第13話 RATCHET SOUND SHOWER

 三人は再び島を一周回るように作られた県道を西へ進む。

 島の南側に有る金印公園を出ると、再び建物が無い状態が続いた。

 キラキラと輝く海の向こうには、糸島半島が見える。

 糸島半島という名前だが、ここから見える陸地は隣の糸島市ではなく、ここと同じ福岡市内だ。こうして見ると、市内はすごく広いように感じる。

 ピンク色のホットドッグ屋を過ぎると、右手にバス停と大きな看板が見えた。奥には、石碑みたいな物が建っている。

「あれはなんですか?」

「あれは……蒙古もうこ塚だね」

「阪神!?」

「猛虎じゃない。蒙古ね、モンゴルの方の。元寇げんこう知ってるでしょ? あたしが知ってるぐらいだから。二回目の弘安の役の時は志賀島で陸戦してるの。一回目の文永の役の時は、撤退中に座礁した船の兵を捕らえて処刑。それらで亡くなった兵の供養のために建てられたとか」

 なお、塚が作られたのは昭和初期の話である。

 日本と中華民国の友好の為にと外務大臣も兼任していた当時の首相田中義一、日蓮宗の酒井日慎管長、東郷平八郎の揮毫きごうで塚が作られ、中華民国の総帥であった張作霖も除幕式の際に祝辞を送ったという。

 だが激動の時代により、張作霖は除幕式の三ヶ月後、田中義一も翌年に亡くなっている。

 現在の蒙古塚は大きな地震で倒壊した後に元駐車場の場所で新しく建てられた物で、元々の蒙古塚は近くの階段を昇った所に有ったそうだ。

「なんか……それ知っちゃうと、スルーするのも可哀想じゃないですか?」

「そ、そう?」

 元寇は歴史の授業で習うが、知っているのはてつはうと元寇防塁と暴風雨で壊滅ぐらい。具体的にどういう事があったか、内容は知らなかった。歴史に関わる物がこんな身近に有った事も、当然知らない。

 愛紗の中で、そういう貴重な物を見てみたいという気持ちが高まっていた。

「じゃあ、寄ろうか」

 三人は蒙古塚に立ち寄って手を合わせた。

 近くにあった案内板には、昔は「首切塚」という名前だったと書かれていた。

「穏やかな名前じゃないですね」

「攻める側も守る側も必死だったんだと思うよ」

 三人は蒙古塚を後にした。

 旧蒙古塚への階段の先にある急カーブを曲がって北へ進むと、民家が見えてきた。

 漁業を中心としたこの地区は面積が狭い物の人口は二番目に多い地区で、住宅は漁港を中心に集まっている。特定の日に開かれる夕市が有名だ。

 両脇に住宅が建ち並ぶ県道を進む光先輩が停まったのは、漁協の前。

「釣りでも行くんですか?」

「それ、部室であたしが言ったね。そうじゃない。用事があるのはコッチ」

 光先輩が指差したのは、建物の右の方。漁協の建物に入るお店だった。

 元々は漁協の購買だったそうだが、土産品も扱う様になったという話だ。

 三人はサザエの壺焼きと天ぷら(魚のすり身を揚げた物)を購入し、店の外で作戦会議を開く。

「……」

「……」

「……」

「――いや、しゃべろうよ。あたしもつい黙っちゃったけどさ」

 三人とも爪楊枝でサザエの身を出すのに夢中になってしまっていた。

 志賀島は海が近いと言う事もあり海産物が豊富だが、その中でも特にサザエとワカメは有名である。サザエは丼や壺焼き、刺身などで楽しめるが、サザエ飯を出す店がいくつかあり、この店では土日祝限定でパックに入ったサザエ飯を買う事が出来る。結理先輩はお土産用に確保していた。

