速度を上げるばかりが、自転車ではない――マハトマ・ガンジー

第12話 Aisa In The Wonderland

「わあぁぁぁぁ、すごぉーい!」

 櫛田神社へのプレデビューの日から一週間後。

 愛紗の頬を潮風が撫でていた。

 と言っても、海岸沿いを走っている訳では無い。

 海の上、正確には船の上にいる。

 陸地であれば東の方から回ってこないといけない所を、市営渡船で海上をまっすぐ北へ突き抜けて、ショートカットしていた。

 目的地までは二十分程度の短い船旅となる。

「船って乗る事なんて無いから、すっごく楽しいですよ」

「それはよかった」

 左手にはサイロ群が見える。この須崎埠頭は穀物サイロが集まった地区だ。

 須崎埠頭を過ぎると、博多湾が一気に広がっていく。とは言っても、砂州や半島で囲まれているので、どこまでも広がっている訳ではない。

 遠くには島が見えた。

「あれはなんですか?」

 愛紗は見えた島を指差す。

「あれは能古島のこのしま、かな? 能古島は離島だけど、船に自転車載っけて行けるよ。発着は姪浜めいのはまになるけどね」

 姪浜は市の西側にある地区で、駅前に区役所の他、黄色い鳥が有名で店舗案内看板に「〇分」と書いてあるが、実走じゃムリだろう飛ばないとみたいな時間が書いてある事で有名な質店の本社が有ったり、駅北側の商店街にはクイズ・ミリオネアでパーフェクトを達成して再建した鳥居が建つ神社が有る。

 姪浜も、昔は炭鉱町だった。現在では、その痕跡もあまり感じられない。

「能古島も自転車で行けるんですか?」

「うん。自転車の運賃はあっちが少し高いというか、こっちが特別なんだけど。島の奥には自然公園があって、季節ごとにいろんな花が楽しめるんだ」

「しまの……」

 結理先輩がなんか反応している。ほっとこう。

「あとは昭和レトロな通りとか、恋愛成就・良縁の観音様もあるし、能古うどんがおいしいよ。細めでコシのある麺が特徴の」

 福岡のうどんと言えばコシが無いと思われがちだ。確かにコシの無いうどん店も多いが、麺の堅さを選べる牧のうどんで硬めんにしたり、北九州発祥の豊前裏打会系列のようなコシのあるうどんを出す店も人気が高かったりで、絶対柔らかくないとダメという事はない。

