幕間

二〇〇七年五月二七日

イングランド ヘレフォード郊外


 まだか。ジョン・ユキムラは苛立ちと共に灰皿へ三本目の煙草を押し付けた。

 同僚が公衆トイレへ用を足しに行ったのはいいが、あまりにも遅すぎる。これからパブへ夕食がてら飲もうと誘ったのは向こうだというのに、言った張本人がなにをしているというのやら。

 いい加減、奴の背中を蹴飛ばすために乗り込んでやろうか。そう思った矢先、ドアミラーに移る公衆トイレへ女性が入っていった。

 これはいい、誰だって用を足したくなる時はある。出るのが遅い奴は問題だ。

 ジョンもそう考えて特に気にしていなかったが、後に続いて若者二人が入っていくのを見た瞬間、思わず目を疑った。

 観光客か何かが誤解したのか。しかし、あの容姿は明らかに地元の若者だ。観光客は、どちらかというと女性の方だ。果たして、こんな片田舎に観光に来る場所などたかが知れているが。

 しかし女性が入ったトイレへ、後を追うように入る複数の男。少なくとも、あのトイレが世界的観光地というわけではないだろうから、あまり良くない目的で尾行していたとしか考えられない。

 この間に同僚が出てきたら? 相手に勝てなかったら?

