幕間

 リオ・デ・ジャネイロ。ブラジルの宝とも形容されるこの首都は経済だけでない。

 コパカバーナビーチの青い海と白い砂浜、熱い日差しに煌くリオのビル群、そしてこれを見守るかのように直立するコルコバードで直立するキリスト像。自然と文化が調和するこの美しい景観は砂浜や丘だけでなく、リオ・デ・ジャネイロの街そのものも含めて世界遺産に登録されている。

 だが、美しいのはうわべだけ。

 現実は世界中から汚物をかき集め、それを固めて作ったような街だ。

 低層に住む人々は、貧困とギャングの搾取に苦しめられる汚い世界を生きている。

 一方で上層に住む人間はマンションの上層階に居を構え下々の貧民から目を逸らしつつ、搾取して得た富で美しい世界での生を謳歌している。

 これは現実だ。低層に住まう住民の暮らしに、ファンタジーは存在しない。

 しかし、そんな彼らにも唯一縋れる夢があった。

 それはスポーツ、中でもサッカーだ。

 世界で活躍できるプロチームにでも入れば、晴れて上層の世界に成り上がる事ができる。

 上層の人間のために、上層の人間になるために、字も知らぬ少年達はボールを蹴る。

 目前に、蜘蛛の糸が垂らされることを期待して。


◇ ◇ ◇


一九九五年三月七日

ブラジル リオ・デ・ジャネイロ市ヴィディガル


 夏のある日。掃き溜めの中に建つ小屋で、座ることを強制されていた。

 足元には薬で錯乱した少年。背後には制裁された物言わぬ少年。

 そして目前で座るのはこの土地の最強で、最悪な男だ。

 奴には誰であろうと逆らえない。同業者であろうと、市民であろうと、そして法の代行者たる警察であろうと。例外はいない。

「確認だ。お前はあのスタジアムで、何も見ていない。ほら、復唱してみろ」

 これは悪魔との取引だ。問いに「はい」と頷けば俺は悪に堕ち、「いいえ」と拒めば何かを失う。

 その何かとは、自分自身の命とは限らない。連中と違って、自分には失って困るものはいくらでもある。

「どうした? まさか、見たというんじゃないだろうな?」

 そう言って、男は机に一枚の写真を取り出した。二人の男と三人の女。俺、親父、母さん、嫁、娘のマリア。みんな嬉しそうに笑みを浮かべている。

 これは家族写真だ。もちろん、俺が知る限りこの写真が家の外に出たことはない。

 何故ここにあるのか? それは目前で不敵に笑みを浮かべるこの男が、自身の力を見せつけているだけに過ぎない。

 一々殺していては面倒だから、約束さえすれば手は出さないでおいてやる。

 男は、そう言わんとしている。

 正直なところ情けなかった。なぜ、この国の警察官は腐るのだ。自分なら絶対に腐らず、正義を遂行するというのに。

 昔の俺は甘かった。相手が何者なのか、どんな奴なのか。何も知らなかったとしか言いようがない。

 ガキの頃に見たアメリカ映画の刑事は無敵だった。家族を人質にされても、どうにかしてしまう。しかしあの映画の場合、相手が無能だったか、主人公の想像力が著しく欠落していただけだったわけだ。

「どうするんだ? この中の誰かと話さなきゃ、その気になれないのか?」

 写真を見せられただけで心臓が破裂しそうなのに、こんな事を言われてはもう抵抗のしようがない。

「あの件は今後一切、口外しない。約束する」

 男が満面の笑みを浮かべるのを見て、全身からすべてが抜け落ちるようだった。

 今まで、警察官と言う職務に抱いてきた正義は音もなく崩壊した。

 その瞬間、気付いた。

 汚職警官達は甘い汁を吸いたいだけではない。ギャングと言う脅威から免れるため、彼らの犬となっていたのだ。連中は政府と違って、世間の目を気にせず非道な手段をとるのだから。

「そうやって受け入れてくれりゃいいんだ。ファベーラスラムの連中に何が起きたって、大した問題じゃないだろう? お前にゃ、何の関係もない話だ」

 そう、関係のない話。多少の事に目を瞑れば、安全が保障されるのだから。

「だけどよ、人の口ほど信用のならないものはねぇ。だから選べ」

「え?」

「選ぶんだよ、そのぐらいわかるだろ? てめえのチンコか、目か。どっちかを捧げてお前の覚悟を証明しろ」

「そんな馬鹿なっ」

「十数える! その前に選ばなきゃ、両方潰す。一、二、三……」

 突然の事態に、思考が上手く働かない。何故そんな事をしなければならないんだ。

「四、五、六!」

 男は立ち上がり、座っている椅子を蹴倒した。

「両方なら、まずはチンコだな」

 そう言って、工具箱から取り出したのはペンチと糸鋸。一体、それを使ってなにをどうするつもりなんだ。まさか、切り取るつもりなのか?