「いつか行ってみたいですね」

「そこまで標高百メートルちょっとあるけどね。距離は短いけど」

「山、ですか……」

 前部長である山さんの話を聞いているだけに、山は怖い所のように思っている。

「まぁ低い方だし、山はある程度登れた方がいいよ。この街、周りが山だらけだからね。行ける場所が限られてくる」

 登山なら鍛錬遠足で経験は有る。

 でもそれは徒歩。

 自転車で山を登るのは、徒歩とは全然違うのだろう。

 いつか、山を登る日がくるのだろうか。


 光先輩と話していると、船はあっと言う間に西戸崎さいとざき港へ着いた。

 この西戸崎港は石炭積み出しの為に整備された港で、近くまで延びている鉄道も、元々は石炭運搬の為に作られた路線である。

 港の近くにも炭坑が有り、海岸沿いに運炭線が延びていたそうだ。

 さらには帝国海軍基地の跡に米軍基地ができ、この地区は賑わっていた。

 今の静かな町並みからは想像出来ない。

「んんーっ……」

 船を下りた愛紗は身体を伸ばす。航行は二十分ほどだったが、久しぶりの地上のように感じる。

「これが西戸崎……」

 発着場の前は、思ってたよりもシンプルだった。

 右手には広大な空き地と鉄道駅。この駅は終点になっている。

 左手には乗馬クラブ。ただし、こちら側は裏の方で、馬は見えない。

 どちらも、そう遠くない場所には大きなマンションが見える。

 この辺りは元々港への引き込み線があった場所だ。線路などが有った広大な土地は、少しずつ建物が出来ている。

 ゆっくりと時は進んでいるのだ。

「こっからのルートだけど……」

 ロードバイクを押す光先輩が説明を始めた。

 駅前の道路を南へ進み、途中で曲がると志賀島まで一直線だと言う。

 ほんの少しショートカット出来るルートも有るらしいが、分かりやすいルートを選んだそうだ。近いけど複雑な道を行って迷ったら、意味がない。

「そんじゃ、行きますか」

 三人はグローブをはめ、ヘルメットを被る。

 自転車用のグローブを着けるのは、三つの理由が有る。


・振動や落車時の衝撃から手を守る。

 自転車に長時間乗っていると、ハンドルから伝わる振動で手にダメージが蓄積されて痛くなる。これが軽減される様に、自転車用グローブの手のひら側にはゲル、合成樹脂、スポンジ等のクッション材が付いている。クッション材の厚みなどで各社違いが有り、こだわり出すと沼一直線。


・汗対策

 吸湿速乾素材で手の汗を発散させるのもそうだが、手の甲側の親指付け根辺りはタオル地素材になってることが多く、これで汗等を拭うことも出来る。


・合法的に指ぬきグローブを着けられる

 着けてても自然です。

 なお、冬はここの理由が防寒に変わる。寒い物は寒い。ただし、防寒だけしか考えないと汗が逃げないので、冬のグローブ選びは意外と沼。


 なので、グローブ無しで有名なトム・ボーネンに憧れてるとか無いのであれば、着ける方がメリットが大きい。

 三人は駅前の通りを進む。並びは前回と同じ光先輩、愛紗、結理先輩の順。

 駅前の通りとは言うが、良く見知ったチェーン店は無く、個人商店や住宅が建ち並ぶ。

 志賀島へ続く道へ曲がっても、それは余り変わらない。銀行やガソリンスタンドなどで知ったブランドを見かけるぐらいだ。途中で右側に木々の茂った場所が有るが、ここも海浜公園だと言う。

 しばらく進んで電話交換局の鉄塔が近付いてきた所で、光先輩が「もう少ししたら車通り増えるよー」と言ってきた。確かに、右の方の道から車が来ている。この道路は海の中道を抜ける県道で、雁ノ巣方面から途中で西戸崎駅方面へ曲がらずに進むと、ここへ出てくる。