 SASの隊員脳味噌筋肉野郎がやると決めれば、そんな懸念は消し飛ぶ。


 ジョンはドアを施錠すると、迷わず女子トイレに。

「おいアジア人、財布を出せ」

「あー、ゆっくりとお願いします(Slowly please)?」

 中からはそう聞こえてくる。

 言われてみれば、入っていった女性はアジア系に思えた。だが、彼女の話す英語は明らかにUKの訛りではない。ジョンはこの訛りに、遠い記憶に残っている何かを感じていた。

「こういう事だよ」

 ナイフを抜いたであろうその瞬間、ジョンは音もなくすっとトイレの中に踏み込んだ。

 アジア系の女性がぴーぴー悲鳴を上げているのもまた、彼が忍び寄る事ができた一因だろう。相手は二人、仮称パーカーのガキとニット帽のガキだ。

「金を出せってんだ!」

 パーカーが痺れを切らしてナイフを突きつけた直後、ジョンはニット帽に背後から腎臓へ、肘を使った一撃を浴びせた。急所に強烈な一撃を受け、たちまち自力で立てなくなる。

 無抵抗なニット帽を床に張り倒した頃には、ぎょっとした表情でパーカーが振り返っていた。

「なにを……」

 切っ先をジョンに向けようとするも、その前に手首を捻りあげられ、無様にも折り畳み型のナイフは床を転がった。

「失せろ、労働階級チャブの恥さらしめ」

 私の同僚の多くは労働階級だが、強盗のようなセコい真似なぞせず誇りを持って生きているぞ、クソ共め。

 そう言い放ちたかったが、どうにか飲み込んだ。

 もしジョンが上流階級出身のキザな海軍中佐なら臆面もなく口走っていたかもしれないが、そんな恥ずかしい言葉をペラペラ話せるほどジョンの面の皮は厚くない。

 掴んだ手を放すと、チンピラ二人は這う這うの体で女子トイレから逃げ出した。

 ジョンも女性を一瞥して無事を確認すると、何も言わず立ち去ろうとした。

 しかし、

ありがとうございますさんきゅーべりーまっち

 彼女は酷い英語で感謝を述べると、ジョンの襟を掴んだ。

 先ほどまで暴力のぼの字も知らなさそうな様子だったが、なかなか図々しい女である。しかも、襟を掴む手を放そうとしない。

「構わないよ。だから放してくれ」

 しかし放さない。どうしたものか。

 そう思っていると、出入り口に影が差した。

「大丈夫ですか?」

 現れたのは、ずっとトイレに篭っていた同僚。男二人が女子トイレから現れて、不審に思って顔を覗かせたのだろう。

 彼ならばチンピラが出てきた先にジョンがいたという、割と意味のわからない状況でも、ほぼ正確に事情を把握出来ただろう。

 だからこそ、同僚は最上級に意地の悪い笑みを浮かべつつ言った。

「これはこれは、お邪魔したかな?」

 ジョンは改めてこいつを蹴飛ばしてやろうかと考えたが、言葉もわからない他人の前という事で、少しの間堪えることにした。


 人間の縁とは、なかなか面白く出来ているものだ。ジョンは女性が差し出す紙に書かれた内容を見て、鼻を鳴らす。

「俺らのパブの住所だぜ」

「私はそこ行く」

 何の用で? などと言っても、通じないに違いない。

 明日の朝刊に死亡者として載っているのを見るのは、さすがに後味が悪い。それに困っている人間にここまで関わっておいて放っておくほど薄情でもない。

来いCome_on

 と、極力簡単に伝えて車を指差した。

 そして彼女はやはり「さんきゅーべりーまっち」、酷い英語だった。


◇ ◇ ◇


 パブについて早速、二人はビールとローストビーフを注文した。このパブには他にも様々な食事のメニューが存在するが、他の料理が良いといつも言うくせに一番まともなのがローストビーフなのだ。ここの店主の味覚は狂っているのだろうか。常連SASは時たまこの話題で盛り上がる。

 では、なぜ一部のSAS隊員は足しげく通うのか。理由はシンプル、世界最強の特殊部隊に所属する精鋭でも、懐事情は揃って頭を悩ませる問題なのだ。とどのつまり、このパブは安いのだ。

「ほら、これは礼だ」

 二人が座る席に無数のプディングが乗る皿が置かれた。思わず、ジョンは店主の顔を見た。

「うちに来る予定の留学生だったんだ」

「ここの?」同僚が頬を引きつらせながら言う。「その、大丈夫なのか?」

 この同僚の問いは、「あんな英語の奴がこの僻地で生活して大丈夫なのか」という茶化し半分な問いではなく、「ここの料理を食っていたら、体をどこか悪くするのではないか」という真剣な心配である。

