チャリは来た。それだけだ――橋本真也

第8話 このチャリは…!?

 入学式から数日が経った。

 愛紗はどうしているかというと――

「いやぁ、調べれば調べるほど、どれがいいか分かんなくなっちゃいますね」

 まだ悩んでいた。

「週末にショップを回る予定なんですけど、事前にもうちょっと知っておきたいなぁと調べてたら、余計混乱ですよ」

「だろうね」

 今日は部室に光先輩しかいない。部長も結理先輩も用事が有るとかで来ないらしい。

「スペック表なんか見てても、全然分かんないでしょ?」

「はい」

「だから、ウエパー姉さんはフィーリングで買えって言ってるのよ。あたしだって、あのロード選んだのは金の差し色がカッコよかったからだし」

 やっぱりそこなのか。

「一番最初に買ったクロスバイクだって、なんとなーく『これで』って選んだモノだし、それで町内走り回ってたからね。坂だって登っちゃうよ?」

 光先輩は身振り手振りを交えて語る。自転車を語る時は、本当に楽しそうだ。

「本格的に乗りたい! って時が来る時は、もうある程度自転車に詳しくなってるし、自分がどういう走りをしたいのかってのが決まってると思う。直感で選んだ自転車があとあと考えるとイマイチなモノだったとしても、乗ってるうちに愛着が湧くものよ」

「そうなんですか。ところで、一つ質問があるんですけど」

「なに?」

「最近は街中を自転車が走っていると見てしまうようになったんですけど、ロードバイクに乗っている人ってピターッとした服着てますよね? あれなんでですか? ボディアピール?」

「あー、愛紗ちゃん。自転車に乗る上で、最大の敵って何だと思う?」

 愛紗は少し考えてみる。

「えー……自分自身?」

「――いや、合ってるけど、この場の回答としては間違いだよ」

「じゃあ、なんですか?」

「答は空気抵抗。新幹線とか形を思い出してみて。先頭車両、運転席から前がすごく長いでしょ? あれは空気抵抗を減らすため。ロードバイクは少しでも早く、少しでもラクに走るために、空気抵抗を減らそうとしてるのよ。そのためには、すね毛だって剃る人もいるぐらい。選手の場合、落車時にケガの治療をしやすいようにってイミもあるけど。すね毛は効果有るけどヒゲは効果があまり無いって言うから、それはそれで面白い話なんだけどね」

「じゃあ、私たちもああいう格好しないといけないんですか?」

「まぁ、その辺りが壁になってくるのは時速三十キロぐらいからだから、そんなに気にしなくていいよ、最初は。ま、それ以外にも速乾素材とか、前傾姿勢でも後ろが出ないように後ろが長めとか、脚が動かしやすいとか、自転車に乗る上で最適に作られてるんだけどね。ランニングをそれなりにやる人も、ランニングウェアとか着てるでしょ? そういうウェアなのよ。サイクルジャージとレーパンは」

「確かに」

「重要なのは動きやすさ、それと吸湿速乾かな? 動きやすいのは当然だけど、意外と汗をかくからね、自転車は。汗が乾かないと、いつまーでもぐっちょりで地獄。で、ボトムスに関しては、パッド付がおすすめ。お尻が痛くなるからね」

「うっ……」

 愛紗はロードバイクのサドルの硬さを思い出して、尻が疼く。

「パッド付はインナータイプにアウターを履くか、レーパンやビブショーツ履くかで変わってくるけどね」

「……ところで、レーパンってなんですか?」

 さっきから気になっていた単語だが、光先輩なら聞いても怒られそうも無いので聞いてみる。

「そこから? いや、いいけど。レーパンってレーサーパンツ――ボトムスのスパッツみたいな奴よ。ビブショーツはレスリングのシングレット、それも昔タイプみたいな奴ね。ビブショーツは肩で吊り支えるから腰回りを締め付けないし、ズレにくいというメリットがあるの。まぁ、これらを履く時って基本的にこれだけだから、初心者だと抵抗があるかもね」

