第33話 峠の奥地できみを待ちうけているものは…!?

 猫峠。

 標高四四七・五メートルの山。

 篠栗町と宮若市みやわかしを結ぶ峠だ。宮若市は山林の多い農業の町と、炭鉱町から自動車産業の町へと変わった町が合併して誕生した。市では有るが、鉄道は廃線になっていて存在しない。

 猫峠の由来は、近くの犬鳴峠に対抗したとか、知名度に乗っかったとか、民話から生まれた縁起物だとか、そんな事は一切関係無かったりする。

「峠かぁ……」

 確かに坂が無いとは言ってなかった。

 しかし、いきなり峠というのはハードすぎやしないだろうか。どれぐらいの坂か知らんけど。

 そんな事を思っていると、札所の入口が近付いた。光先輩が左に百八十度近く曲がる。愛紗も続いて曲がると、急勾配なコンクリート舗装坂道が現れた。さっき見た峠道よりははるかに短いが、勾配は明らかにこっちが上だ。シフトレバーを押して、ギアを落とす。

「いきなりハードすぎるんですけどぉ!」

 前を進む光先輩はスイスイ坂道を上っていく。坂は慣れているんだろう。

 後ろを見ると、部長が涼しい顔で上ってきていた。

 さすが電動アシスト! その効果は坂道で一番発揮するという。

 でも、あのE-BIKEを買おうとすれば、このクロスバイクが五、六台は買える値段。相当な課金が必要となる。

 愛紗は心で泣きながら坂道をなんとか登りきった。

 そこには広めの駐車場が広がっていた。ここは割烹料理店の駐車場だが、札所参拝者も停める事が出来る。

「なんですか……ハァ……あの坂。自転車で上る事……ハァ……考慮してないですよ!」

 愛紗は喋りながらも呼吸を整える。汗が頬を伝って流れていた。

 脚はかなり削られた様な気がするが、まだ大丈夫だ。

「いや、まぁ歩きでもキツいって言われるからね、あの坂。短いけど」

「先に言って下さいよ」

「言うヒマ無かったし。まぁ、でもこの後坂を登る時に『あの坂よりキツくないから行ける!』と思えるよ」

「その考えはおかしいと思います」

 三人は短い休憩を終えて駐車場に自転車を停めると、階段を上った。

 そこには緑豊かな庭園が広がっていた。札所感が一切無い。

 さっき書いてあった割烹料理店の庭じゃないだろうか。

「なんか別世界ですけど、違う所来ちゃいました?」

「いや、あってるよ」

 庭園の隅に小さなお堂が有った。これが二十七番札所の金出観音堂かないでかんのんどうだ。

 入口看板には『神峯寺こうのみねじ』と書かれてあったが、これは勧請かんじょうした高知の二十七番札所神峯寺に由来している。有人のお寺でも、無人のお堂でも、看板には勧請した四国八十八ヶ所霊場にあるお寺の名前が書いてある事が多々有る。 

 この金出観音堂は前の八十六番札所と名前が被っているうえに、今回はどちらも十一面観世音菩薩が御本尊となっている。なので、こちらは金出神峯寺かないでこうのみねじとも呼ばれている。

 この二十七番札所は篠栗出身で明治時代の衆議院議員とう金作きんさくの別邸だった場所に有り、現在も庭園は綺麗に保たれている。

 読経まで終えてセルフ御朱印を捺すと、さっき苦労して登った急勾配の坂道をラクラクに下る。

 車に気を付けて県道を渡れば、八十七番札所の弘照院こうしょういんに到着だ。

 広い境内を持つお寺だが、始まりは境内左の方に有る針の耳親子岩と御本尊の聖観世音菩薩しょうかんぜおんぼさつである。

 第二世住職が四国八十八ヶ所巡拝をキッカケに高野山へ行き、天台宗から真言宗に転宗している。

 その影響により、境内には十夜ヶ橋とよがはしが架かっている。

 伊予の大洲地方を回っていた弘法大師が泊めてくれる人もいなくて宿が無く、川に架けられた木橋の表面を土で馴らした土橋の下で一夜を明かしたが、この地の人々をどうすれば救えるのか悩んでいたら十夜ぐらいに感じたという話が残る。