 しかし、店主は前者と受け取ったようだ。

「日本で板前修業をしたことがあるんだ。日本語はそれなりに出来る」

 様々なつっこみがジョンの脳裏をよぎるが、ひときわ印象に残ったのは彼女が日本人であるという事だ。

 顔も知らないジョンの母親は日本という国で生まれた。一体どんな国なのか興味はなく、日本について知る機会もなかった。

 アメリカ植民地人に守られるだけの軍隊を持たぬ国、その程度の認識しかなかった。

 カウンター辺りを見ると、件の日本人がジョン達を見ていた。

「暇なときには手伝ってもらうことになってる」

「そりゃよかった」

 同僚が言う。きっと、料理がマシになるのではと期待したのだろう。

 ジョンも同感だった。


◇ ◇ ◇


 運命とはなかなか奇怪なもので、ジョンとトイレでの運命的な邂逅を果たした日本人の彼女こと、田中香織はパブでたびたび顔を合わせるようになった。

 あまり良い出会いとは言えないものの、その後に続いた香織の猛アピールに折れたジョンは連絡先を交換し、連絡を取り合う関係となった。

 その頃になるとジョンが持つ香織への警戒心はすっかり薄れ、二人は次第に惹かれあっていった。

 出会いから五年後、香織が夏の長期休暇でイギリスへ来ると聞いたジョンは、早速準備を済ませて待ちわびた。

 そして、その時は来た。


二〇一二年七月三〇日

イングランド ウィンチェスター空港


 もうそろそろか。

 ジョンは時計を見て入国ゲートを見上げた。

 日本は確か今は夏だったはず、イギリスの七月の寒さには驚く事だろう。そんな事を考えていると、待ち人の姿が現れた。

 片手を挙げると、彼女はジョンのもとに駆け付けた。

「久しぶりだな」

「うん、お久しぶり。元気だった?」

「まあな」

 彼女と連絡を取っている間も危険な戦場での任務に関わってきた。怪我をすることも少なくなかったが、まあ元気ではある。嘘は言っていない。

「イギリスって、七月結構涼しいんだね。日本と全然違う」

「ああ、らしいな。半袖しかないとか言うなよ?」

「私、そこまで馬鹿じゃないよ」しかし、香織は眼鏡をくいっと直した。「ブティックを見て回ってもいいかな?」

 どうやら、本当に半袖しか持ってきていないようだ。

「いいよ。先にそっちを回るとしよう」

 ジョンは立ち上がって先導したが、不意に尿意を感じた。

「その前に、少し手洗いに行かせてくれないか?」

「もう、待ってるからね」

「悪い奴らについて行くんじゃないぞ」

「子ども扱いしないでよ!」


 小走りでジョンはトイレに向かうと、素早く用を足し始めた。

 なんてことはない。用を済ませたジョンは手を洗うとその場を後にした。


 ポクッ


 反射的にジョンは振り返った。あの空気を含むような金属音。戦地でたびたび耳にした音。

 まさか、そんな馬鹿な。しかし、耳は確かにとらえていた。

 AK独特の弾倉を挿す音が。

 気のせいだと考えようと思ったが、足はトイレに向かっていた。

 そっと内部の様子を伺う。

「急げよ」

 声は確かにそう言った。

「わかってる」

 今度は違う声で。言語は香織から習った日本語に聞こえた。

 私が出ていくのを待っていたのか?

 装填する音といい、人に気付かれたくなさそうな様子といい。最悪の事態がこの汚い場所で起きようとしている気がした。

 ジョンは忍び足で内部に潜入すると、鍵のかかった個室の前に立った。

「時間だ」

 しばし待つと、声がした。内側から錠が解かれ、ゆっくりと扉が開く。

 そこから現れたのは、AKを持つ二人の男。何をするのであろうと、見逃す気はなかった。

 扉の死角から飛び出したジョンは後ろを歩く男の膝裏を蹴って体勢を崩すと、男が腰のホルスターに差していた拳銃を引き抜いた。

 先頭の男が驚愕の表情と共に振り返る。

 彼が持つAKの銃口が向けられる前に射殺し、残った男を床に倒した。

「一体どういうつもりだ!」

 日本語で叫ぶと、男は虚を突かれたようにジョンを見るが、すぐに笑みを浮かべた。

「何をしようともう遅い、計画は始まった」

 一体何を言っているんだ?

