第35話 あしがつらのこいました。

 愛紗が先輩たちが偽物ではないかと怪しんでいると、

「ここで出逢えるなんてレアだよ、やなぎ先輩に」

「……え?」

 あっさり答が出てきた。

 その名前は聞いた事がある。愛紗がまだ逢った事の無い、自転車愛好部最後の部員。遠出した時にフラッと現れると聞いてはいたが、突然ふらふらと現れたのだが?

 改めて自分が走ってきた道を見ると、さっき見た白い幽霊が髪を振り乱しながらゆらゆらと近づいて来ているのが見えた。

 よく見れば、脚でしっかりペダリングをしているではないか!

 脚が有るなら幽霊じゃないな、うん。

 一人納得していると、幽霊と思っていた人物は三人の前で停まった。

「おや? 珍しい」

 その人物は、か細い今にも消えそうな声を発した。夜中に声だけでも聴いたら、人間だとしても、本当に幽霊と間違えそうだ。

 そんな柳先輩が身に付けているのは、白い肌にぴったり張り付く白いサイクルジャージに白いレーサーパンツ。アームカバーやレッグカバーどころか、グローブまでまっ白。

 そんな白とは対極的な黒いつややかな髪は部長よりも長かった。

 こんな見た目、どうやっても幽霊と間違える。

 柳先輩が半分幽霊部員のようだとは聞いたが、見た目が完全に幽霊っぽい部員だとは聞いてないzp。

「お前が珍しいんだよ、柳ぃ」

「そうかな?」

 柳先輩は白いロードバイクから下りて案内板に立てかけた。英国ブランドで国内企業が作るラレーの細いフレームのロードバイクは、どことなく古い印象を与えた。

 愛紗はこのロードバイクが気になる。

「これ、古いロードバイクなんですか?」

「ん? 誰だ? スミ」

 スミとは部長の事である。

「新入部員だよ。自転車愛好部の」

「へぇー入ったんだ、新入部員」

「入ってなかったら部は無いだろう。大体、年度変わってどれぐらい経ったと思ってる。柳が部に顔出さなすぎだ」

「出る必要性を感じない」

 そんな柳先輩が愛紗の近くまで歩いてきた。部長は身長が高い方だが、柳先輩は更に高いように見える。かなり見上げる形になっていた。身体は細身で背も高いが、手足もすらっと長い。