「――これだけって、下に何も履かないんですか?」

「うん」

 光先輩は当然であるかのように大きく頷いた。

「……そういうプレイですか!?」

「なんのだ! 自転車って基本ずーっと脚を動かしてる訳だから、長時間乗っていると股ずれを起こすし、汗も発散しにくいからね。レーパンは肌に密着するように出来ているから、それだけで履くの」

「でも、ノーパンって勇気いるんじゃないですか?」

「まぁ、慣れ。それで快適になるように出来てるからね。でも、それに抵抗がある人もいるから、口では『直に』と言いつつレーパン用インナーを出しているメーカーもあるし、レーパンだけでは……という人は上にサイクルスカートとか、ショーパンみたいなのを履けばいい。見た目がノーマルっぽいパッドが付いたのも有る。でも、それらだと空気の抵抗が生まれやすい。乗ることを重視するより、色んな箇所を巡る人向け、かな? ウェルカム! な店も有るけど、やっぱりあの格好で歩き回るのは、ねぇー……。自転車に乗ってる時はなんとも思わないんだけど」

「もう一つのインナータイプって、中に履く奴ですか?」

「そ。超薄手タイプで下着のように履けるけど、パッドが付いてる奴ね。アウターで見た目が変わるから、コーデの自由度は高まる。お尻の辺り、ちょっともっこりするけどね。バイカーも履いてたりするよ。ロングライド用が無い訳じゃないけど、どちらかと言えばミドルライドぐらいまで向け、かな? パッドの耐久性と値段が大体比例することが多いけど、インナータイプは比較的安価なのが多いからね。逆に言えば、パッドがへたれても買い換えやすいとも言える。で、自転車に乗る訳だから、アウターは動きやすいのがいいよ。ロング丈ならジョガーパンツがオススメ。タイト目なのに動きやすいし、裾が絞ってあるからね」

「裾?」

「裾が広がっていると、チェーンやクランクにひっかかるの。だからそれを防ぐために裾バンドなんてアイテムも有ったりするけど、脚動かしているとずり落ちちゃったりするから完全じゃない。でも、ジョガーパンツだと裾が絞ってあるから、それ自体いらなくてラク」

「裾絞った方がいいなら、ベルボトムとかガウチョ履けないじゃないですか!」

「知るか! てか履くな! チェーンで汚れる! その辺もあって、七分丈パンツやもっと短いパンツを履く人もいる。サイクルウェアだと、身体にフィットするから、その辺は考えなくていいんだけどね。そこまで考えるなら、もうレーパンの上に何か履けばいいじゃないと思う。ま、コーデは自由でいいよ。問題が有るなら、そこを改善していけばいい。自転車なんて、そういう乗り物だからね。コーデも車体も」

「自由度が高いって、逆に悩みますよね」

「その分、好きなように出来るからね。自分の趣味全開に出来るのが、自転車の魅力だと思うよ」

 そうは言っても、光先輩のキンキラ自転車は趣味全開にしすぎだと思う。

「自転車って、実際にやってみないと分からないことが多いから、自転車を手に入れてもスタート地点に立ったに過ぎない。愛車を育てることに終わりは無い。そう、それは広大な沼の始まりなのだ!」

 沼……か。とんでもない世界に来てしまったような気がする。

 かといって始めてしまった以上、スタート地点に立つ前にリタイヤというのもイヤだ。

 まずは、自転車を手に入れよう。

 色々考えるのは、そこからだ。

 そう思う愛紗であった。


 そして週明け。

 いつもの自好部の部室。

 今日は結理先輩と部長がいた。逆に光先輩が居ない。

 平日は部室に来る来ないは自由なので、部員は来たり来なかったりする。

「んー……」

 部長は愛紗をじーっと見ていた。

「な、なんですか?」

「良い事あったのか? なんか嬉しそうなんだが」

「分かります?」

「……買ったか?」

「いやぁ、そうなんですよ。お店行ってみたら自転車がいーっぱい有るじゃないですかー。で、自転車以外の装備も揃えようとすると、お金かかるじゃないですかー。悩んだんですけど、お買い得なのが有ると紹介された自転車が有ってー、それ選んじゃいました!」