 こんな奴の為に時間を浪費したくないジョンは警察を呼んで対処を任せようかと思っていた。

 だがその時、トイレの外で銃声が轟いた。


◇ ◇ ◇


 ジョンがテロリスト二人を排除するほんの少し前。四階の出国ロビーでは飛行機を待つ家族やビジネスマンで溢れていた。

 ウィンチェスター空港は一年で二千万人もの利用者が訪れる大型空港だ。このくらいの喧騒は日常茶飯事である。

 そんな大型空港の小さなトイレから、スーツ姿の五人組が現れた。ジャケットとシャツの間には黒い防弾ベストを着込み、手にはAKや散弾銃が握られていた。

 人々は続々と彼らの出現に気付き、喧騒に包まれた空港が沈黙に包まれた。

 沈黙は一瞬だった。我に帰る間もなく、バババババと無慈悲な銃弾が独り身を、父親を、母親を、子供を、警察官を。

 射線に入った人間に誰であろうと、無差別に襲い掛かった。

 銃撃に気付いて上がった悲鳴は、銃撃によってすぐさま止められた。

 立ち上がる人々が消え去ると、殺戮の一団は悠然と歩きだした。

 そして、彼らは自分達から逃げ惑う人々の背中を淡々と撃ち抜き、命を奪った。

 この場では、命がまるで紙切れのように破られていく。


 恐るべきことに、惨劇はここだけの話ではなかった。

 各階のトイレやエレベーターから同じような団体が出現し、それぞれが殺戮を繰り広げていたのだ。

 ……二階という例外を除いて。


 三階の殺戮を完了した集団は、予定通り階段を下って二階に向かった。

 初めての殺人に興奮しきっていた彼らは最後の段を降りてようやく、転がっている死者が極めて少数であることに気付いた。

「妙に少ないんじゃないか?」

 すると、間近から銃声。誰かいたのか、そう思って振り返ると、仲間の全員が頭を砕かれた状態で死んでいた。

 まさか攻撃か? 思わぬ反撃に身構えた頃にはもう遅い。左ひざがあり得ない方向に折れ曲がり、顔面から床に倒れてしまっていた。

 見上げれば、ライフルの銃口。

「お前は誰だ!」

 威勢よく口から叫びが出た直後に、彼の顔面にAKの銃床がぶち当たっていた。


◇ ◇ ◇


 ジョンがトイレから出た直後、内部で爆発が起きた。

 どうやらボディーチェックが甘かったらしく、逮捕だけはされまいと手榴弾か何かで自殺でもしたのだろう。ジョンは死体に興味はない。

 彼の脳内にあるのは、香織の無事だけ。

 トイレから香織がいる国際線到着ターミナルまで少し距離がある。テロリスト共が彼女を傷つけるまでに、合流しなければ。

 あるいは、彼女がこの場から素早く逃げ出しているか。

 どちらでもいい。無事ならばそれで構わないのだ。


 銃声に気付いたのか、周辺に誰もいないのは幸いだった。運が悪ければ警察に容疑者として逮捕されていた恐れがある。

 銃声が轟く中、ジョンは素早く身を隠しつつ移動し、香織の姿を探した。とはいえ、ジョンの活躍のおかげか二階には置き忘れの荷物が散らばる程度で、死の気配は見当たらない。

 これといった障害もなく到着ターミナル前のベンチにたどり着くと、やはり香織の姿はなかった。

 逃げたのだろう、よかった。

 ならばあとはこの場から逃げ出すだけだ。そう考えて下りのエスカレーターに向かう途中、銃弾が頭上の広告を撃ち落とした。

 上階の銃殺隊が近づいてきているようだ。

 背中から弾を浴びせられても困る。ここは敵を排除するべきだと考えたジョンは、エスカレーターから見ると死角となる自販機の陰に身を隠した。

 四人のテロリストはエスカレーターから降りると散開した。後方への警戒は疎かだ。ジョンはそっと忍び寄ると、素早く三人を射殺した。先頭にいた一人が、ジョンを振り返ろうとする。その前に距離を詰めると、膝を蹴飛ばして折りその場に倒した。

 ジョンはあえて引き金を引かずに武装解除し、

「お前は誰だ!」

 叫びを無視して銃床でぶん殴ると、その場に放置することにした。

 死人だけでは後世に情報を遺してはくれないからだ。

 さあ、あとは逃げるだけだ。待ち伏せに警戒しつつ、ジョンはエスカレーターを下った。

 すでに覚悟していた事だが、エスカレーターの先に見える一階の光景は見渡す限りの死が満ちていた。

 大丈夫、彼女はこの状況を切り抜けているに違いない。

 根拠のない楽観をもって冷静を保ち、危険と思われる場所へ順々に銃口を巡らせる。すると、一階正面出入り口周辺に立つ五つの人影を発見した。

 ただし、生存者や武装警察の姿ではなく、スーツで統一した怪しい集団だ。外へ向けて発砲しているのを見るに、十中八九テロリストの一味だろう。

 連中は自分達の背中に銃口が向けられているとは思ってもいないようだ。ジョンはエスカレーターから降りると、退路確保のために照準を合わせた。

 テロリストの一人の胸部に狙いをつけ、人差し指に力を込めたその時だ。

「ジョンっ」

 囁くような声と裾を引っ張る気配。彼女だ、田中香織は死体の山に紛れて伏せていたのだ。

「無事だったか」

「撃たれたと思って気付いたら、こんな感じ」

「よかった。よし、私の指示に従って行動するんだ」

「うん」

 誰のものとも知れない血に濡れた香織を助け起こすと、受付カウンターの陰に彼女を隠すと、

「私がいいと言うまで、ここで伏せてろ」

 と香織に言って聞かせたジョンは柱の陰に身を置くと、改めてテロリストに狙いを定める。

 発砲して一人倒すと、三人が振り返る。続けて連発し、お前たちは囲まれていると銃声で知らせた。

 この攻撃で二人仕留めたが、残りの二人は散り散りになって制圧射撃をョンのいる方角に向けて放った。

 正確な位置は把握できていないらしく、数発の弾丸がジョンの隠れる柱を貫通したが、ほとんどが後方のギフトショップに集中した。

 銃弾の雨が小降りになると、ジョンは素早く銃と頭を出して発砲。

 既にこの時点で敵の姿を見失っていたが、空港警備の武装警察が事態の移行を察知して突入してくれる事を期待しての制圧射撃だ。相手が足を止め、頭を下げてくれさえすれば、それでいい。

