自転車にショートカットなど無い――マイケル・ジョーダン

第29話 イクカ88

 七月。

 毎年この月に入ると始まる奉納神事で三大祭りに数えられる博多祇園山笠も、七月十五日の追山笠おいやまかさでクライマックスを迎える。

 四時五十九分から始まる追山笠は、八つ有るながれと呼ばれる地区のうち七つの流と、電線等による高さ制限で明治時代に一旦は消えた通常の三倍以上の高さを誇る山笠を建てる上川端通かみかわばたどおりの計八基の山笠が、櫛田入りを行い早朝の博多の町を駆け抜ける。

 現在は山笠を建てない残る一つの福神ふくじんながれだが、明治末期に雷鳴と太鼓を間違えた時計係により早く出てしまい、百年以上フライング欠場している。

 町界整理に伴う流の再編時に他の流へ移った町も有るが、その流は今も七流しちながれが描かれたマップの中でも他の流や御笠川に囲まれた白抜きとなっていて、目立つ。

 自転車愛好部の部員に博多地区の住民は居ないので博多祇園山笠はあまり関係は無いが、山笠が終わる頃には九州北部も梅雨が明けて、福岡の町にも本格的な夏が訪れるのである。

 だが、梅雨明け早々気分が落ち込んでいる人が、自転車愛好部の部室に一人。

「せっっっっかく梅雨が開けたのにっ!」

 愛紗は机に両手をついた。バンッ! という乾いた音が部室に響く。

「――もう……夏休みだなんて……」

 愛紗から漏れ出る悲痛な声。

 鴇凰高校は、下旬に入ろうかという頃には夏休みに入る。長期の休みは学生の特権。

 通常なら喜ばしい所だが――。

「もっと先輩たちと走りたいです」

 愛紗は肩を落とした。

 すでに自転車の魅力に取り付かれている。しかし、ソロで走ったのは近所ぐらいだ。家から離れた場所へは走った事がない。

 一人はまだ不安だった。

「まぁ待て、平田。まだじゃりン子チエの再放送予定が無いから、しばらく夏休みは来ないぞ」

「いや、今やってないから、RKB」

 夏休みといえばじゃりン子チエ。じゃりン子チエといえば夏休み。それぐらいよく再放送されていた。

 テープが擦り切れるほど再放送したと言われる関西は季節限定では無いので、夏休みに再放送していたなどと言えば出身地がバレてしまう。

「フツウの運動部なら夏休みも練習とか、試合とか、合宿とかなんだろうけど、ウチの部ってそういうのナイよね。先生に申請して走ったりはするけどさ」

「みなさんは夏休み、どうするんですか?」

 愛紗の質問に、各々の回答。

「うむ。夏は新作パーツを取り付けての試走だな!」

「夏じゃ無くてもやってませんか?」

「私も……多分普段と変わらない。姉がレースに出るなら、メカニックとしてついていく」

「え、お姉さんいたんですか」

 結理先輩は頷いた。

「私が自転車に興味を持ったのは……姉の影響。でも合う自転車のサイズが無かったからメカニックに……」

 結理先輩のお姉さんも背が小さいのだろうか。いや、それなら合うサイズの自転車がどうこう言わないはず。合うサイズが有るのを知っているはずだ。

「あたし、特に予定無いんだよねぇ」

 ある意味、いつもと変わりないな、うん。

「みっちゃん、去年は山さんと唐津からつに行ってた……」

「あー、行った行った。山さんが『唐津城と名護屋なごや城址が見たい』って言って泊まりがけで。結局一番テンション上がってたの、あたしが行きたいって言った鏡山だったけどね」

「泊まりがけかぁ……楽しそうですね」

 愛紗は少し興味が湧く。が、

「でも、唐津まで大体片道五十キロだよ? 名護屋城はもっと先だけど。山さんとあたしは色々見て回りたかったから向こうで一泊したよ」

「五十……」

 唐津市は隣の佐賀県に有る。平成の大合併で唐津市も、間にある糸島市いとしましも市域が広がった為に福岡市からは西へ二つ隣の市となっているが、距離は有る。ロードバイクで百キロ以上走る人なら日帰りでも行ける範囲であり、海沿いを走る国道二〇二号ではロードバイクを見かける事がある。

 愛紗はまだ五十キロという距離を走った事は無い。

 五十キロというのは、初心者にとっては一つのハードルのようなものだ。これを越えて走られるようになると、行動範囲が更に広がる。

 愛紗が最初に船を使ってショートカットで行った志賀島は、学校から陸地で東の方から回って行き、島を一周してから帰って来るとおおよそ六十キロとなる。それなりに走る距離としては丁度いいが、まだまだ初心者のような愛紗には辛いかもしれない。