「サザエの最後のクルンッってなってるトコ、苦いよね。あたし苦手だなぁ」

 光先輩はサザエの身の最後、緑になった部分を見ながら言う。

「え、光先輩苦手なんですか? おいしいですよ?」

「……大人の味」

「えー、そうは思わないよ」

「……ちなみに、その部分はサザエの肝で、オスだと白く苦みが少ない。緑はメスで、やや苦め」

 さすが結理先輩。食べ物には詳しい。

「オスメスで色が違うと言うワリに、大体緑色してるんだけど」

 光先輩は殻の縁で肝の部分を切りながら言う。

「それは、オスよりメスの方が圧倒的に多いから」

「ハーレムですか!?」

「……さすがに生態については知らない」

「ひどいや姉さん!」

 さて、サザエ談義が終わった所で、本題へと入る。

「で、この先なんだけど」

 光先輩は北側を指差した。

「外周ルート唯一の難所、坂が待っている」

「坂、ですか?」

 今まで走ってきて坂が無かった訳ではない。金印公園手前辺りにも有ったが、特に苦労は無かった。

「初めてだと、ちょっとした山かと思うような坂だよ」

 山と聞くと、今までの坂と違うのだろうと想像出来る。

「私、登れるんですか?」

「まぁ、最悪歩けばいいけど、なるべくなら自転車で登り切りたいね。足着いたら負けだし」

「坂で足着いたら負けとか……それは自転車乗りの悪い癖」

 結理先輩が口を挟んだ。

「いや、クセじゃないし悪くないし。だから、攻略方法を今から伝授するの」

 坂に攻略とか有るのか。漕げば良さそうだが。

「今までそんなに使ってこなかったフロントギアだけど、大きいギアで登り切りたいとか思わず、スナオに坂の手前や初めの方で落とす」

「坂の前でですか?」

「そう。坂の途中で『やっぱムリ! ギアを落としたい!』となっても、負荷がかかってる状態でフロントギアを落とすと、高確率でチェーンが外れる」

「チェーンが外れたら終わりじゃないですか」

「チェーン外れても、かけるのはそんなに難しくない。手は汚れるけどね。平地でフロント落とすと軽くなりすぎるから、リアを二段ぐらい上げた方がいいね」

「そう言えば、フロントとリアでシフトレバーの操作、逆ですよね。混乱しそうになるんですけど」

「あれ、前も後ろも同じ動作が起きてるんだよ。手前側のレバーで大きいギアへ。奥側のレバーで小さいギアへ。ギアの並びが逆だから、操作も逆なだけ」

「そうなんだ。それなら間違えなさそうですね」

「……そうか? ま、いいや。次に、坂だと荷重が後ろに行きがち。その体勢だと脚ばかりに負担がかかって体力を使い切って心が折れてしまう。だから、ペダルが頂点の辺りから体重を載せて漕ぐように意識する。勾配がキツくてどうしても後ろに行ってしまうとかなら、サドルの前の方に座るとかしてね」

「なるほど」

「次に、呼吸は絶対に乱さない。坂で心が折れる原因の大半は、脚が限界になるか、呼吸が限界になるか、どっちか。だから、呼吸がキツくなってきた、余裕が無くなってきたなーと思ったら、スピード落としてでも呼吸を整える方に集中する。心折れて止まったら、再スタートが大変だからね。遅くてもいいから、登り切るコトを最優先にする」

「ふんふん」

「最後に、リアは二段目を一段目だと思う。本当の一段目は最終兵器。特に愛紗ちゃんの一段目はかなり大きめだからスゴく軽くなるんだけど、軽いギアは一漕ぎで進む距離が短くなる。だから、漕いでも漕いでも進まない! 坂が終わらない! という状況に陥って、心が折れてしまう。だから、一番軽いギアは本当に限界が来た時の切り札として取っておく」

「分かりました。なんだか行けそうな気がします!」

「ホントにぃ? ま、距離も短いし、勾配は……初めてにしては、ややキツかもね」

「……え? 大丈夫ですか?」

 光先輩の言葉を聞いて、愛紗は不安が増してきた。

「島の入り口にレンタサイクルがあるぐらいだよ? ふらっと来た観光客でも行けるレベルだって――多分ね。坂マスターならアウターで登っちゃえるぐらいだし」

「いや、余計不安なんですけど!?」


 かくして、愛紗と結理先輩は未知の坂に挑むことになった。

 店を出発して北へ進むと、続いていた住宅たちも途切れて、左手が開ける。ガードレールの向こうはすぐ海で、相変わらず手が届きそうなほどに近く感じる。

 右手にあるポツンと飲食店の先にある右カーブを曲がると、誰がどう見てもハッキリと分かるレベルの上り坂が見えてきた。このクラスの坂は、確かにまだ体験が無いと言える。

「うっわ……」

 その坂を目の前に、愛紗は思わず漏らした。

 だが、思っていたよりは、勾配がキツくなさそうに見える。

(……これ、行けるんじゃない?)