 ズボンのポケットに突っ込んだ弾倉は二つ。今やその残りも一つとなっている。ジョンは最後の弾倉を装填すると、制圧射撃を再開した。

 早く来い、警察官。そう願いつつ指に力を込める。

「警察だ!」

 その宣言と共に、武装警察が内部へと踏み込んだ。ジョンは射撃を止め、AKを捨てると香織に向けて叫んだ。

「両手を挙げてこっちに! 頭は低く!」

 カウンターの陰から駆け寄ってきた香織を抱きとめると、ジョンは飛び出すタイミングを見計らう。

 本来一番安全なのは突入部隊に救出するまで伏せていることなのだが、現状はテロリストが場を支配している上、人質をとろうとする気配が全く見受けられない。

 この状況で伏せて助けを待つのは、拘束されていないのに刃が落ちようとしているギロチンから逃げないのと同じだ。

「そこに誰かいるのか!」

 英語で呼びかける者がいた。恐らく、武装警察だ。

「男一人と女一人! 取り残されてる、援護してくれ!」

 AKのハンドガードを片手で持って敵意がない事を武装警察にアピールすると、テロリストから隠れつつ、ジョンは顔を出した。

「敵はまだ上階に複数、重武装だ!」

 現場指揮官であろう男が頷く。

「わかった、合図で来い!」

 その間にもジョンは上階へ銃口を向けて警戒する。後ろから撃たれるのはごめんだ。

「今だ!」

 武装警察がテロリストに対して制圧射撃を始めた。行くなら今しかない。

「走れ」

 ジョンは香織の背を叩き、彼女と歩調を合わせつつ背後を警戒する。

「大丈夫だ、後ろに気配はない」

「うんっ、うん」

 残りは十メートルほどか。ジョンは後方で倒れる気配を感じた。

「大丈夫か」

「血で転んだだけ」

 後方の警戒が薄れるのは避けたいが、なにがあろうと止まっている暇はない。ジョンは香織に肩を貸すと、出入り口まで一直線に走った。

 残り五メートル、もう少しだ。

「急げ、あとちょっと!」

 武装警察の指揮官の瞳の色すら判断できる距離、この地獄からようやく抜け出せる。

 この安堵が、この油断を招いたに違いない。


 ダンダンダンと背後からAKの銃声が響き、衝撃が走る。数歩歩くと、突然香織の肩が重くなった。困惑と恐怖がジョンを襲う。

 まさか、こんなことがあってはいけない。彼女は何の罪もない、遠い東の国から来た人間だ。自分のような人間を愛してくれた唯一無二の人だ。

 しかし彼はイギリスで一二を争うほどに人の死に触れている。だからこそ、彼女に一体何が起きたのか理解していた。

「もう大丈夫だぞ」

 わかっていても、呼びかけずにはいられなかった。当然、呼びかけたところで反応はない。

「彼女を頼む」

 警察官に香織の身柄を預けるが、その胸部は引き裂かれ、砕けた臓器と血が溢れていた。

 恐らく背骨と心臓を貫いている。どんな天才名医でも助けることは不可能だ。

 なぜ私を狙わなかった。私ならばまだ納得できたというのに。

 怒りと共に、ジョンは振り返る。

 幸いにも、この怒りを発散するための武器を彼は携えていた。


◇ ◇ ◇


 白い壁に、白い天井。ジョンが目覚めたのは病院のベッドの上だった。

 腕に繋がれた点滴を引きちぎると、椅子に置かれていた新聞を手に取る。体中に開いた穴から激痛が走るも、構わずにその紙面を凝視した。

 死傷者五百名以上、犯人全員死亡。

 そんな事はどうでもいい。奴らは何者だ、どこから来て、なぜ香織を殺したのだ。

 事件の概要を読み飛ばしつつ、必要な情報を探る。すると、終盤に載っている一文が目に入った。

『……日、首謀者であると自称する組織がインターネット上で犯行声明を出した。日本の捜査当局は取材に応じ、身元が確認できている犯人全員が日本の過激派左翼団体、日本革命連合のメンバーであることを認めた。英捜査当局は日本と連携を取り真相究明に努めると……』