 志賀島まで続く県道と合流する交差点を過ぎるとコンビニが見える。志賀島へ行く人にはおなじみの黄色いコンビニと、少し先には新しくできた赤いコンビニだ。

「愛紗ちゃん、疲れてない? 大丈夫? 休憩しなくていい?」

 光先輩が声をかけてきた。

「大丈夫ですー!」

 そう返事した。コンビニはこの二軒が最後という話だ。テンションが高まっているせいかどうか分からないが疲労感も無いし、ドリンクもまだまだ有る。

 三人はそのまま進んだ。

 相変わらず住宅が多いのは変わりないが、飲食店が増えたように感じる。車通りが多いせいだろうか。

 やがて鶏印のホームセンターと学校らしきグラウンドを過ぎると、道路沿いの建物も減ってくる。

 その先で、左側の未舗装駐車場のようなスペースの道路側に、ポツンと一軒の小屋が見えた。

「あれは?」

「この辺りでは有名なホットドッグ屋さんだね。混んでると結構待つぐらい人気だけど……まだ開いてないんじゃないかな。昼からだし」

「それは残念です」

 三人は木々の生い茂ったゾーンへ入る。海とは真逆な風景だし、建物も見えない。

「これ、本当に志賀島へ向かってるんですかぁ?」

「もうすぐ見えるよー」

 本当かどうか半信半疑だったが、緩い右カーブを抜けると、左側が開けて海が見えて、島も見えてきた。

「うみぃーっ!」

 青い海が目に飛び込んできて、愛紗は思わず叫んでしまった。

「ね? 見えたでしょ? 正面が志賀島で、左が能古島。間に見えるのは……糸島半島かな? 位置的に」

「結構近く見えますね、糸島」

「走ると結構距離あるけどね、糸島半島。この先が本番だよ」

 長めの左カーブを曲がると、道路の左は博多湾、右は白い砂浜と玄海灘。そんな青い海を貫くように、道路はまっすぐ志賀島へ続くという景色へと変わる。

 船に乗っていた時とは違う柔らかな潮風が、全身を撫でていく。

 風に乗った磯の香りと、すぐそばから聞こえる波の音が心地良い。

「――これが、天国への道ですか……」

 愛紗は、あまりの気持ちよさに意識が薄らいでいた。このまま天に昇りそうな勢いである。

「まだ死んではいない。死ぬには、まだ早い。志賀島行くなら、この風景は一度体験しておきたいから、西戸崎で降りたのよ」

「なんかもう、これだけで満足です」

「満足するのも早いって」

 三人は車やバイクに追い抜かれながら、狭い砂州の中にある道路を進む。

 このゾーンの志賀島寄りは橋が架かっている。この辺りは満潮時に道が沈んでしまう為、昭和初期に橋が架けられた。橋は大きな地震の時に橋脚が沈下してしまった為、架け替えが行われている。

 橋を渡れば、島に入る。

 右手に見える海の家を過ぎれば、一気に建物が増える。

 左側にちょっとオシャレな青いタイル貼りの建物が見えるが、これはポンプ場だそうだ。

 島には三つの集落が有るが、島の入口に近いこの地区が人口の一番多い地区となる。

 横断歩道の有る交差点の角に道路通称名の標識が有り『金印海道』と書かれていた。

「金印!」

「そう、金印。金でできた『漢委奴国王かんのわのなのこくおう』と書かれたハンコで、持ち手の部分はヘビになっているの」

 さすが光先輩。金の事は詳しい。

「江戸時代、石の下から見つかった金印は発見場所が謎だったけど、大正時代に九州帝国大学の中山博士が記録などから推定した場所が、発見場所とされてるんだ」

「推定ですか」

「遺構は見つかってないからね。中山博士の説を覆すモノもないんだけど。その場所は公園として整備されてるけど、行ってみる? そう遠くないよ」

「行ってみたいです」

「じゃあ、行ってみよう」

 前の二人が金印で盛り上がってた頃、一番後ろの結理先輩はというと、

「ステーキ……最強……」

 島の入口付近に有る鳥居の横に建っていたステーキハウスが気になっていた。


 三人は島を一周する道路を西へ進む。

 人口の多い集落だけあって、住宅や飲食店、駐在所や郵便局が道路沿いに建ち並ぶ。

 その建物たちも、保育所を過ぎた辺りで急に点在するような形に変わり、左手に有るガードレールの向こうが開けて海という状態になると、建物も無くなってしまった。

「海ですよ、海! すっごい近い!」

 滅多に見ることの無い海に、愛紗は興奮していた。

 愛紗が住んでいる区も、市の中心部である天神を抜ければ海は有る。その周囲にあるのは大病院やボートレース場や魚市場。愛紗には繋がりが無い場所ばかりだ。区のはしっこ、ドーム球場の裏には人工浜が有るが、行ったことは無い。

 今まで自然とはあまり関わりの無かったので、愛紗にとっては新鮮な体験だった。

「これ、ずっと海沿い走るんですか?」

「集落の所以外は大体海沿いかな。あ、もうすぐ着くよ」

 愛紗は早いなと思ったが、カーブの先に緑で横長な誘導サインが見える。多分あれが公園の案内なんだろう。

 実際に誘導サインは公園を示していて、その先のカーブを曲がると右側に駐車場と自販機とトイレが見えてきた。

「はーい、とうちゃーく」

 三人は金印公園に着いた。

 公園は丘のようになっていて、大正十一年に建てられた『漢委奴國王金印発光之処』の石碑を境に、左が階段、右がつづら折りのスロープになっており、上には展望広場が有る。

 公園全体に明るい色の石材を取り入れており、開かれたような雰囲気になっているが、これは近年リニューアルした物。それ以前は谷積みされた暗い色の石にコケが生えていたり、木々がうっそうと茂って暗い雰囲気の公園だった。