 想像して、下半身がキュッと締まった。どんな痛みが走るか。きっと、恐ろしく痛いに違いない。

「カウントダウン再開。七、八……」

「目を! 目にしてくれ!」

 俺は何をやっているんだろう。まさか、自分で自分の目を潰すように頼むとは!

 後悔しても遅い。奴は笑い、「いいだろう」ペンチと糸鋸を机に置いて、死角に消えた。

「眼球抉ろうと思ったけどよ。お前の覚悟に免じて、抉るのだけは勘弁してやる」

 そう言って、奴は俺に見えるようにマゼンタ色の容器をちらつかせた。

「洗剤、言われなくてもわかるよな? 抉る代わりに、洗ってやる事にした」

 ここにきてようやく、奴が持っている容器が液体洗剤だと気付いた。そして戦慄した。洗剤なんて、化学薬品の塊。それを目にかけても、良い結果にならないのは目に見えている。

「やめろ」

「お前が決めた事だろ? 自分の発言には責任を持たなくちゃ、お巡りさん?」

 蓋が開かれ、俺の目の前で容器が傾けられた。濁った液体が見えた直後、瞼を開いていられないような激痛が襲った。

 叫んで痛みがどうにかなるわけではない。わかっていても、叫ばずにはいられなかった。

 アルカリ性の液体が俺の目を焼く。

 奴が何かを語りかけていたが、わからない。閉ざした瞼が開かされ、また洗剤を垂らされた。


 何時間そうしていたのか、記憶にない。

 気付いた時には病院のベッドの上だった。看護師が言うに、俺はゴミ捨て場に捨てられていて、五つの洗剤の容器が傍らに転がっていたと言っていた。

 その後何ヶ月か病院の世話になって、視力は見える程度まで回復した。だが、無傷では終わらなかった。

 今の視力は両目〇・〇一以下。眼鏡がなければ、五メートル先の人相すらわからない。

 こんな事があったとしても、生活がある。警察官の仕事を辞めるわけにはいかない。

 普段通りの職務をこなす毎日。だが変化があった。顔面に追加された眼鏡と、副》の度に渡される共和国の肖像レアル紙幣

 あの地獄が実在した証明であると同時に、俺が堕落した象徴だった。


◇ ◇ ◇


一九九五年六月二〇日

ブラジル リオ・デ・ジャネイロ市コパカバーナ地区


 人は簡単に変わることができる生き物だ。でなきゃ、今の世界はない。

 ファベーラのギャングと繋がりを持った俺は、あっさりと今の状況を受け入れた。

 クスリの取引を手伝えと言われれば最適な状況を作り出し、娼婦・男娼が姿を消したと聞けば伝手を使って探し出したりもした。

 死体の始末だって、報酬次第でやった。

 非番の日の夜は家にも帰らず、クラブで独り酒を飲むのが日課になっていた。仕事か悪い事をしていないと自分がいかに悪人で、家族と過ごす資格がない人間だと思い知らされるからだ。

 適当にそこそこ良い酒を飲み、適度に酔いも回ってきた。俺は酒が好きだが、飲みすぎるのは好きじゃない。だからそろそろ帰ろうと思った時だった。

「おい、お前アルトゥールじゃないか?」

 見上げると、ニヤついたコロニア野郎日系人。顔に覚えはある。確かガキの頃、近所に住んでいたケンタとかいう奴だ。

 やけに馴れ馴れしい上、コロニア語話者同士でつるんでいない変わった野郎だ。

「知らねえな」

「いーや、その顔はアルトゥール・ソウザだ。元気してたか?」

 強引に振り切るために立ち上がろうと思ったが、奴はボトルを置いた。

 無暗に酔うのは好きじゃないが、タダ酒は嫌いじゃない。とりあえず、話だけは聞いてやる事にした。

「で、今さら何の用だ?」

「風の噂で、お前さんが警察のザーメン野郎糞野郎になったと聞いてね」

 やはり、タダ酒の誘惑を振り切ってでも店を出るべきだったかもしれない。こうやって話を切り出す奴は、大抵ろくでなしだ。正義感に駆られたアホか、ゆすり目的のクズか。この国ではどちらも大差はない。