 愛紗は満面の笑みで語る。

「お買い得――そういうのは大体旧モデルとか在庫品みたいなのが多いな。サイズが合うとか、希望のカラーだとか、上手く発掘出来れば本当にお買い得では有るが……何を買ったか気になるな」

「えへへー。まだ秘密です。納車はまだなんで、されたら持ってきますよ。ペダルはとりあえず一番安いプラスチックのを付けて貰う事にしました」

「そうか。持ってきたら、私がプレゼントするペダルに換装してやるからな。楽しみにしておけ」

「はい」

「ペダルかぁ……」

 結理先輩がぼそっと呟く。

「……ん? どうした、江淵」

 結理先輩の一言が気になった部長が尋ねる。

「『初心者ならシマノのマルチクリートの方が外しやすいから、そっちをオススメしたい』とでも言いたいのか? 外しやすさよりもハメやすさを考えて、キャンディをプレゼントする事にしたんだぞ? あれなら四面どこでもハメられるからな」

「そうじゃない。私もプレゼント用意した方がいいのかなって」

「プレゼントが多くて困る事は無いだろう。合う合わないが有るかもしれんが。何をプレゼントするんだ? ブレーキか? クランクか?」

「まだ考え中……」

「まぁ、時間は有るんだ。考えておくがいい」

(あれ? 私、期待されてるの?)