「五十キロ、ねぇ……」

 光先輩は天井を見上げながら足をブラブラさせて考え事を始めた。

「ねぇ、愛紗ちゃん」

「はい」

 愛紗は光先輩がこっちを見たので、思わず返事をしてしまった。

「ウチに来ない?」

「はいぃ?」

 いきなり光先輩の実家に招待。

 招待されたという事は、これはもう答えが一つしか無い。

「えっと……両親に結婚のご挨拶ですか? まずは結婚を前提としたお付きあいを……」

「いや、ナニ言ってんの?」

 それ以外、何が有るというのか。

「約五十キロで丁度いい場所があるのよ、ウチの周辺なんだけど。ウチに泊まりながらソレを数日かけて走るんだ。ちょっとした坂とか有るけど、まぁいい感じの特訓になるかも」

「光先輩の家ってどこですか?」

篠栗ささぐり

 篠栗は福岡市から東へ二つ隣に有る町だ。山を越えれば飯塚という位置に有る。

 有名な物でパッと思い浮かぶのは、ブロンズ製では世界最大の涅槃像が有る高野山真言宗の別格本山である南蔵院なんぞういん、社長が有名なトーカ堂、あとは何がどうなって名前が付いたか分からない葬祭場の鉄閣寺ぐらいだ。金・銀・銅の次が鉄でいいのだろうか。知らんけど。

「篠栗で五十キロ……」

 今度は部長が腕組みスタイルで考え出した。

「下郷、八十八ヶ所か?」

「正解!」

「八十八って、四国のですか?」

「まぁ、アレが本場? だけどね」

 札所を巡拝する、というのは古くは近畿地方の西国三十三ヶ所から行われており、巡拝でも特に有名なのが弘法大師縁の地を巡る四国八十八ヶ所霊場だろう。

 札所の数は場所によって多少の違いは有るが、多くは観音霊場が三十三ヶ所、弘法大師霊場が八十八ヶ所、薬師霊場が四十九ヶ所、地蔵霊場が二十四ヶ所になる。

 大半は昭和初期までに作られていて、現在は一部しか残っていない、残っているが特に活動はしていない、残っているが専用納経帳の入手が難しい等、有名どころ以外は活動していればラッキーぐらいに思った方がいいレベルだ。

 篠栗四国八十八ヶ所霊場は、江戸末期に四国帰りの僧の意志を受け継いだ村の六人が作り上げた物が起源とされている。

 札所の移動が稀に起こるが、近年でも比較的活動している八十八ヶ所霊場だ。一番札所が南蔵院となっており、霊場の中心的存在でもある。

「え、一般の人も回っていいんですか?」

「四国回っている人たち、一般の人じゃないと思ってるの? バスツアーもあるのに」

 霊場のサイトには宗旨宗派は問わない旨を記載している事が多い。巡拝は誰でもウェルカムだ。

 誰でも、とは言うが四国は八十八ヶ所回るのも大変で、お笑い芸人が二人組でロードバイク巡拝をする番組があったが、一年間で半分も回ることが出来ずに番組が終わってしまった。

「でも、あの白いの着て、杖つきながら乗れるんですか?」

「白衣と金剛杖は歩きスタイル用だからね。さすがに杖はムリ」

「良かった。肩に担いで走るのかと」

「暴走族か!」

 形にこだわる人には、白衣を模したサイクルジャージも有る。近年は間口を広げる為か、動きやすい格好、参拝で失礼にならない格好と紹介するパターンも多い。服装としては、白衣よりも輪袈裟わげさの方が重要視される。

「難しくないですか?」

「大丈夫だよ。あたしでさえ、何度も回ってるんだから」

 光先輩が回れるなら、行けそうな気がしてきた。

「ところで下郷、どのルートで回るんだ?」

「え? 三十三番起点に右回りで」

 篠栗八十八箇所は札所の番号が順番通りに並んでいない。打ち始めと呼ばれる起点は、駅の北側にある三十三番札所となっている。

 部長は光先輩の回答を聞いて、少し考えた。

「なら、問題は初日だな。よし、初日だけは私も行こう。にゃんこ先生への申請は下郷がやれ。私が行くなら、にゃんこ先生も許可を出すだろう。大まかなルートは分かるが、細かいのは知らんから、ルート選定は下郷に任せるぞ」

「分かりました」

 こうして、光先輩が住む町を巡る旅が決まったのでした。

 でも、五十キロなのに、なぜ何日もかかるのか。

 それ以前に、初日の問題ってなに?

 愛紗の悩みは尽きない。

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