第6話 Welcome to the Bicycle Zone,Get Ready!

 かくして自転車に乗ることになった愛紗であったが、久々の自転車でも感覚は忘れることなく、脚は自然とペダルを漕いでいた。

 漕ぎ出した瞬間、記憶の奥底で眠っていた物が呼び起こされた。とてつもない能力に目覚めた気さえしてくる。

 走っている場所は学校のグラウンド。

 学校という仕切られた空間だが、切って進む風が心地よい。開放感があった。

「凄いなぁ……自転車」

 自転車を見ようと目を落とした。ハンドルバーにはサイクルコンピューター、略してサイコンが付いている。自転車における様々な数値を見るための装備であり、安い物は速度、走行距離、時間といったものを、高い物は更に心拍数、ペダル回転数ケイデンス、高度、斜度、地図等を表示出来たりと、課金額で変わる。

 そんなサイコンが表示している速度は、時速十八キロ。

「はやっ!」

 自転車を趣味とする人々には普通の、むしろまったりぐらいの速度だが、愛紗にとっては思っても無い速度だった。

「おーい」

 後方から部長の声が聞こえてきた。

 振り向くと、部長が光先輩のロードバイクで追いかけてきているのが見えた。白衣の裾がはためいているが、よくアレで走れる物だ。

「前を見ないと危ないぞー」

 前を見ると、グラウンドはもう終わりに近付いていて、校舎が迫っていた。

「うわっ、やばっ!」

 愛紗は両側の短いブレーキレバーを思いっきり引いた。ブレーキシューで挟まれたホイールがロックされ、グラウンドの砂で滑ったタイヤが音を立てる。

「足を外して降りろ!」

 部長の声で足はペダルに乗せているだけじゃないのを思い出す。左足を引いてハーフトゥクリップから足を外し、前方に飛び降りて地面に足をつけた。

「あぁー、びっくりした」

 天国のような夢見心地気分から、一気に現実に戻された気分だった。

「クロスバイクのブレーキはよく効く。まず左を軽く握って後輪でスピードを落とし、右も握って止まるようにしろ。先に右を握るなよ。下手すると前輪がロックして、今の状況じゃ済まない事になる可能性が有るからな」

 傍までロードバイクで走ってきた部長が言う。

 もしロックしてタイヤが滑った場合、乗り慣れている人であればブレーキを少し緩めたり、体重移動で車体を安定させる。部長は愛紗にそれが出来るとは思えなかったので、降りるよう指示をしたのだった。下手に指示をして落車されるのが、一番恐い。