 日本革命連合。それが奴らの名か。ジョンは怒りに身を任せて新聞を引き裂いた。

 縫合された傷口から血が溢れる。だが、彼の全身から吹き出る怒気は出血量を遥かに上回った。

 奴らは死ななければならない。どこにいようと、どんな事情があろうと、いつになろうと。何があっても死ななければならない。絶対に。

 病室の気配に気づいたのか、扉が開かれる。困惑した表情で飛び込んできたのはSASの上司だった。ジョンは反射的に敬礼した。

「馬鹿、四発も弾をもらっていたんだぞ。寝てろ」

「構いません。それよりも、彼女は……」

 億が一の可能性にかけ、ジョンは問いかける。しかし、上司の表情ですべてを察した。

「それよりも今は休め……おい傷がっ、ナース、ナース! 患者が出血してる、早く来い!」

 半ば力づくでベッドに押し込まれる中、ジョンは決意を固めた。

 女王陛下やこの国には申し訳ないがやはり、私はあの日本人どもを殺さなくてはならない。香織のためにも、あの事件で亡くなった人々のためにも、一人残らず殺さなければ。

 だが、この国イギリスにいては日本革命連合を殺すことは出来ないだろう。どうせ空港にいた連中は、中東のろくでなしと取引でもして武器を持ち込んだのだから。活動の基盤はこの島国にはない。

 鎮静剤を打ち込まれつつ、ジョンは思考を巡らせた。

 どうにかして、日本で活動できないだろうか。ここで意識はブラックアウトした。


◇ ◇ ◇


日付不明

所在地不明


 目覚めは不気味なほどさわやかだった。鎮静剤の類を投与された後の目覚めとは、基本的に最悪という以外に表現方法が存在しないのだが、今回ばかりは例外だった。

 ジョンが上体を起こすと、ベッドの足元に誰かが立っていることに気付いた。

 彼が羽織るグレーのジャケットは、見るだけで生地の細かさが伺えた。佇む姿にもハリと柔らかさが共存しており、下手の良さを感じられた。きっとイタリア製品に違いない。

 だが、それとこの状況は関係ない。ジョンは尋ねた。

「誰だ」

 自分の命を狙うアイルランド人か、それとも中東の連中か。その辺りになら身に覚えはいくらでもある。

 しかしジョンの警戒をあざ笑うかのように、男は恭しく一礼した。

「突然の来訪をお詫びします。私、こういう者です」

 そう言って、ベッドサイドテーブルに名刺を投げた。ポセイドン海運、まず社名が目に入った。有名な貿易会社である。

ジェームズ・ビショップJames_Bishop?」

「ジェームスです」

 どちらでもいい。

「ジョン・ユキムラ。名刺がなくて申し訳ない」

「構いませんよ。こちらで全て把握しております」

 気に食わないスコットランド野郎だ。しかし、ポセイドン海運の人間が軍人……ましてや、特殊部隊の人間に会おうとする状況はしかない。

 ポセイドン海運は世界的貿易会社にして、世界中に武器を売る死の商人としての顔も持っている。これは表沙汰になっていないが、公然の秘密だ。

 さらに彼らは武器だけに飽きたらず、武器の扱いを教える人間と扱う人間の両方を派遣する業務も請け負っているミラージュ社を子飼いにしている。この業務とはとどのつまりPMC、傭兵稼業だ。