「言っておくが、金はないぞ」

「おいおい、俺を誤解してもらっちゃ困る。俺も同類、お前さんと同じくザーメン野郎だ」

「なら、なおさらタチが悪いな」

「ごもっとも」

 見たところこいつが警官には見えないし、薬をやってる気配もない。その癖、身なりは妙に良い。可能性が高いのはクスリの売人。それも、セコい小売じゃなく卸売の方。この国じゃ、よほどのヘマをしなければ犯罪者にならない犯罪者だ。

「聞いたぜ? コマンド・ルースのサンゲに虐められたんだってな」

「世間話聞くために座ってるわけじゃねえんだ。本題に入れよ」

「本題なんてない、今日は単なる顔見せ。近いうち、仕事を頼むかもしれないからな」

 変人コロニア野郎が、今や影の上司ってわけか。実に面白くない話だ。

「じゃ、このボトルは奢りだ。仕事の時はよろしくな」

 グラスのストレートスコッチを飲み干すと、奴は迷いなく店から出て行った。変人は変わらずか。

 とはいえ、あまり飲む気になれなかった。二十分後、スコッチをボトルの半分以上を残して、俺もクラブを後にした。


 わずか三ヶ月だ。たった三ヶ月で俺の住処は北部の狭く小さなボロアパートから、南部の大きなアパートの一室になった。妻の負担になっていた親父と母さんも、設備の整った立派な老人ホームに入れてやる事ができた。

 そこでは、隣人の夫婦喧嘩やチンピラの銃撃戦に怯える必要のない、平穏な暮らしがそこにはあった。

 当然家賃等の出費はアホみたいに増えたが、その分割に合う仕事をすれば問題はない。親父や母さんはもちろん、妻やマリアにとっても悪い事じゃないはずだ。

 そのはずなのに、自宅の扉を開けても誰一人として俺を出迎えはしない。

 リビングに向かうと、妻が一人でテレビドラマを見ていた。俺の方に視線を向けさえせず、ぼうっとした表情で画面だけを見ている。

 これが、ここに来てからの日常。みんな俺を避ける。俺がどんな気持ちで、どんな事をしてこんな暮らしをさせてやってるのか知りもせずに、俺を無視する。

 内心の苛立ちを抑え、キッチンの冷蔵庫に向かう。

「また、悪い事をして来たのね」

 あいつは、不意にそう呟いた。ドラマのセリフじゃない、妻の発言だ。

「クスリを売って、人をダメにしてきたのね」

 ふと冷蔵庫の中身を見ると、冷やしておいた六つのビールの瓶が全て消え、彼女の足元には六つの空き瓶が転がっていた。

「おい、まさか一人で全部飲んだのか?」

「そうよ、悪い? クスリ売りのお巡りさんよりマシでしょ?」

 彼女だって馬鹿じゃない。薄給の俺がどうやってこんな場所に住ませる事が出来るかわかっていたはずだ。プロポーズの時、警官は薄給だけど構わないかと聞いて、彼女が頷いた事も覚えている。

 そこまで言っておいてこの暮らし。俺が汚職に手を染めている事は想像がつくはずだ。

 だから反論は出来ない。いくら君たちを人質にとられたからといっても、やっている事実は変わらない。

「飲み過ぎだ。もう寝た方がいい」

「汚職警官の言う事は聞かないわ」

 単なる酔った勢い、大した抵抗はしない。肩を貸してベッドルームに運ぼうとすると、彼女は決定的な一言を発した。

「夫ヅラしないでよ! ……私達なんて、本当はどうでもいいくせに」

 俺は文字通り、家族を守るために全てを捧げてきた。自分の名誉すら汚し、まともな視力すえも捨てた。それをどうでもいい?