 そういうのは先に教えて欲しかったと愛紗は思ったが、聞かなかったのも悪いのかもしれない。

「ま、一番はぐるーっと回れば良かったんだけどな。そうしたら、止まる必要も無かった」

「そっか。端まで行ったら止まれなんてルール、無いですもんね」

「あと気をつけることは……無いか。変速はしなくていいだろうし、この広さなら」

「では気をつけて、もう少し乗ってみます」

「うむ」

 愛紗はグラウンドの端から端までを何週か回った。

 踏めばスピードが出る。二十キロ越えも果たした。

 変速すればもっとスピードが出せるのかもしれない。ハンドルになんか色々レバーがあったが、よく分からないので触るのはやめておいた。

 ブレーキも、直線や回る前にスピードを落とすのに使ったりして、なんとなく感覚が掴めてくる。

 これを実際に外で乗ったらどうなんだろうと思うと同時に、今まで乗ってこなかったのを少し後悔した。

「どうだった?」

 部室の前に戻ってくると、先に戻って腕を組み仁王立ちをしていた部長が問いかけてきた。

「いやぁ、いいですよ、これぇ。ただのグラウンドなのに、乗ってて楽しかったです」

 愛紗から、自然と笑みがこぼれる。

 自転車なんて移動のための道具と思っていたが、考えが改められた。

 これは趣味の道具だ。

「うむ。自転車で一番重要なのは楽しいことだ。我々は修行僧では無い。辛ければ、それはただの苦行だ。楽しいのが一番だからな、どんな機材や乗り方でも」

「もっと早くから自転車に乗っていればよかったなぁ……」

「いやぁ、分からんぞぉ。ママチャリで自転車人生終わってた可能性も有るからな。ここで自転車に出会ったからこそ、素直に『自転車凄い!』と思えるんだぞ」

「そういう見方もあるんですね」

「自転車が乗れると分かった所で、次はこっちに挑戦だ」

「愛紗ちゃん、サドルは上げておいたよ」

 光先輩は、さっき部長が乗っていたキンキラロードバイクを持ってきた。

 先輩のロードバイクがかっこいいからロードバイクを買ったと言っていたが、その先輩もキンキラだったのだろうか。

 疑問は深まるばかりである。

 愛紗はクロスバイクと同じようにトップチューブの所に跨がってみて、ふと疑問に思った。

「あの……これどこを握ればいいんですか?」

 目の前には複雑な形をしたハンドル。縦に延びるブレーキレバーの辺りを握るというのはなんとなく分かるが、どこを握ればいいのか分からない。

「ああ、ブラケットあるでしょ?」

「毛布ですか?」

「ブランケットじゃない。ブラケットよ、ブラケット。そこ、ハンドルがピッと飛び出てるでしょ? それがブラケット。そこに手を置いて握るんだけど、指二本はブレーキレバーにかける」

「こうですか?」

 愛紗は光に言われたとおりにブラケットを握ってみる。

「そうそう」

「でもこれ、握る所がすごく前すぎません?」

 さっきまで乗っていたクロスバイクと比べるまでもなく、握る場所が遠く感じる。

「それでいいのよ。自然と前傾姿勢になれる位置だから。通常の姿勢に近い上ハン、より速く走るための下ハンってのもあるんだけど、ブレーキかけられるように、その握り方だけ教えとく」

「そうですか」

 とりあえず乗ってみることにする。今回はハーフトゥクリップが付いていない普通のフラットペダルだ。ペダルには足を乗せるだけでいい。

 右足をペダルに乗せ、踏み込む。

 ――重い。

 その感触は先ほどよりもズシッと重く、ゆっくりとクランクが回る。

 ペダルに体重を乗せながら、サドルに座る。

 その様子を見ていた部長と光。

「なぁ、下郷。あれフロントがアウターのままじゃないか?」

「え? 平地ならアウターが普通じゃないですか?」

「確かにさっき私もアウターで走ったが、慣れてる人と初心者の普通は違う。インナーに落としておいた方が、良かったんじゃあないか? それかリアを落とすか」

「スピード乗ってくれば、大丈夫でしょ」

 自転車のフロントギアが多段の場合、二段、もしくは三段ある。アウター、外側の方が歯の数が多く、インナー、内側の方が歯の数が少ない。フロントギアは歯の数が多いほどペダルは重くなるが、スピードが出せる。

 光のロードバイクはフロントギアが二枚。高速で走ることを前提としているため、大きなギアと登りなどで使う小さなギアが普通のロードバイクのギア構成。

 一方、部長のクロスバイクのフロントギアは三枚で、ロードバイクの二枚有るギアの中間からやや小さいギア寄りの歯数である中央のギアを使っていた。

 愛紗が漕ぎ出しを重く感じたのは当然である。

 それでもなんとかスピードが出てくると、重さはあまり感じなくなってきた。

 変速をすれば、もっと軽くスタートは出来たのだろうかと思う。

 だが、ハンドル周りにあるのはブレーキレバーぐらいで、変速出来る気がしない。

 シフトレバーはブレーキレバーと一体になっており、レバーを内側に押せば変速出来るのだが、初めて乗る愛紗には想像も付かなかった。

 ロードバイクにも同じようにサイコンが付いており、軽く二十キロを超えていた。

「はやっ!」

 どちらかと言えば様子見で流すような感じで漕いでいるのだが、簡単にスピードが出ている。ギアの違いというのも有るのかもしれないが、速く遠くまでと言っていた意味も分かる気がする――とは思ったが、疑問が出てきた。どうにも、サドルが固い。さきほどまで乗っていた部長のクロスバイクは、まだ座り心地が良かった。

