第37話 『さ』ガー
三人は呑山観音寺を出て県道九二号線に戻り、猫峠を下っていく。
上りの勾配がキツいと言う事は、下りは速度が出やすい。カーブの手前では、しっかり減速する。
小学校分校から下のゆるーい下り勾配を進み、雷音寺入口の少し下で左へ曲がって柳先輩から逃げていた時にチラッと見た赤い橋を渡った。なるほど。これなら樹芸の森付近の坂は通らない。
県道は片側一車線の道路だったが、こちらは中央線も無い狭い道路。そんな道路をどんどん下っていく。やがて道路はうねうねとつづら折り、ヘアピンカーブが続くようになる。
公衆トイレから少し下ったヘアピンカーブの所に有るのが、七十番札所の
五塔の滝の御本尊は馬頭観世音菩薩で、札所の御本尊が馬頭観世音菩薩なのは、ここだけである。
文字通り札所から石仏の並ぶ道を進んで奧に行くと滝が有り、岩が折り重なった五段の滝を五重塔に見立てて名前が付けられている。
セルフ御朱印を捺して、さらにつづら折りの山道を下っていく。
左に分かれていく橋がある辺りから勾配が一気に緩くなる。三人はまっすぐ進むと、左側に大きな湖が見えてきた。
「え? 山の中に湖?」
「ココはダム湖だよ」
先ほどの五塔の滝の水が流れ込むのが、このダム湖。この水を堰き止めるのが、
二十三年の歳月をかけて完成した鳴淵ダムは水道用水の取水と洪水調整を目的とし、
折角なので三人はダムに寄って天端から下を覗き込んだ。
堤高七十メートル近い天端からの景色は、下に有る建物や篠栗線の線路が小さく見えた。ダムのすぐ下にはループ状の鳴淵大橋が見える。
「あれ、なんですか?」
愛紗が指差したのは、ループの真ん中に見える模様のような物。
「アレ、篠栗町の町章だよ」
篠栗町の町章はひらがなの「さ」がモチーフになったもの。
この道路は町道である。これぐらいの遊び心は許されるだろう。
そして鳴淵ダムは県の管理。なのでダムカードが存在する。福岡市管理のダムだと、ダムカードが無い。少し寂しい。
「あのループ橋、渡るんですか?」
「渡るよ、モチロン」
「早く行きましょう!」
天端から町道へ戻って下り坂を進む。
ループ橋を渡るなんて、初めての体験。
愛紗の期待が高まる。
――が、ループ橋はまだおあずけ。
ダムから下りてくる途中に有るのが、四十四番札所の
二列並んだ二十六仏状態の十三仏や、本堂内で出来る参拝者が一字だけ写経をして完成を目指す一文字写経等、小さいながらも個性の有るお寺だ。
縁に恵まれなかった男女がここで出逢い結ばれるという逸話から、縁結びの寺としても知られる。
ただし、中の人が居ない率が高い。墨書で書き置きの御朱印も有るが、御詠歌が書かれている。元々の納経帳にも御詠歌が書かれており、文字が被る。
愛紗はしばらく悩んでスタンプを捺した。後になって、御詠歌を透けないようにして貼れば良かったかなと思う。
大宝寺に併設された宿の前を通り、カーブを曲がると鳴淵ダムが見えてきて、鳴淵大橋の始まりで有る。最初はまっすぐ進み、三六〇度近くをぐるっと回って下る。
「いやぁ、ループ橋って思ってたより平気でしたね。もっと目が回るかと思ってました」
「これで目が回るなら、ヨドバシの駐車場は耐えられないね」
ヨドバシカメラに限らず店舗の複数階の建物上層階に駐車場が有る所は、大体グルグル回って上りがち。
そしてループ橋を過ぎた所に有るのが、四十三番札所の
自転車は駐車場に停めた。すぐそばには福徳門が有る。
「入るなら、向こうからの方がいいよ」
と、光先輩は町道に出て下りていく。
また吞山観音寺のような善人しか通れない階段かと思ったが、見えてきたのは女厄除坂に繋がる丸っこい胎蔵門、男厄除坂に繋がる角張った金剛門だった。
その向こうには旅館の看板が建っており、そばには修行大師像が建っている。
大師様、お泊まりですか?