「自己紹介がまだだったね。私は……柳と呼ばれている。別に柳と呼んでもらっても構わない。そう呼び始めたのはスミだが」

 と言う事は、本名が柳じゃないって事か。

 幽霊っぽい柳先輩……本名は小野? いや、それは憂怜ゆうれいだ。

 柳先輩の本名がなんなのか。なぜ柳なのか。

 謎は深まる。

「私は平田愛紗です。すみません、こんな格好で」

 愛紗は休憩中。座ったままだ。まだ立てない。

「いいよ。随分と急いでたみたいだし」

 柳先輩を幽霊だと思って逃げてたなんて言えない。

「そう、ロードバイクだったね。これは古いスタイルのロードバイク。でも、そんなに古くは無いよ」

「クロモリってだいたいそんなスタイルだもんね」

「いや、下郷。柳のはクロムモリブデンじゃなくてマンガンモリブデンだぞ」

 略すと、ちょっとキケンな響きになる。

 クロモリ系はスチール系のフレーム。スチール系では軽めの素材になる。軽めと言っても、今では重めになる。

 昔は主流で、この頃のレースに出ていた人は、ダウンチューブに付いたダブルレバーをヒザでシフトチェンジしていたと自慢しがち。

 現在は、より軽いアルミやカーボンが主流になってしまったが、今でも愛好者は多い。

「ところで柳、その髪はどうした?」

 部長が気になっていたのは、柳先輩のバラバラになった髪の毛。普通はまとめずに走るという事はない。空気抵抗にしかならない。

「途中で切れた」

「ったく。これを使え」

 部長はヘアゴムをどこからか取り出した。部長のどこからか物を取り出す技も、謎が多い。

「ああ、すまない」

 柳先輩は部長から貰ったヘアゴムで長い髪をまとめた。すっきりした印象に変わる。これならいきなり現れても怖くないかもしれない。多分。

 というか、髪を振り乱しながら現れるのが、一番いけない。

「で、これからどこ行くんだ?」

「猫峠越えて宮若から直方のおがた、北九州の方へ」

 一日で行くのだろうか。それなら数日かけて大きく変わらない距離を走る私たちが可愛く見える。

「そろそろ行くね」

「ああ、引き止めて悪かった」

「いや、有意義な時間だったよ」

 柳先輩は立てかけていたロードバイクにまたがった。

「どこまで行くか知らないが、無事を祈る」

 そう言うと柳先輩は走り出して、あっと言う間に小さくなっていった。よく逃げ切れたと、自分でも思う。

 三人は小さくなっていく柳先輩の背中を見送った。

「柳はなぁ、ああやって暇さえ有れば走っている。だから部室には来ない。でもうちの部が活動してると思われているのは、あいつの走りが大きい。部の活動として走ってるからな」

 柳先輩は自転車愛好部の守護霊かなんかですかね。

「ところで平田、脚は大丈夫か?」

「あっ」

 愛紗は立ち上がって脚を動かしてみた。特に痛みや疲労感は感じられない。回復したと思われる。

「大丈夫みたいです」

「なら、我々も出発するか」

 次の札所の案内はすぐそばに看板が立っている。県道から左に分かれた参道を進んで車で三分――自転車だと何分だろう。

 参道は上り坂になっているが、車で三分なら大した距離では無いだろう。

 この考えが間違いだった事は、この後思い知らされる。


「これ……本当に車で三分なんですか?」

 愛紗はもう音を上げそうになっていた。

 コンクリート舗装の道路を走るクロスバイクを通じて伝わってくる振動に、手がおかしくなりそうだった。

 車一台通ればいっぱいじゃないかと言えそうな、林道としか思えない参道を登っている。

「計算上は時速十五キロで走れば、三分で着くよ。計算上は」

 すみません。この坂でその速度は出せそうもありません。振動がキツすぎます。

 やがて坂がなだらかになって開けてきた。

 これなら少しは速度が――と思ったが、地面はコンクリート舗装では無く未舗装砂利道のグラベルへと変わる。タイヤが滑って速度は出ない。

「やっと着い……ん?」

 お寺は見えず、左に畑のようなものが見えるだけ。着いたように思えない。

「まだだよ。もうちょっと」

「まだかー!」

 コンクリートよりマシな砂利の振動を体験した後、参道が竹林に囲まれると再びコンクリート舗装に変わる。段々この振動が心地良くなってきた。もうダメかもしれない。天国へ行きそう。

 薄れゆく意識の中、再び開けて来ると左側に木で出来たお寺の看板が立っていた。

「今度こそ着いた……?」

 しかし、近くに見えるのは石積みの擁壁と階段。木の看板の横にあるへんろ道の札は、矢印が階段の方を向いている。

「まさか」

「この上。階段そんな長くないよ」

 とはいえ、ハードな道路の後にこの階段は堪える。階段はふとももに追いダメージがくる。短時間の休憩で動けるぐらいに脚は回復したが、まだまだ辛い。

 それでも階段を上りきって、四十九番札所の雷音寺らいおんじに到着した。

 火災の多さに悩んでいた消防団がお参りに来ると火災が減ったという話から、火伏せの御利益が有ると言われている。

 緑に囲まれた本堂で読経まで済ませて、セルフ御朱印を捺す。

 境内にテーブルと椅子が用意されていたので、ここで少し休憩。脚を休ませる。アスファルト舗装がいかにありがたいか、今回思い知らされた。

「もう、峠は越えてるんですよね?」

「越えてないよ」

 あっさりと光先輩。

「え……」

 聞かなければ良かった。そういえばボスラッシュが有るって言ってたな。登りきった喜びに、すっかり忘れてた。

「あと札所は四つ。上ってか、標高的には下だけど二つと、上に二つ。二つずつ固まってるから、まぁもうちょっとかな?」

 なんとか終わりは見えてきたようだ。さっき登ってきた参道の様に、終わりが見えない方が辛い。

 後少しなら行けそうな気がする。

 愛紗はそう言い聞かせて、自分を奮い立たせた。

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