 位置が悪いのかもしれない。

 そう思って少し動かしてみたが、あまり変わらない。

 その様子を見ていた部長と光先輩。

「下郷、あれは尻だな」

「んー……ありゃあ尻ですね」

 ロードバイクはサドルが硬い傾向がある。理由は軽量化と、力を別の方向へ逃さない安定したペダリングの為だ。

「あたしはパッド付履いて乗るから問題無いですけど」

「生は……辛いだろう。遅かれ早かれ、履くと思うがな。二十キロ……いや、三十キロか? 行って四十キロ……行けるか? ま、それ以上はあった方が比較的辛くないな」

「それ以上に、乗り方だと思うけどなぁ」

「どんな良いサドルだろうが、尻に荷重をかけるような乗り方だと意味が無いからな」

「サドル沼は自転車界最強と聞いているから、あたしはまだ手を出さないようにしているんですが……」

「『まだ』って手を出すつもりか? やめとけ。うちに大量のサドルが有るから、試してからにしておけ」

「手を出したんですね、部長……」

「尻は千差万別。他人の評価が高いからと言って、自分に合うとは限らない。サドル五個目でそれに気付いたぞ」

「正直、遅いです」

「私も若かったんだよ、あの頃は。でも、五個は少ない方だと思うぞ?」

 部長は年上とは言え、今も十分若い気がするが、もう何も言うまい。

 愛紗はグラウンドを何往復かして、部室前へと戻ってきた。

「どうだった?」

 部長は同じように聞いたが、愛紗は難しい顔をしていた。

「ん? どうした?」

「いやぁ、確かにクロスバイクよりはよく走ると思うんですけど、距離が短すぎて本領を発揮していない気がして」

「確かに。長距離、高速だと違いが分かるが、短距離、低速だとあまり分からんかもしれんな」

「あと……」

 愛紗は口籠もった。何か言いにくそうである。

「その……お尻が……」

 愛紗は顔を真っ赤にしていた。短距離だったが、それでもやや固めのサドルは肌に合わなかったようだ。

「まぁ、乗る準備が出来ていなかったからな。それは仕方無い。普通はパッド付のウェアを着る。痛い物は痛いからな」

「正直な話、クロスバイクの方が乗りやすかったです」

「乗りやすさならそうだろうな。レンタサイクルも、観光用としてママチャリ以外が増えてきているが、ロードバイクは少ない。導入コストの問題もあるだろうが、電動アシスト自転車をレンタルしている所も多いから、別の理由なんだろうな。維持の問題とか。大体クロスバイクより高めのレンタル料設定されてるし」

「でも、ロードバイクの方が、良い自転車なんですよね?」

 その問いに、部長はしばらく黙った。

「――いや、コンポーネントのグレードだとか、価格だとか、軽さ……は大体値段に比例するが、その辺で善し悪しが決まるとは、私は思わん。持ち主の愛情が注ぎ込まれた自転車こそが、その人にとっての最高の一台だと思うからだ!」

 愛紗は衝撃を受けた。

 今、「これが自動車が買えるレベルの良い自転車だ!」とお高いロードバイクを見せられても、愛紗には良い自転車かどうかは分からないだろう。

 だが、さっき見た部長や結理先輩のクロスバイクも、光先輩のロードバイク――のセンスは別にして、悪い自転車だとは思わなかった。良さそうな自転車に見えた。きっと、愛情が注ぎ込まれているのだろう。

 光先輩のロードバイクを乗りにくいと思ったのが、悪いような気がしてきた。

「光先輩、乗りにくいとか思って、ごめんなさい!」

 愛紗は光に向かって深々と頭を下げた。

「いや、いいよ。細かい調整もせずに雑調整で乗せたんだから、乗りにくくて当然。本当は乗り手に合わせて調整しないとダメなんだから、気にしなくていいよ」

「そうだろうな。私の通学用クロスバイクは制服でも快適なように調整しているからな。ま、大体は余ったパーツの流用なんだが。ちなみに、うちには三台自転車が有るが、どれも最高の一台だと思っているぞ。用途によって使い分けているからな」

「あたしは……前に乗ってたクロスバイクは近所用だからなぁ……。ロードバイクばかり構ってたかも」

「私は……メンテナンスも楽しい」

 この時点で、三者三様。みんな違う。

 持ち主の自転車愛で、自転車は変わっていく。

 だからこそ、この部は『自転車愛好部』なのだ。

 愛紗は一人、納得する。

「ま、本当に初心者なら、これはコンポーネントがどうだとか、フレームやフォークの材質がどうだとか、よくは分からんだろう。最初の一台は、店に行って気に入ったのを買え。私からの助言は以上――と思ったが、一点注意が必要。ルック車だ」

