第23話 ハイテクが新しい車輪軸を創った。
自転車愛好部部室の奥に有る作業場には愛紗と光先輩。そして少し離れて結理先輩が作業場に居る二人をじーっと見ている。
そこまで監視するなら、やっぱり別日に自分のクロスバイクでやった方が良かったような気がする。
あまり難しくない作業とはいえ、初心者マークを付けてもいい素人に近い人間が他人の自転車を触るのだ。監視されるのは仕方無いのかもしれない。
とはいえ、こう見られるのでは、妙な緊張感が生まれてしまう。逆に失敗してしまいそうだ。
だが、光先輩のレクチャーが始まってしまった。
「コレがクイックリリースね」
光先輩が指差したのは、フロントに有るフォークの先、ホイールの中心部分。車体左側にレバーがフォークを沿うように伸びている。
「コレでホイールの着脱が簡単に出来る。元々は……確かギアチェンジするのにホイール外すのが大変だから作られたーとか、うえパー姉さんが言ってた気がするけど、ギアチェンジするのにホイール外すっていうイミが分かんない」
男は変速機を使わない! という時代、リアホイールの左右に違うギアを付けており、状況に応じてホイールをひっくり返して左右を入れ替えていた。この両面にギアが付いているのをダブルコグと言う。コグという単語はギアの歯という意味で、この場合は単純にギアの事を指す。
両面どちらでも漕げるから『ダブル漕ぐ』では無い。
その頃は蝶ナットで素手でも外しやすくしていたが、冬に近い時期に寒すぎてナットをうまく回せなかった経験から、ホイールを素早く簡単に外す為に生まれたのがクイックリリースである。
これは百年近く前の話であり、生み出したカンパニョーロのエンブレムにはクイックリリースのレバーが描かれている。
「で、外し方なんだけど――」
「ディスクブレーキタイプだと……そこにはもっと強度の高いスルーアクスルが付いてる」
説明不足で進めようとした光先輩の補足が、結理先輩から飛んできた。制動力の高いディスクブレーキはホイール中心部分に付いており、強い負荷がかかるからなのだそうだ。
「そういうこと。で、外し方なんだけど、まずブレーキを開く。タイヤがひっかかるからね」
クロスバイクの前方に立った愛紗はブレーキを見た。このクロスバイクにはVブレーキと呼ばれるリムブレーキが付いている。黒いアームには白字でDEOREと書かれていた。結理先輩なので当然シマノで、ミドルとエントリーの間を跨がるグレードとなる。
比較的安価ながらもブレーキの利きの強弱が付けやすく、街乗りからちょっとした遠出まで幅広く活躍してくれる。
「まず黒いブーツをズラして、右――前から見たら左ね。アームを押しながらバナナを引きつつ持ち上げる」
「バナナ?」
ブレーキ周りを見てみるが、バナナのような黄色い物は見当たらない。
「その銀色のにょーんって曲がったヤツ。本名なんだっけ?」
光先輩が答えを求めて結理先輩の方を向くと、
「リードパイプ」
と、一言帰ってきた。
「だって。やってみて」
光先輩に促されたので、挑戦してみることにした。
まずはそろばんの珠が連なったような黒く細長いブーツをずらす。右アームだけに付いてるフック部分の先からリードパイプの先端が飛び出ており、そこからブレーキワイヤーが反対の左アームに伸びていた。
右アームを押しながらリードパイプを引くと、飛び出ていた部分が引っ込む。リードパイプを持ち上げると、細いワイヤーがフックの切れ目部分を通り、リードパイプが外れた。
手を離すと、左右のアームは外側へと広がる。
「これでオッケー。次にレバーを起こす。やってみて」
「分かりました」
愛紗はクロスバイクの前にしゃがみ込んだ。フォークに沿うように、黒いレバーが存在した。
「これを……起こす」
指を引っかけて起こそうとしたが、思ったより固かった。指先に力を入れて、レバーを引き起こした。
「で、反対側を持ちながら、レバーを回して緩める。外れるまでは回さなくてもいい。レバー持って反対側回してもいいんだけど」
言われるままに向かって左側、車体の右側にあるナットを摘まみ、レバーを左に回し始めた。緩めすぎないということなので、数回回して止める。
「後は本体持ち上げたら外れるよ」
右手でステムを掴んで車体を持ち上げてみると、ホイールがフォークから離れてしまった。愛紗は慌ててホイールを掴む。
「こんな簡単に外れちゃうんですか?」
「そ。だから何か有ったときはホイール外した方がやりやすいし、早い。リアホイール外す時はチェーンがあるから、シフトチェンジでギアをアウターにしてから外す。違いはそれぐらいかな?」
「へぇー……あっ!」
感心しているところで、愛紗は一つ気付いた。
「どしたの?」
「このままだと両手塞がって作業出来ません!」
慌てる愛紗。右手にステム、左手にホイールで両手は塞がっている。