胎蔵門を抜け途中の山門近くにある手水鉢で手を清めてから女厄除坂を登り切ると、大きな本堂が見えた。
明石寺は厄除の寺とも呼ばれており、左側には十メートル級の大きな厄除浪切不動明王像が建っていた。
本堂右側には先ほど看板が建っていた宿坊。このお寺は横に広く感じる。
献灯、献香を終えて読経の準備を進めていると、御本尊真言が二つ書かれていた。
よく見ると、一つは篠栗四国八十八ヶ所霊場四十三番札所の千手観世音菩薩。
もう一つは九州三十三ヶ所観音霊場三十三番札所の聖観世音菩薩だった。
この九州三十三ヶ所観音霊場はぼけ封じ、諸病封じの霊場で、昭和末期に西日本地域に作られたぼけ封じ観音霊場を元として、各地域で独立して作られた比較的新しめの霊場。一三〇〇年以上の歴史を持つ九州西国三十三ヶ所観音霊場とは違うが、巡拝は同じ北部九州五県となる。
本堂と宿坊の間ぐらいに有る半分地下のような通路を通って本堂の裏に行くと近畿地方に有る西国三十三ヵ所のお砂踏みができ、ぼけ封じ観音やこの地から出てきた大日如来像が祀られている。ここ宿坊の名前は、この大日如来に由来している。
この宿坊、近年はチェックイン前の時間帯に喫茶をやっており、ぜんざいやパフェを楽しむ事が出来る。
セルフ御朱印は本堂。墨書御朱印は中の人が居ない時は宿坊に声かけ。
三人は自転車を停めていた駐車場へ戻ってきた。時計を見ると、十六時を回っていた。時間の進みが早く感じる。
「あと三つか四つ、回れるかな?」
どこにあるかはよく分からないが、そんなに回れるのだろうか。まぁ、回れるんだろうな。
「そろそろ、登り坂が恋しくなった?」
「は?」
その答は、次の札所へ行く時に分かる。
明石寺から少し下った所で、光先輩は脇道の坂を登り始めた。久々の登り坂に愛紗はギアを落とすのを忘れ、重いペダルを踏みながら短い坂を登って行く。
天井の低い篠栗線の線路をくぐって左に見えるのが、八十二番札所の
小さなお堂だが、外には多くの十三仏が並ぶ。何組有るか、よく分からない。
お堂の前には樹脂製のベンチが有り、ロウソクメーカーの名前が書かれた背もたれに、愛紗は体を預けた。
「いやぁ、あんな不意打ち駄目でしょ」
終盤での坂は、脚にかなりのダメージがキた。下り坂で脚を休ませてなかったら、終わっていただろう。
「だから予告してたじゃない」
「あれは予告になってません!」
「全くだ。もっとしっかり、分かるように言って欲しかった」
珍しく、部長が割り込んできた。
「部長……」
もっと言ってください。
「あんなに間近で篠栗線の車両を見られるなんて。シャッターチャンスじゃないか」
そこじゃない!
愛紗の脚が回復したところで、読経まで終わらせてセルフ御朱印を捺す。
「まだ登り坂は有るんですか?」
お堂から出てきた所で、愛紗は光先輩に聞いた。坂は有っても構わない。不意打ちで現れると、ダメージがデカい。
「そうだねぇ……」
光先輩は少し考える。
「デザートを今日食べるか、明日朝一で食べるか」
なんだそりゃ。
でも、この言い方だと、今日の最後か明日の最初が坂なんだろうなぁ。
どっちが良いだろう。
夜に回復出来る分、今日がいいのだろうか。
そう考えつつ、次の札所へ向かう事にした。
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