 後ろめたさもあったんだろうが、俺はついカッとなって彼女をソファに投げた。

「ふざけるなよ! 俺が一体どんな気持ちでやってると思ってる!」

「自分のためでしょ、金のためでしょ!」

「金のためだと? じゃあこの部屋と酒は誰の金で得たんだ! 俺が稼いだんだぞ!」

 そして、こうしなければお前らは死んでいたかもしれないんだぞ。キレていても、これを口にしないだけの理性はあった。

「気に入らねえなら、ここから出て行け!」

 いや、やはり理性は飛んでいた。俺は、何を守るために名誉を捨てた? 国への不満? それとも金のため? 違う、家族のためだったはずだ。なのにこんな事を言っては本末転倒だ。

 もしここで彼女が「いいさ、出て行ってやる」の一言でも言ってくれれば、俺は理性を取り戻して謝罪したかもしれない。

 だけど、彼女は何も言わなかった。自力で立ち上がると、俺を見ようともせず寝室に消えた。


 翌日、仕事から帰ると妻とマリアは自宅から消えていた。置き手紙もなく、部屋から消えていたのは娘のオムツだけだった。


◇ ◇ ◇


一九九六年一二月二四日

ブラジル リオ・デ・ジャネイロ市ヴィディガル


 妻子と別居状態になり、連絡もとれなくなった俺は、少しだけヤケになっていた。

 昔と比べて少し太り、ギャングと内通したお陰か昇進した。仕事も、警官のものよりも汚い仕事の方が精力的だった気もする。

 そんな仕事の合間、俺の暇つぶしはファベーラのガキにサッカーを教える事だった。

 ブラジル人にとって、サッカーは国技のようなもの。もしこの世界にサッカーがなかったら、この国は掃き溜めと変わらん。

「ほら坊主ども、新しいボールだ」

「ありがとう、おじさん」

 遊んでいたらボールを切り裂かれた。そう言って集合場所で泣いていたガキどもに、二十八レアルのボールを買い与えていた。

 当時の事はよく覚えていない。マリアの件もあったのかもしれないが、ガキどもを懐柔しようなんて発想じゃなかったのは確かだ。

 ボールを買いに行って一時間ほど。売人はまだ着いていなかった。俺も三十分ほど遅れて到着してはいたが、まあこの程度はよくある事だ。

 ガキどもに軽くリフティングの技術を見せびらかしつつ、売人の到着を待つ。

「おじさん。リフティングは凄いけど、勝負で役に立つのかよ?」

「ははん、お前サッカーで稼ぎたいだけで、試合とか真剣に見て研究してねえな? こんな感じでボールの跳ね方を制御する技術をモノにするのはな、プロへの一歩なんだぞ」

「マジかよ?」

「マジだよ。足のどこに、どのぐらいの力でボールが当たると、どう跳ねるか。これがわかるだけで、サッカーは変わってくるぞ」

「スゲー」

 ここのガキどもは可愛いもんだ。サンパウロとかのヤバい地区じゃ、十歳で殺しを覚えたなんて話は珍しくないと聞く。それと比べてみりゃ、マシなんてもんじゃない。

「でも、リフティングは一人でしかできない」

「……それもそうだな」

 別にガキどもは好きで試合もどきをやっているわけじゃない。奴らには約三十レアルのボールを買う金さえない。それが親でも同様、ガキの小遣いほどの持ち合わせすらないのがファベーラの人間だ。

「だけどまあ、これだけは覚えとけ。技術ってのは一見地味な練習でも磨くことができる」

「……覚えておくよ」

 会話にキリをつけたところで、広場の縁で腰掛ける男に視線を向ける。

「なに見てんだよ」

「いや。優しいとこあるじゃないか、お巡りさん」

「黙れ」

 サラザール・ケンタ。前に会ったのは一年ほど前か。奴は以前と変わらないニヤケ面を俺に向けている。

「お前が今回の商談相手か?」

「かもな。まあ座れよ」

 ここはお前の土地ではない。そう言いたいのは山々だが、まあいい。言われた通り隣に腰掛けるも、視線はさっきのサッカー坊主どもに向ける。

「で、お前はまだコマンド・ルース目を壊した奴らの便利屋やってるんだな」

「お前には関係ない。それよりもサンゲが待ってる」

「そうだな。あいつは、怒ると恐ろしいからな」

 肩をすくめると、ケンタは立ち上がる。奴は今、ペトロポリスの物流を一手に仕切っていると聞く。そこから人が来るとは聞いていたが、まさか本人自らおいでとは。この会合は俺が思っている以上に重要だったらしい。