 お遍路道具である金剛杖を橋の上で突かないのは、この逸話に基づいている。

 弘照院の本堂は、四十二段ある階段の男厄除坂を上って左側に建っている。男厄除坂を上ってまっすぐ行くと、三十三段の女厄除坂がある。これらの段数は、厄年に因んでいる。

 本堂で読経まで済ませると、墨書で御朱印をいただいた。最初の本明院以来、久々の墨書御朱印である。

 三人は駐車場へと戻ってきた。

「坂かぁ……」

 愛紗はこれから上っていく道路が有る方向を見上げる。目に飛び込んでくるのは、鉾立山ほこたてやま畝原山うねばるやまといった六〇〇メートル級の山々。

 猫峠はここまで高くない。現地点も少し登っているので、カテゴリーで言えば三級山岳になる。だが、初めて本格的な坂に挑戦する愛紗には、超級山岳のように思えた。

 まぁ、本格的な坂と言っても一気に頂上まで走る訳ではない。途中の札所に寄りながら登っていくので、一回で走る距離は短い。脚を休ませながら登っていくのなら、行けそうな気はする。

「なぁ、下郷。そこに道路情報が有ったから、この上から山がスタートだよな?」

「もう始まってる気もするけどね。下のカーブ、ナンバー振ってあるし」

 部長と、副部長である光先輩の会議が始まった。

「次の札所までは近いのか?」

「んー……中ボス。その次はラクだけど、その後は猫峠では一番離れてるかな? ラスボスってところ。休憩挟んだら、最後のボスラッシュ」

 なんか嫌な表現だ。

 ていうか、ラスボスの後にボスラッシュって。それはラストと言わない。

「愛紗ちゃんに補給させた方がいいのかな?」

「まだ元気なうちに補給しておいた方がいいだろう。何も受け付けなくなってからでは遅い」

「んじゃあ」

 光先輩がサイクルバッグから取り出したのは、スパウトパウチのゼリー飲料みたいな物。普通のゼリー飲料よりは細身になっている。

「手早い補給が出来るエナジージェル。コレの一番いい所は、フタが付いてるトコ。普通のエナジージェルだと切り口がベタついてイヤな気分になれるんだけど、コレならべたつかない」

 エナジージェルは文字通り、エネルギー補給の為の飲み物である。ジェル状になっている事によって素早く、また疲労状態で内臓の機能が落ちていても吸収出来る様になっている。メーカーによってミネラル、アミノ酸、ビタミン等の配合で違いが有る。味も様々だ。

 愛紗はゼリー飲料ってそんなにべたついたかなと思ったが、飲んでみて分かった。


 甘い!

 濃い!

 ねっとり!