 と思っていたが、次第にペダルが重くなってくる。

 左側も、ガードレールの向こうに有る木々で遮られ、海が見えなくなった。

 木々で囲まれた道路は、少しずつ勾配を増していく。

「これが……坂道っ……」

 前を行く光先輩は変化が無いように見える。

 が、少しずつ距離が開いていく。

「あれ?」

 サイコンを見ると、上り坂で少しずつ速度が落ちていた。

(もっと踏む――いや、ギアチェンジだ)

 ペダルが重い、軽いという状態の場合、踏む力を変えるのでは無くシフトチェンジをして一定の力で踏み続ける方が、疲労は溜まりにくい。自転車のエンジンは自分自身なので、疲労で漕げないという状況に陥れば、自転車は前に進まない。

 愛紗は左のシフトレバーを引いて、フロント側をシフトダウンさせた。チェーンは小さいギアへと落ち、ペダルが一気に軽くなる。

 逆に軽すぎて無駄な力がかかっている気がした。右側のシフトレバーを引いて、リア側のギアを上げる。

(ん……いい感じ)

 呼吸もまだ余裕が有る。キツくなってきたらリアのシフトレバーを押して下げる。これで行こう。

 ふと気になって後ろを見ると、結理先輩は遅れる事無くついてきていた。

 別に結理先輩は坂初心者という訳でも無いだろう。ついてきて当たり前だ。

「大丈夫?」

 先頭の光先輩が声をかけてきた。さすがに心配したのだろう。

「大丈夫ですよ。乗り切れそうです」

「それはよかった。こっからが本番だから」

「――――――ぇ?」

 海側の木が途切れ、海が再び見えてきた。

 さっきまで近かった海面も、今では遠く見える。随分登ってきたんだなと実感する。

 今でもペダルを一漕ぎする度に、海面は遠くなっていく。

 サザエと天ぷらを食べながら聞いた光先輩のアドバイスを守っているおかげか、呼吸は少し荒くなっているが、まだ余裕は有る。

 再び木々で海が隠れようかと言う頃に、シフトダウンして気付いた。

「あっ……」

 愛紗は小さく声を上げる。右側リアシフトのメーターが二段階目を示していた。

 一段目は最終兵器。

 これ以上軽くするのは、いよいよ最後の時となる。

 そう思うと、急にペダルが重くなってきた気がする。

 シフトをもう一段落としたい気分だが、グッと抑える。

「……はぁ……はぁ……はぁ……」

 一定のペースでペダルを踏み下ろすのに合わせて、息を吐く。

 まだ呼吸はギリギリなんとかなっている。

 脚も限界では無い。疲労感は有るが。

 サイコンが示す速度は時速十キロを切って一桁。まったく速くはない。

 速さを競っている訳では無いが、なんだかなと思う。光先輩との距離も少しずつ離れているし。

 もうちょっと速く登る事が出来たら、こんな苦労ももっと短くて済むんじゃないだろうか……。

 もう諦めて、足を着いて歩いてもいいかな……。

 やっぱり私には自転車は無理なんじゃないだろうか……。

「――いかんいかん」

 愛紗は首を左右に振って、次々と湧いてくるネガティブ要素を頭から振り払う。

 折角ここまで来たんだ。最後まで登りたい。

 前を見上げると、光先輩の姿が見えない。道の先は左カーブになっている。もう曲がったのだろうか。速いな。

 前方、道路の左側には「休暇村」と書かれた看板が見えた。休暇村ってなんだろう。休憩所?

 この先になにかあるのは、間違いない。

 道路の左右を覆う木々はゆっくりと流れていく。

 見えていた左カーブは、思っていたよりも長かった。進んでも進んでも、左カーブが続く。

 やがて、右側の木が途切れるのが見えた。カーブの終わりか?

 登りが続いていた道路も、途切れているような気がする。登りの終わりかな。

 さらに進むと、光先輩がロードバイクを停めて待っているのが見えた。

「もう少しだよー!」

 ――あれが頂上!

 ゴールが近いとなると、疲れも吹き飛んだ気がした。

 足が回る。

 自転車も進んで、頂上と光先輩が近付いてくる。

「……着いたぁーっ!」

 光先輩の所まで辿り着いた愛紗はクリートを外して道路に足を着き、呼吸を整える。

「はぁ……やったぁ……」

「お疲れさん」

「……ゴォール」

 さほど差もなく、結理先輩も到着した。息一つ乱れてない。これはこれで凄い。

「あとは下り……だけど、下りはカーブに気をつける。危ないと思ったら、カーブの前でスピードを落とす」

「手前で、ですか?」

「そう。カーブでは曲がるためにタイヤのパワーが奪われているワケ。軽くならまだいいけど、強くかけようものなら、終わる」

「それは恐ろしいですね」

「あと、横断歩道が見えたら右ね。そこで休憩。ここで休むワケにはいかないからね」

「分かりました」

 三人は頂上から出発した。

 下りは楽だ。漕がなくても自転車は走ってくれる。

 チャラララと響くリアホイールのラチェット音が心地よい。

 それに、スピードも出る。

 出る。

 出てる。

 ――すっごい出てる。

 見た事無い数字をサイコンが示していた……。こんな数字、自力じゃ出せないかもしれない。今のうちに目に焼き付けておこう。

 大きな駐車場が有る甘味喫茶の先にプールと、プールの先に広大な海が見えてきた。

 先ほどまでと違って、海の向こうに陸地が殆ど見えない。

 海に見とれていると、横断歩道が見えた。

 ここで前方、後方を確認して右へ。

 やってきたのは公衆トイレのある場所。すぐ横には自販機があり、大きな駐車場が有る。駐車場にはバイクが何台も停まっており、バイカーたちが休憩していた。走っている時も、バイクに追い抜かれたり、反対車線ですれ違ったりしていた。