 ジョンの上司や同僚は少なからず彼らに引き抜かれた。報酬は今の数倍にも上る。危険な仕事ばかりと聞くが、これこそが正当な報酬と言っても過言ではない。

 だが、ジョンは一度たりとも引き抜きに応じようと思ったことさえない。彼は自分自身をイギリスという国家が持つ剣の一つと考えていた愛国心の塊だ。

 女王陛下は看板みたいなもので、命を掛ける価値があるかどうかは疑問視していたが、少なくとも国のためであれば迷いはなかった。

 その愛国心も今や、揺るぎつつあったが。

「ミスターユキムラ。我々はあなたに提案があって参った次第です」

「言っておくが、私は傭兵になるつもりはない」

「でしょうね。なんでも、ブラックサンズのF小隊特殊部隊の引き抜きを蹴ったとか。報酬は桁違いでしょうに」

「金では動かない価値がある」

「では、情報と機会はどうでしょう?」

 この一言はジョンの興味を引いた。確信から放った言葉らしく、ビショップが怪しげな笑みを浮かべた。

「言ったでしょう。あなたの事は全て把握しています」

 薄気味悪さを感じたが、個人の交友関係まで洗えるとは。ジョンと香織の関係を知るのはごく一部の人間だ。どこに耳と目があるのやら。

 しかし、この情報網は欲しかった。

「私も一度の訪問で受けてくれるとは思っていませんよ。ですが……この資料の中身を見て、直に確認していただければ、お気に召していただけると思います」

 封筒をテーブルに置くと、ビショップは一礼し、音もなく退出した。


 この数分間の出来事はまるで夢のように感じられた。しかし、手元に残る資料は現実だ。

 ジョンは退院したその足で、資料に書かれていたロンドン東部のハックニーに建つリー川沿いの廃工場を訪れた。

 ビショップが置いて行った資料によると、日本革命連合は事件を起こす前に拠点としていたとか。

 資料にはこれが証拠だと言わんばかりに、見覚えのある日本人の顔写真と共に、ハックニー周辺の監視カメラで撮影されたと思わしき画像が添付されていた。

 もしかしたら、ポセイドン海運はあの虐殺に関わっていたのではないか。疑念が浮かぶ中、ジョンは廃工場の裏口に立っていた。

 思った通り、鍵が掛かっていた。しかし、鍵開けの技術は軍で習っている。ピンとマイナスドライバーを挿入し、探る。

 その時には背後で何者かが監視している気配を察知していた。ジョンはあえて放置し、鍵を外した。

 それと共に、二つの気配が近づく。害意はないと判断したジョンは振り返った。

「ジョン・ユキムラだな」

 スーツ姿の男二人だが、鍵開けを咎めようとする様子はない。むしろ、ジョンの名前を知っている以上はただの警察ではないだろう。大方、諜報機関の人間だとジョンは推測した。

 国外のテロを担当するのはMI6、今で言う秘密情報部SISだ。

「なにかな、ミスターボンド」

「そこは昨日我々が抑えた。欲しいものは何もないぞ」

「だと思った」

「聞きたいことがある、同行願う」

 相手は拳銃の一丁でも懐に忍ばせているに違いない。それに、ここに来たのは物を欲しがったわけではない。ポセイドン海運が“本物”であるかどうか確かめたかっただけだ。

 事態を大きくしたくないジョンは、大人しく諜報員二人に従った。


◇ ◇ ◇


 諜報機関の人間だからといって、どことも知れない場所に連れ込まれて拷問を受けるようなことはなかった。ジョンは喫茶店に連れ込まれ、簡単な尋問のようなものを受けたのだ。もちろん、暴力や脅迫はなし。

 ただ、どのようにして日本革命連合の拠点を知ったのか。ジョンがテロリストと内通しているとは考えずに、ただその一点にが知りたかっただけなのだろう。

「この資料をポセイドン海運のジェームス・ビショップという男に渡された」

 机に資料を広げ、ビショップの名を聞くと諜報員たちは顔を青くした。

「確かか?」

「もちろん。スコットランド人だ」

 諜報員は互いに顔を見合わせ、視線で会話しているようだった。諜報畑の人間は、困るといつも視線で会話を始める。

 無言の会議につきあう義理はない。

「君は、あそこを調べてどうするつもりだったんだね」

 紅茶を一杯飲み終えたジョンが席を立つと、髪のない諜報員が尋ねた。

 わかりきった事を。ジョンは手短に答えた。

「私に答える義務が?」

「いいや」諜報員は困り顔で言う。「お元気で」

「こちらこそ、紅茶をどうも」

 支払いは金持ちの方々にお任せし、ジョンはハックニーを後にした。


◇ ◇ ◇


「お電話をお待ちしていましたよ」

 資料に載っていた番号を掛けると、あのスコットランド人の声が響いた。

「契約には条件がある」

「聞きましょう」

「日本革命連合を殺せる環境と、情報を寄越せ。そうすれば、お前たちの業務汚れ仕事を引き受けてやる」

 電話越しでもあのニヤケ顔が浮かんだ。

「後日、詳細を詰めるとしましょう。また、そちらの都合を考えて連絡します。では」

 一方的に通話が切られるも、ジョンは気にしない。

 友人たちを裏切るような結果になったのは残念だが、それでも止まらずにはいられなかった。

 もうすぐ、あの連中を殺せる。そう考えるとジョンはいてもたってもいられず、サンドバッグを三時間ほど殴り続けた。

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