第15話 このせんざいだとひゃくだいはあらえます。わたしならやらないが。

 志賀島一周が終わって数日後。

 鴇凰高校グラウンドの最果ての地、部室荘一階にある自転車愛好部の部室には、いつもの四人が揃っていた。

「んんー……?」

 いつものように腕を組んだ部長が、イスに座る愛紗の顔をのぞき込んでいた。

 なんだろう。そんなに見つめられると恥ずかしいのだが。

「…………そうか。楽しかったか、志賀島」

「え、顔に出てますか?」

 愛紗は思わず手のひらで頬を覆った。そんなに緩んでいただろうか。顔に出してたつもりはないのだが。

「平田は隠し事が出来ないタイプだからな。私には分かるぞ」

「光先輩、私顔に出てますか?」

「いやぁ……」

 いつものように机に座る光先輩は首をひねる。光先輩には分からないらしい。

 白衣を着ると分かるのかな?

 エプロンを着けている結理先輩はどうなんだろう。

 部室の奥にいる結理先輩の方を見ると、いつものようにジャージにエプロン姿となって、作業場で自分のクロスバイクを色の付いたタオルで拭いていた。

 何をやっているんだろう。

「脚は大丈夫だったか? 特に終わった後」

 部長が聞いて来たので、再び部長の方を見る。

「脚、ですか? 帰ったら寝ちゃったんですけど、夜に目が覚めたら脚が痛いなぁーって。でも、朝には和らぎましたよ」

 愛紗はふとももをさすりながら答えた。

「当日……若いな。脚は二、三日休ませるといい。そして、それは何回か乗ってるうちに起きなくなってくるだろう。必要な筋力が備わってくるからな」

「分かりました」

「ずっと続くようなら、ペダリングかサドルの位置の見直しだな。脚に負担がかかりすぎているぞ。筋肉付けまくってマッチョ脚になりたいなら別だが」

 それは困る。そんな脚になってしまったら、制服をスカートからスラックスに替えないと。余計な出費だ。

 そう言えば、温泉で見た光先輩の脚は綺麗だったなぁ。

 結理先輩は……まぁ脚どころではなかった。あんなに食べてるのに……いや、あんなに食べてるから?

 何か秘密が――と結理先輩を見ると、まだタオルでクロスバイクを拭いていた。

 何をしているのか、気になってくる。

「結理先輩、何をしているんですか?」

 愛紗は作業場まで行って聞いてみる。

「洗車と……ワックス」

 結理先輩は作業の手を止めることなく答えた。

「洗車って、車とかだと水でザーッと洗っちゃうじゃないですか」

「プロのロードレースメカニックだと、高圧洗浄機で洗う……何台も有るから、その方が効率が良い。洗車の後の乾燥と注油はしっかりしないといけないのと、高圧水をかけては駄目な所が有るから、アマチュアにはお薦め出来ない」

「だから、アマチュアの結理先輩は高圧洗浄機で洗わないんですね」

「まず、その機械が無いから……。洗車後の乾燥をしっかりやれば、水をかけて洗っても良い。プロの選手も、汚れていればママレモンで洗う」

「いや、確かに新城あらしろ幸也ゆきやは台所洗剤でロードバイク洗うけど、ママレモンでは無かった……と思う、多分」

 遠くから光先輩のツッコミが飛んできた。

「一番楽なのは……車用品コーナーに拭くだけで洗車とワックスが出来る液体のスプレーボトルが売っているから、それをマイクロファイバータオルに付けて拭く。ボディに直接かけるのは駄目……液が変な所に垂れてしまう」

「マイケルハイパーカオス?」

「誰だよ、そのマイケル。発想が混沌カオスだよ」

 マイクロファイバータオルは文字通り細い繊維で編まれたタオルで、柔らかくて吸水性や吸着性に優れている、掃除には向いた素材だ。それ故、ぞうきんと同等の値段でも枚数は少なめで単価は高いが、その価格差の価値はあるだろう。

「でも、そういう洗車ワックスを手軽にやろうって人は、洗車ワックスのウエットシート使っているみたい。ワックスが駄目な所、例えばタイヤとかブレーキかける所――リムとかディスクローターを綺麗にしたい時は、泡のマルチクリーナーが有る。これはフレームにも当然使えるから、艶消しマット塗装のフレームなら、こっちで拭くのがお薦め」

「洗車一つとっても、奥が深いんですね」

「だから自転車は全部沼……拘りだしたら底無し真っ逆さま」

「自転車って、恐ろしい世界ですね」

 愛紗は息を呑んで一言。

「なお、これは私のやり方であって、全員が同じでは無い……正解が無いからこその、沼」

「そのとぉーりっ!」

 突然部室に響き渡った部長の声に、愛紗に身体は思わずビクッとなってしまった。部長の突然の行動は、毎回心臓に悪い。

「何度も言うが、自転車は十人十色。買った時は……まぁ、ブランドは同じでも年度によってパーツが違ったりもするが、基本一緒だ。でも、深みに嵌まれば嵌まるほど、乗り手の個性が色濃くなっていく。だからこそ、自転車は面白いのだ。平田も、それが分かる時が来るだろう」

 来るのかなぁ。

 個性って言っても、自転車は自転車だと思う。

 光先輩のロードバイクは個性が強いと言うより、クセが強いが。

 同じクロスバイクでも、カゴや荷台が付いた部長のは別として、結理先輩と自分のクロスバイクの違いはよく分からない。ペダルとか、明らかに違う場所除けば、見た目もほぼ一緒だし。

 自転車をもっと知れば、違いが分かるようになるのかな?