 でも飲みやすく、ピーチの味もクセは無い。

 普通のエナジージェルは切り口から摂取する事になり、その空になったパウチの切り口がどうしてもべたつくのだそうだ。

 ゴミは持ち帰らないと行けない。べたべたのままで。

 確かにそれは嫌だな。

 エナジージェルを飲んで、元気になったような気がした――実感するの、早すぎるか? 気持ちも、パフォーマンス発揮には必要だ。

「それじゃ、次へ行きますか」

 弘照院の北側駐車場出入口から、県道九二号線へと出てきた。ここからはつづら折りの上り坂が続くのだそうだ。歩き巡拝だとまっすぐ突き抜けるへんろ道が有るらしい。

 自転車では行けるような道ではないので、三人は車道を走って猫峠を登る。

 2カーブのヘアピンカーブをグルッと回ると『観音公園』という看板が立っていた。観音様のいるありがたい公園なのだろうか。由来が気になる。

 それなりに登ってきたが、勾配は思ったよりもキツくない。確かに二十七番札所金出神峯寺の駐車場への坂の方がキツかった。これでは光先輩にまんまと乗せられた感が有る。

 次のヘアピンカーブを曲がって少し登ると、右側にお寺が見えた。札所の看板も立っているが、光先輩はスルーして先へ進む。

「光先輩、ここじゃないんですか?」

「ソコは後で来るよ」

 三人はさらに坂を登って行く。

 この辺はカーブが多く、直線区間も短い。ぐるぐると回って方向感覚が分からなくなってきた所で、

「着いた!」

 と光先輩が左の方へ寄っていった。

 入口で小さな不動明王が待っているのが、六十六番札所の観音坂観音堂かんのんざかかんのんどうになる。

 建物にはサビついた看板が有り『雲邊寺うんぺんじ』と書かれているが、これは四国八十八ヶ所霊場六十六番札所の雲辺寺うんぺんじ由来の物である。四国の雲辺寺は札所の中で一番標高の高い場所に有るが、こちらは猫峠の途中に有って更に高い場所に別の札所が存在する。

「くも……うん……くもなべでら? うんべじ?」

 愛紗は看板を見て知識をフル動員したが、振り仮名が無いので読めないでいた。

「ソレ、うんぺんじだよ」

「驚安の殿堂!」

「ドンペンじゃねぇよ」

 看板が付いていた建物に御本尊が祀られていた。入口には納経は隣の札所にてという事が書かれている。隣の札所は、先ほど通り過ぎたお寺だった。

 読経を終わらせると、登ってきた坂道を下る。

 光先輩が言ってたようにラクにすぐにたどり着いたのが、十五番札所の妙音寺みょうおんじだ。

 階段や坂でちょっと立体的な造りになっている妙音寺は、先ほど訪れた弘照院第一世住職の弟子が開いたお寺で、最初の本明院と同じ天台宗玄清法流に属する。本堂に有るお寺の御本尊は馬頭観世音菩薩ばとうかんぜおんぼさつ。怒ったような顔をしているが、これは元々。馬頭観音は怒りの表情が多い。逆に穏やかな表情は珍しいが、笑いながら怒る人みたいな表情も有ったりで、表情は豊かだ。

 馬頭観音の前にある石仏が、札所の御本尊である薬師如来となる。これは別の場所にあった薬師堂の後継者が居ないと言う事で、跡を継いだ事による。

 本堂の右側に有る建物のサッシ扉ガラスに第66番と第15番の納経所プレートが貼ってあった。ここで上に有った観音坂観音堂の御朱印も貰えるという証だ。

 第六十六番札所観音坂観音堂と第十五番札所妙音寺の御朱印を墨書でいただいた。

 観音坂観音堂で読経する前でも、御朱印はいただける。二回も坂を登りたくない人は、先に妙音寺から行く事が多い。

 光先輩はお参りを終わらせてから御朱印を貰う派。なので、先に観音坂観音堂へ行った訳だ。

 三人は自転車を停めた駐車場まで戻ってきた。

「次……ラスボスですよね?」

 愛紗はさっきの光先輩の言葉が忘れられない。次が、猫峠で一番長い距離となるはずだ。

「そだね。距離長いけど、猫峠は全部登りじゃあナイよ。途中下りがあって、そっからしばらくゆるーい登り」

 それなら行けそうな気がする。

 ――とは思ったが、観音坂観音堂を過ぎても道は曲がりくねっているうえに、勾配が増した気がする。さっきからペダルが重い。

 かといって、ここで焦ったりはしない。自分のペースを守る。完走の為の走り方は、志賀島で教わった。

 あくまで平常心。

 途中、左手のガードレールの向こうが開けて篠栗の町並みが見える場所が出てきた。その町並みは随分と下の方に見える。それなりの標高まで来ている事を実感するとともに、ここまで自分の脚で来たんだと感動する。

 坂を登る事を不安に思っていたが、今見ている風景は現実。実際に登っているのだ。

 木々で篠栗の町並みが見えなくなる頃、不安にさせる要素が一つ現れた。

「どうしよう……」

 先頭を行く光先輩が呟いた。

 一体なにが……?

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