「このままフォークを床に着けちゃっていいんですか?」
「ダメ。それはダメ。チューブ交換練習は予備ホイールでやるから、もう戻していいよ」
愛紗は素早くホイールをフォークに戻して右手を上下に振った。
「あー、手がもげるかと思いました」
その様子を見て、光先輩はプッと吹き出していた。
「ホイール外した後は、壊れるから地面に直接着けちゃダメ。ホイール外した後のやり方はいくつかあるけど、自転車を上下逆にするとか、愛紗ちゃんとかのクロスバイクはスタンド付いてるから、壁とかガードレールにスタンドの反対側のハンドルとか、サドルを引っ掛けて自立なんてパターンも出来る。スタンドが付いてないロードバイクだと、ひっくり返す一択だけどね」
さり気ない説明に、衝撃的な一言が混じっていた。
「え、ロードバイクってスタンド無いんですか?」
「普通はナイね。理由はいくつかあって、まず少しでも軽くしたいから付けない。軽い方が有利だからね。次に、ロードバイクはそれが普通だと思ってる。スタンド付はカッコ悪いと。確かにレースに出るようなのだと付いてないからね。止まんないから必要無いし。ロードバイクに乗る一般人のロングライドとかでも休憩とかぐらいで、乗るのがメインだからね。最後に、ミドルクラスぐらいからフレームに使われるカーボンが、スタンド付けるのに向かない。カーボンは軽いけど、モロい。キックスタンドはステーを挟むのが多いけど、下手すると割れる」
「……あれ? でも光先輩のロードバイク……」
目の前にある結理先輩のクロスバイクのそばには、もう一台カバーがかけられた自転車がある。カバーの下には光先輩のロードバイクが有るはずだが、自立しているように見える。
「ナイよ。あたしのロードバイク、フレームはアルミだけど付けてない。部室で保管する時はホイール固定するスタンド使ってて、出先ではクランクに取り付けるスタンド使ってる。クランクのスタンドは安定感がそこまでナイから、駐輪位置は結構気を使うけどね」
一緒に走った志賀島ではそんなことしていただろうか。靴を履き替えてるのは覚えているのだが。
自転車にはスタンドが付いていて当然という先入観が有るので、気にしていなかっただけかもしれない。
「後は場所によってはサイクルスタンドってのが用意されてる。志賀島で見たかもしれないけど、工事現場にあるA型バリケードのデッカいヤツみたいなのね。木製とかアルミ製が多いかな」
言われてみると、志賀島の店先で木で出来たそんな感じの物体を見かけたような気がする。
「それにサドルひっかけて吊るすワケ」
「それ、大丈夫なんですか? サドルがもげたりとかしないですか?」
「いや、サドルにもっと重い人間が座って大丈夫なんだから、軽いロードの自重でどうにかなったりしないよ」
そう言われればそうだ。光先輩の言葉に納得した。
「んじゃあ、ホイール戻そうか。って言っても、手順はさっきの逆だけどね。閉めた後にレバー起こして、ホイールがまっすぐ付いているのを確認してからブレーキを戻す。スルーアクスルなら穴に棒をぶっ刺す形だから、ナナメにならないんだけどね。気をつけるのは、レバーはフォークに沿わせること。変なところにひっかからないようにね。リアだとシートステーの少し下ぐらいになるように起こす」
愛紗はしゃがみ込んでナットを摘まみながらレバーを回し始めた。外す時に何回転させたかは覚えていない。適当に回した所でレバーを起こそうとしたが、半分起こしたところで明らかに固いと感じた。
「微調整する時はナット側回せば良いよ。レバーだと一回転しか出来ないからね」
愛紗はナットを少し緩めて、再びレバーを起こす。やや固い感じがしたので、手のひらでグッと押した。見た目は外す前と同じように見える。
「これでいいの、かなぁ……」
不安に思いつつ、正面からフォークとタイヤの位置を確認する。斜めになっているような感じは無かった。
愛紗は立ち上がって、ブレーキのリードパイプを元に戻した。念のためブレーキレバーを握って確認する。動作に問題は無い。
「これでいいですか?」
「うん。大丈夫――じゃないかな? 先生、どうですか?」
光先輩が結理先輩の方を向くと、
「作業は問題無い」
と、一言帰ってきた。
「先生のお墨付きを貰ったから、次はチューブの交換の練習だね」
光先輩は部室の端に転がっているホイールを取りに行った。入れ替わるように、結理先輩がやってくる。
「再チェックするから……練習してて」
どうも自分で確認しないと気が済まない性格らしい。結理先輩はブレーキを解放してクイックリリースを緩め始めた。
ここでは邪魔になりそうだ。愛紗は光先輩が居る方へと移動した。
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