 少し不安になってきた愛紗であった。


 それから三日後。

 部長、光、結理の三人は学校机を囲んで座っていた。

「まずいな……」

 そう発した部長以外の二人も、真剣な顔をしていた。

「逃げたかもね……なんかしました?」

「した記憶は無いぞ? 下郷は?」

「ないですよ。レーパンの話をしたぐらいかな?」

「決めつけるのは……まだ早い」

「でもさ、ユリ。いつも最初に来てたじゃない。愛紗ちゃん」

 そう、この場に愛紗の姿が無かった。

 いつもは一番か、三人揃う時でも最後に来る事は無かった。

 週末に自転車店に行くとは言っていたが、週末はライド以外で基本的に部室には集まる事は無い。

 皆勤賞だった期待の新人が、初めて休んだのだ。

 部活に出る出ないは自由だが、流石の三人も不安になった。そこで、緊急会議を開く事にしたのである。

「きっと逃げたのよ! 予算を使い込んじゃって!」

「予算で何買うの?」

「そりゃあ……金の招き猫像とか?」

「それは、みっちゃんしか買わない」

 んなこたぁない。

「前向きに考えたとして、だ。新車が楽しすぎてどっか行ってしまったとか、考えられないか? 柳みたいに」

「柳先輩、最初は来てたんですか?」

「んー……最初は来てた気がする。いや、来てたか? そもそも、この部に入った事自体が奇跡みたいな物だからな。自転車に目覚めて、一人であちこち走り回っているが」

 柳先輩がいなければ、この部はもう自転車愛好同好会を名乗っていただろう。部室には来ないが、部の活動として一人で走っている事が多い。

 柳先輩には感謝しか無い。

「納車とか……考えられない?」

 結理の言葉に、他の二人は難しい顔をする。

「愛紗ちゃんなら、『明日、納車なんですよー』とか言いそうな気がする」

 光は途中で愛紗の声色をマネて語る。

「平田なら言うな。昨日は……自転車についてアレコレ聞いてきてきてたな。納車云々は言ってなかったぞ」

「なら違うかぁ。あと考えられるのは?」

 光の言葉に、他の二人は難しい顔をした。

「それが思い付くなら、こんな会議はしてないだろう」

 そりゃそうだ。

「サプライズ……って事は」

 結理の言葉に、他の二人は首を左右に振った。

「無いな。平田は隠し事が出来ないタイプだ。あの試走でも分かる。大体、それなら納車の話もしないだろう」

「納車? いつって言ってました?」

 光は数日来ていなかった。愛紗の購入話は聞いていない。

「買ったとは言ってたが、納車の話はしてなかったな」

「じゃあ、やっぱり納車じゃないですか?」

「それなら顔に出てる」

「そっかぁ……」

 話が振り出しに戻ってしまう。このまま続けても話がループするのは目に見えていた。

 三人は黙ってしまい、部室に沈黙が訪れた。。

「……でも」

 沈黙を破ったのは結理だった。

「入部届は出しているのだから、これをネタに脅せば、戻ってくると思う」

「ユリ、時々怖いこと言うよね?」

「これぐらいやらないと……部は存続出来ない」

 結理の言う通り、自転車愛好部は部として存続できるかどうかの瀬戸際だ。一人でも欠ければ、部として活動は出来ないのだ。

「まず、愛紗ちゃんに話を聞こうよ」

「いや、いないからここで会議をしてるんだろう」

「だから、明日の放課後に」

「……襲撃」

「ユリ、襲うの!? そうじゃなくて、入部届でクラスは分かってるんだから、捕まえることは出来ると思う」

「そこで自白させるんだな? 任せろ」

「部長ぉ!?」

 結理も部長も冗談ではなく、本気でやりそうだから怖い。一応、止めておかないといけない。止めていなければ、共犯だ。

「と、とりあえず、明日。明日になれば変わるかもしれないから――」

「すいませーん! 遅れましたー!」

 突如部室の扉が開け放たれ、愛紗の声が部室内に響き渡る。


「「「――え?」」」

「え?」


 部長と光と結理は突然の出来事に、愛紗はいつもと違う反応に顔を見合わせた。

「愛紗ちゃん、今日来なかったから、辞めたんじゃないかって心配してたんだけど」

「昨日納車だったので、一度家に帰って持ってきたんですよ」

「昨日、『今日納車なんですよー』って言ってくれればいいのに」

「帰った後でしたから、納車が分かったの。とりあえず見て下さいよ、私の愛車」

「ふむ。どんなのか気になるな。見るぞ」

 いち早く席を立ったのは部長だった。

「どーれどれ。お姉さんに見せてごらん……そうきたか……」

「どうしたんですか部長……そっち行ったかぁ」

「一体何が……おっ」

 グラウンドへ出てきて三者三様の反応。

 目の前にあったのは、HASAの黒いクロスバイク。あまり見かけるブランドではない。三人がそんな反応をするのも当然だ。

「え、これダメだったんですか?」

 三人の反応に、愛紗は戸惑う。

「いや、ダメという訳じゃあない」

「HASAはあたしやユリと同じ、台湾のメーカー。なぜかオーストラリアで人気のブランドで、チタンのロードバイクが有名ね。このクロスバイクはスペックの割には安めというか、速い、安い、旨いが揃ったクロスバイクを体現しているとも言えるジャイアントのRX3を強く意識した作りになっているの」

 RX-7はアルミフレームでディレーラーは前ターニー、後ろALTUSの二十四段。重量は十キロに近い軽さで、タイヤはコンチネンタルのウルトラスポーツIIを履いている。乗り心地は少し固めだが、走りやすいタイヤだ。

 価格も五万円台で、ボトルケージの穴はダウンチューブだけだが、最初の一台としてはスペック的にも悪くない。

「でも……」

「いかんせん、日本だとブランド力が弱かったからなぁ……悲劇のブランドよ」

「そこは代理店の頑張り次第……だと思う。ミヤタが扱うまでのメリダとか」

 結理先輩が話に割り込んできた。

「あの頃はまだMTBのイメージが強かったんじゃあないか? ロードバイクに力を入れてきたの、そんなに昔じゃ無いぞ。大体、あの時ミヤタに出資したからな。そりゃあ、頑張るだろう。だから長年続いたKOGA-MIYATAの関係も、あの時終わったんだ」

「コガ? 古賀さんと宮田さん? 福岡の古賀市?」

 愛紗が割り込んで聞く。

「いや、宮田は日本の会社だが、コガはオランダの会社だ。旦那とかみさんの名前を取ってコガだ」

「自転車って、難しいですね」

 プレスタといい、予想はことごとく裏切られる。

 自転車は奥が深いと思う愛紗であった。

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