 サンゲが住処に使っているのは、丘の麓にある作りのしっかりした一軒家だ。そこは一日中監視の目が緩む事はなく、理由なく近く人間は誰であろうと脇に引きずり込まれ、一週間後には身元不明の焼死体になっている。

 不思議な事に、サンゲのお気に入りとなった俺でさえ、用事がなければ立ち入る事さえ許されない。


 ここファベーラでは、一日中どこかしらで犯罪が起きている。それは往来のど真ん中でも例外ではない。

 サンゲの屋敷に向かう途中、ガキを蹴飛ばす大人が視線の隅に入った。そいつは親なのか、それとも売春させてるチンピラかは知らないが、仮にも警官の俺の目前でそんな真似をされるのは腹が立った。

「おい!」

 そいつは、俺を見るとギョッと目を開いた。

「な、なんだよ」

「そこで何をやってる」

「こいつが金をガメたんだよ」

 頭を抱えたまま震えるガキを指差す。よく見れば、そのガキは男娼だった。だが、俺の苛立ちに変わりはない。

「どうせテメェが先にピンハネしたんだろうが。とにかく、みっともねぇ真似はやめろ」

「あんたにゃ関係ねぇだろ、関わらないでくれよ」

「わかんねぇ奴だな」

 詰め寄って顎に一撃食らわせ、脇を蹴飛ばした。

「いいか、こちとらお客様連れてんだ。てめぇ、生きたまま歯抜いて焼き殺してやろうか?」

「やめて、やめてくれ」

「次テメェが不手際起こしたって聞いたら、良い所あの世に叩き込んでやる。わかったかザーメン野郎!」

「わかった、わかった!」

 恐らく、この程度じゃ解決したとは言い難い。俺がいなくなった途端、奴は同じ事を始めるだろうし、あのガキも男娼を辞めることはできない。

 多分、俺の自己満足は焼け石の水にしかならない。だけど、止めずにはいられなかった。

「随分と優しいじゃないか、お巡りさん」

「黙る事を知らないのか?」

 サンゲの屋敷まで残り十メートル。そこまで着くと、進路と退路を塞ぐように四人の男が現れる。

「アルトゥール、こいつが話の?」

「そうだ」

「両腕を上げろ」

 入る前に、まずはボディチェック。サンゲは用心深い男だ。多分、リオの中でも上層で暮らしている人間と同じぐらい用心している。

「おっと。じゃあ怪しまれる前に、こいつは預けておいた方がいいな」

 そう言ってケンタはボディーガードに背負っていたダッフルバッグを手渡した。

「こいつはなんだ?」

「個人的なものと、護身用の武器が入ってる。預けるよ、出たら返してくれ」

 ボディーガードが確認しているのを横目に見ると、拳銃一丁と白い粉らしきものが入った袋が見えた。どうやら、他でのビジネスも控えているらしい。

「中身ガメんなよ」

「わかった」

 もし後で取引相手への粗相がバレようものなら、こいつらはサンゲに殺される。信用しても問題はないはずだ。

 ボディチェックが済むと、俺とケンタは屋敷の扉に向かい、扉を叩く。

「入れ」

 その言葉を聞き、ノブを捻った。

 サンゲの評判とは違い、奴の住処は小綺麗だ。もちろん、ファベーラ基準で。

 俺は隅に立って会合の様子を伺う事にした。

「お前がサラザールか?」

 リビングのテレビに視線を向けたまま、サンゲが言う。傍らには愛人兼護衛の女が座っている。

「シニョール、初めまして。サラザール・ケンタです」

 ケンタが歩み寄って手を差し出すが、奴は応じない。視線を向けすらもしない。どうやら、力関係はサンゲの方が上らしい。

「あー、握手はお好みでない……」

「シニョールサラザール。俺はビジネスについて話したいんだ。ビジネスに握手は必要ない」

「ごもっともですね、さすがの実力主義だ! じゃあ早速本題に入りましょう。シニョールが知りたがっていたBOPEボッペの動向と、州知事のスケジュール及び個人情報。全て用意が出来ました」

「本当だな?」

「ええ。知事の別荘までバッチリ」

 軍警察特殊部隊BOPEと州知事の情報? 実に興味を惹かれると同時に、身の危険を感じるワードだ。一体、サンゲはこんな事を知ってどうするつもりなんだ。

「向こうに気付かれたりしてないだろうな?」

「まさか。調査は完璧です……で、こっちの頼みなんですが」

「確かな情報だと確信出来たら、こっちのシマで商売させてやろう」

「ありがとうございます」

 BOPEの情報は表で何かをやらかすなら、実に便利だろう。だが、州知事がわからない。ファベーラの浄化を謳っておいて何もしない、何も出来ていない無能なのは誰もが知っている。そんな奴の弱みでも握って裏で支配するつもりか?