 志賀島が自転車の天国ではなく二輪の天国と言っていた意味が分かる。

 なお、ヤンチャしすぎたのか、数年前に海の中道にあるヘリポートの先、淡水化センター入口から先は一二五ccを超えるバイクが夜間走行禁止になっている。バイクで志賀島へ行く人は注意したい。

 そして、この駐車場の上の方には大きな建物が有る。これが休暇村だそうだ。

 休暇村は、国定公園や国立公園に建てられた宿泊施設を中心としたもので、似た施設である国民宿舎との違いは、休暇村の方がよりリゾート感の強いということだそうだ。

 この志賀島は玄海国定公園の一部である。

「あー、クタクタ」

「どうだった? 初めての本格的な坂は」

「いや、キツいってもんじゃないですよ、あれ。でも、これでも坂短いんですよね?」

「うん。志賀島で一番高い潮見公園だと、アレの七、八倍ぐらいの距離登る」

 それでも山としては短いレベルだ。

「うへぇ……。私はしばらく無理そうですね」

「平地と坂だと漕ぎ方が変わるからね。それが分かれば、坂は劇的に変わる。平地と同じように漕ごうとするから、坂をキツく感じるのよ。いつか、特訓が必要かなぁ」

 なんか光先輩が恐ろしい事言ってる。スピードラーニングの様に聞き流しておこう。

「折角ここまで来たんだから、海見ていく?」

「海ならいっぱい見てますよ」

「いや、間近で」

 先ほど有った横断歩道は、海水浴場へと渡る横断歩道になっている。

 道路を渡って、愛紗は小走りで舗装された道路を駆け下りる。

「海だぁーーーっ!」

 手前側には芝生が有り、その向こうには芝生より幅が狭いものの真っ白な砂浜と、真っ青な玄海灘が広がっていた。正面には小高い山が有る島が見える。これは玄界島だそうだ。

「うおおぉぉぉぉ……なんじゃあ、ありゃあ!」

 愛紗がそれよりも気になったのは、右側の芝生の所にに有る八本のコンクリート柱。周囲に何も無いが、柱だけが二列に並んで天に向かって伸びていた。

「これは……あれか。中森明菜さんのDESIRE!」

「ザ・ベストテンかよ! そんな神殿っぽいステージはあったけど、下は芝生ではなかった」

 マリンシューズに履き替えて遅れた光先輩が、歩いて下りながらツッコミを入れる。

「あれは四阿あずまやの跡らしいよ。屋根が無くなって、柱だけ残ってるとか。謎オブジェとしてちょっとした有名スポットね」

「それは残念。結理先輩に着物ブーツのコスプレしてもらうチャンスだったのに」

「…………悪くないかも」

 結理先輩は自分の頭の中であの姿を想像したのか、少し間があった。

 髪型は近いが、着こなせるかどうかは、また別の話。

 三人は柱の所までやってきた。

 浜辺へと延びる石材の階段も、ちょっとステージ感の演出に役立っている。

 だが、柱の付近は芝生。芝生のステージは無いか……多分。

 柱を見上げる。

 柱の高さは大体二メートルぐらいだろうか。それぞれの柱の先端から、鋼材が一本突き出している。

「この雰囲気……椿姫ジュリアーナですね」

「いーや、夜のヒットスタジオ」

 一旦、明菜様から離れる。

「なんかもう、一生ここに居たい気分ですね」

「海に住むつもりか!」

「もっと近くで海を見たいです」

 と、愛紗は海へ向かって走り出したが、砂浜へ入った所で足を取られてこけてしまった。

「愛紗ちゃん、大丈夫?」

 光先輩が素早く駆け寄ってくる。

「ははっ……足がもつれちゃいました」

 愛紗は笑う。

 だが、光先輩の目は誤魔化せなかった。

「さっきの坂で脚にダメージ来てない? 休む?」

 光先輩は親指で後方を指差す。その方向に有るのは、先ほど見たホテル。

 え? 光先輩とホテルで休憩!?

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