめておこう。
「なんか……盛り上がってる」
結理先輩が部室にやって来た。
丁度いいから聞いてみよう。
「結理先輩って、自転車のコーデってどうやって決めました?」
「……ぶかぶかになりすぎないような、着られる物から」
小さな結理先輩には、そっちの問題が有ったか。参考になりそうでならなさそう。ちょっとなるかもしれない。
「時期的に、冬ウェアの話?」
「そうなんですよ」
「まずは……防風」
話がループに入る。
冬は近付いているが、まだ準備期間。焦らずに準備をしていこうと思う愛紗であった。
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