「早く行きましょうよ」

「待って」

 クロスバイクを停めて急かす愛紗を、光先輩が止めた。

「さすがに靴履き替える」

 光先輩の履いてるシューズはロードバイク用。靴の底に飛び出す形でクリートが付いており、歩きにくい。付けているのはカフェでも歩けますよというメーカー御自慢のクリートではあるが、そんな事をするとあっという間にクリートがすり減ってしまう。短距離で有ればクリートカバーを持っているので付けるが、歩きにくいのには変わりない。

 そこで、光先輩はある程度歩く時用にマリンシューズを持っている。これなら折りたたんで持ち運べるのでラクだし、文字通り海辺で履くモノなので水も大丈夫なのだ。

 光先輩はビンディングシューズからマリンシューズに履き替えた。

「よし、行こう」

 光先輩は真っ先に階段を昇っていく。

「待ってくださーい」

 残された二人も追いかけた。


「うわぁぁぁぁぁ――」

 展望広場には金印を型取ったモニュメントが有り、その横にはキラキラと輝く金印がある。

「――――ちっちゃ」

「ま、金印の一片は二・三センチだからね」

「本物ですか?」

「まさか。本物は百道浜ももちはまの博物館にあるよ」

「レプリカだから小さいって事は……」

「ないね。実寸大」

「……ちっちゃ」

 教科書に載っている金印はアップの写真。レプリカも本物も、実際に見ると小さく感じてしまう。大きい物を期待すると、こんな感想になってしまうのも仕方ない。

 金印公園のレプリカは空中に浮いたように展示されており、色んな角度から見る事が出来る。

「でも、ハンコってこんなモンじゃない? 大きさ的に」

「まぁ、言われてみればそうですけどね。大きかったら重くなりそうですし」

 展望広場の真正面は博多湾が広がる。青い海と青い空に挟まれて島が見えるが、あれは能古島だ。

「金印って、どの辺りから出てきたんですか?」

「入口の所に石碑あったでしょ? アレの右斜め前ぐらいという話」

「え、道路の下から?」

「いや、江戸時代はアスファルト舗装してないし」

 農作業中に発見されたので土の中と思われがちだが、そもそも土の中というよりは石の下から発見されている。

 正確に言えば田んぼの水路が流れ悪いので弄っていると、巨石が出てきた。二人で撤去をすると光り輝く金印が――という流れで有る。

「田んぼ見当たらないですけど、もうお米は作ってないんですか?」

「島の北側だと農業中心だから、作ってるかもね」

「ブランド化したら『金印米』とかになりそうですね」

「県産米の『金のめし丸』とキャラが被るよ」

「――夢つくし……ひのひかり……元気つくし……」

 結理先輩がめし丸くんの付いたお米の銘柄を呟いている。おなかすいたのかな?

 三人は先へ進むことにした。


「次はどこへ行くんですか?」

「もう少し行くと次の集落があるから、そこで休憩と作戦会議」

「作戦会議?」

 また謎なワードが出てきた。

 予定変更とはいえ、この金印公園も休憩になった気がする。また休憩は必要なのだろうか。

「愛紗ちゃんが初めて体験するモノが有るの。しっかり休憩と攻略方法の伝授をしないと、多分ムリだから」

 愛紗はまだピンと来ないが、結理先輩は分かったようで、

「確かに攻略方法を知らないと……途中で折れる。長いの?」

「全然長くないよ」

「みっちゃんの『長くない』は当てにならない……」

 全然分からない愛紗に、少し疎外感が生まれた。

「えー、なんですかー?」

 愛紗はこの先に何が待ち受けているか知らないし、分からない。先行き不透明で不安になってきた。

「それじゃあ、次へゴー!」

 準備が終わって光先輩は出発しようとしている。

 結局、何が待ち受けているのか。

 モヤモヤした気分の中、愛紗も金印公園を出発した。

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