 違いが分かった暁には、ゴールドブレンドでも飲もう。そうしよう。

「……そろそろ仕上げ」

 結理先輩はそう言って、黒いボトルを取り出す。なんかラベルにシマノのロゴがあったような気がした。

「これは……?」

 自転車絡みの物なのは間違いない。結理先輩に聞いてみた。

「チェーンオイル」

 もう少し説明が欲しい。

「オイルってさぁ、結構沼よね」

 光先輩が口を挟んできた。

「人によって求めてるのが違うからな。音、汚れ、差しやすさ、耐久性――どこで妥協するか、だな。妥協しても、やっぱり別の使ってみようって再び沼へ嵌まるんだ」

 部長まで入ってきた。

「オイルって、そんなに違いがあるんですか?」

 折角だから、オイルについて聞いてみることにした。今の流れなら、喜んで教えてくれるだろう。

「あるある。ざっっくり分けても、四種類あるよ」


●ウェット系

 耐久性の高さが自慢。超長距離でも悪天候でも潤滑性が保てる安心感。

 ただし、汚れを呼びやすい。黒々ドロドロになってしまう。

 オイル切れが心配になる距離を走る人、悪天候時走る人、メンテナンスが面倒臭い人向け。


●ドライ系

 汚れ無さが自慢。汚れても拭けばキレイになる。

 サラッとしており、ウェット系よりも軽めの漕ぎ味になる傾向にある。

 ただし、耐久性の面では弱く、突然の雨で流れることも。

 晴れの日に乗る人、メンテナンス面倒じゃない人、勝負したい人向け。


●セミウェット系

 ウェット、ドライの中間。ドライよりは汚れやすいものの、拭けばキレイになる。

 多少の雨でも耐え、ウェットほどの長距離は持たないが、ドライよりも長距離潤滑性が保てる。

 そこまで頻繁にメンテナンスをしない人、天候の急変に備えたい人、ドライではオイル切れが心配な距離走る人向け。


●ワックス系

 ドライの上位。ドライ系よりもさらに汚れない。

 ただし、耐久性の面はドライよりもさらに落ちる。

 絶対にチェーンを汚したくない人、絶対に負けられない人向け。


「まぁ、早い話、どれだけメンテしたいかって話だよね」

「みなさんは、どのタイプ使ってるんですか?」

「あたし? ドライ。チェーン汚したくないモン。今はもうワックス系でもいいような距離しか走らないコトが多いけど、ドライが慣れてるしね」

「これ……分類で言えばセミウェット」

 結理先輩はチェーンの一コマ一コマにオイルを垂らしながら、答える。

 オイルの入った容器は、大体二種類に分かれる。

 一コマずつ差せてムダは無いが手間のかかるボトル式、ラクだがムダの多くて狙っていない箇所にもかかる可能性のあるスプレー式だ。スプレー式の場合、ホイール、タイヤ、ディスクローターにかからないように気を付けたい。

「私はなんでも試したな。今のに入って無かったサスペンド系はいいぞぉ。ドライな感じで汚れないのに耐久性も良い感じだし、雨にも耐える。究極のオイルだ」

「あれ、少量なのにビックリするぐらい高いんですけど。カンッゼンに勝負用じゃない」

「うむ。だから通学用のには、セミウェット使ってるな。通学用に使うのは、流石に勿体ない」

「セミウェットが多めですね。セミウェットがいいのかな?」

「普段使いもするのなら、セミウェットだろう。ドライよりは注油の頻度少なくていいからな。黒くなるのが気になるなら、こまめに拭くか、ドライにしてこまめに注油するか、だな」

「どっちにしろ、こまめなんですね」

「セミウェットが良いなら、シマノのオイルをプレゼントする……まだストック有るから」

 なぜオイルを大量に持っている……と思ったが、結理先輩だからとしか言いようがない。

「オイルって、差すタイミングとかあるんですか?」

「ん? 差したくなったら差す」

 部長のそれは、答えになっていない。

「音が鳴りだしたとか、ペダルが重く感じてきたとか、乗っていればそろそろ差さないといけないか? と思う時が来るんだよ。そうしたら、汚れが酷くない時は拭いてから。酷い時はクリーナー等で綺麗にしてから差せばいい」

 余計分からん。

 きっと、まだ経験が足りないんだろうなぁ。

 普段使いも考えてクロスバイクにしたのだから、もっと乗り込まないと。

 私の自転車ライフはこれからなんだから。


 この様な思考に陥った時点で、池のほとりにある社会福祉協議会寄贈の『あぶない!!』看板のように、カッパが自転車沼へ引きずり込んでいる状態だ。

 当の本人は、なかなか気付かないものである。

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