「ルック車?」

「LOOKの自転車って事じゃ無いぞ。見た目それっぽいけど、そうじゃない自転車だ。元々はマウンテンバイクなのに悪路は走れない物――自動車で言えばクロスオーバーSUVみたいなのを呼んでいたが、今はマウンテンバイク以外でもそんな自転車が増えてきた。例えば、ママチャリレベルで重いとか、後は……その自転車のバルブを見てみろ」

「バルブ……?」

 愛紗はホイールから飛び出すバルブを見てみた。細長い物が付いている。

「それは仏式とかプレスタとか言われるタイプだ。空気圧が高いチューブに使われる。で、だ」

 部長は二つのチューブを出してきた。片方は太いバルブが。もう片方はよく見かけるバルブが付いていた。

 部長は太いバルブのチューブを愛紗に見せる。

「こっちが米式と言われるタイプ。マウンテンバイクや自動車で使われるタイプだ。シュレーダーさんが作ったから、シュレーダーとも呼ばれる」

「全然違う形なんですね」

「で、こっちが」

 と、部長はよく見かけるバルブのチューブを見せてくる。

「英式と言われる奴だな。ママチャリでよく使われているタイプだ。日本で一番見かけるタイプだろう。ダンロップさんが作ったから、ダンロップとも呼ばれる」

「米式がシュレーダーさんで、英式がダンロップさん。じゃあ、仏式はプレスタさんが作ったんですか?」

「いや、それはモーランさんだ」

「仲間はずれじゃないですか!」

「私に言われても困る。ルック車の場合、この英式を使っていることが多い。英式は空気圧の管理が出来ない。米式に変換するアダプターがあるが、それを使うなら素直に英式じゃ無いのを買え」

「空気圧が測れないと、何か困るんですか?」

「空気圧が低いとパンクを引き起こしやすいし、タイヤの性能も出せない。だから走る前には適正な空気圧にする必要がある。タイヤに適正空気圧が書いてあって、その範囲に合わせるんだが。パンパンだから入ってるかと思えば全然足りてなかったり、足りなく無いようにと入れすぎるとチューブが破裂するからな。空気圧は測って管理出来た方が良いし、仏式だと高圧に出来るから、速く快適に走るのにはいい。ただ、空気圧が高いほど硬めになるから、乗り心地は犠牲になるな」

「なるほど」

「ルック車が悪いとは言わん。あれはあれで楽しみ方がある。それが分かる人か、ママチャリにプラスαでいい人向けだな。価格帯も性能もママチャリと安ロード、安マウンテン、クロスの間ぐらいだしな」

「うーん……」

 色々言われると、余計に悩む。

「ま、一番は愛せる自転車を買えるかどうかだな。だから、気に入った一台を買えと言っている。逆に先入観が無いから、選択肢は広がると思うぞ。長距離が楽なロード、山や荒れ地を走られるマウンテンバイク、街乗りから少し遠出まで幅広くカバー出来るクロスバイク、旅に最適なグラベルロード、エンジョイ勢の強い味方e-BIKE。選ぶのは平田自身だ!」

「分かりました。今度自転車店を覗いてみようと思います」

「うむ。新車が納入された際はペダルをプレゼントしよう。私が数回使った中古品だが、比較的綺麗だ。今なら、初心者向けの銅のクリートと、通常の金のクリートも付けるぞ」

 部長はいつの間にか中心部分が妙にメカニカルなペダルと二つの黒い箱を持っていた。チューブやペダルは、どこから出し入れしているんだろう。

「なぁに、magpedの実験台にしようとは思っていない。安心してくれ」

「ペ、ペド……それ、合法的な奴ですか?」

 合法です。

「なので、SPD対応のシューズも買うといい。ポタリングメインの下郷たちと走るなら、こっちの方がいいだろう。歩きやすいからな」

「ありがとうございます」

「初めの一台は、良くも悪くも思い出の一台となる。大いに悩んで、買うがいい」

 そんなに悩む物なのか。自転車店に行くのが怖くなってきた。

 でも、この部に入った以上はそうも言ってられない。

 私の自転車ライフは、始まったばかりだ!

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