 まあ、俺には関係のない事だ。ケンタが死のうが、サンゲが死のうが、大して変わりはない。

「じゃあ、後日資料を持たせた人間を行かせますので、何卒よろしくお願いします」

 ぺこりと一礼。コロニア野郎らしくないのか、らしいのやら。踵を返して玄関に向かうと、俺は一応ノブに手を掛けた。

 遠くから連続して響く破裂音。これは銃声ではなく爆竹だ。しかし、銃声と大して変わりはない。ファベーラで爆竹が鳴り響くのは、サッカーの試合でもない限り軍警察や警察が突入してくるというサインだからだ。

 すぐに爆竹じゃない破裂音が聞こえてきた。今度は間違いなく銃声だ。だがまさか、よりによってこんなタイミングで起きるとは!

「なんだ!」

「BOPEです! 連中が来ました!」

 サンゲの愛人が足元から散弾銃を拾い上げると、血眼で玄関から出て行った。

「どうするんですか?」

 ケンタがサンゲに問い掛けた。

「ここから逃げる」そう言ってPT92に弾倉を詰めた。

 BOPEの掃討は漁に近い。重装備の隊員と装甲車で軽く包囲し、徐々に包囲網を縮める。そして、逃走ルートを事前に予測して待ち伏せ、殲滅する。相当地形を熟知していないと、逃げ場はほとんどない。

「だけど、連中は……」

 ケンタも同じ事を言おうとしたんだろう。だが、サンゲには切り札がある。

「心配ない。お前も来るといい」

 奴の切り札は警察。俺をはじめとする多くの警察官の弱みを握っているサンゲにとっちゃ、警察署は親戚の家みたいなものだ。

 顔パスで入り込んで、出て行ってもお咎めなし。奴はそうやって何度もBOPEの掃討から逃れてきた。いくら毒をもって毒を制すみたいな面のある乱暴者の集団BOPEでも、警察署に留置された容疑者を射殺する事は出来ない。

 実際、この屋敷から五分もしない位置に警察署がある。もっとも、警察署というよりチンピラの溜まり場みたいなナリで、実際見た目通りな訳だが。

 外に出ると、町は天地がひっくり返ったような騒ぎだった。一般人は鍵を掛けて閉じこもり、部下のギャングはAKを持って外に飛び出していた。

 全ては、サンゲを守るため。連中はそれ以外に生きる術を知らないからだ。


 俺たちが向かっている方向の先では、激しい銃撃戦が繰り広げられているんだろう。だが、前線がそこまで押し上げられる前に俺が務めている警察署に到着する。サンゲはどこから攻められても、すぐ着けるように立地を決めているからだ。

 署と言っても、ファベーラ近くの署は制服姿の警官がいなければ警察署と気付くことは出来ない。

 周辺の住民も武器庫程度にしか捉えていないらしく、時々署の武器庫目当ての強盗が現れるほどだ。それで渡す方も渡す方だが。

 さて、次の角を曲がれば署が見えてくる。サンゲは自分がこの世界の神にでもなったかのように悠々と先頭を歩いているが、不意に俺の袖を掴んだ奴がいた。

 ケンタだ。振り返って奴の表情を見ると、何かに巻き込もうとしているのが一目でわかった。

「なんだ」

「その角は曲がらない方がいいぜ」

「どうして?」

「お前のためだ」

 ニヤケ面は消え失せ、代わりに真剣な瞳が俺を見据えた。記憶にある中で、初めて見せる表情だ。

 俺の足が止まった。

 息を吸い、神経を研ぎ澄ませる。何かが妙だ。集中して辺りを見渡して、違和感に気付く。

 駐車場に止まるパトカーの配置が今朝と違い、ナンバーが違う。普段から人の気配が薄い署内は、普段以上にひと気がなかった。

 俺たちは何者かに見張られている。待ち伏せされている。根拠はないが、そう予感した。

「おい、なにしてる」

 俺とケンタに気付いたサンゲが立ち止まった直後、署の屋上に人影が現れた直後、サンゲの脳が砕けた。

「伏せとけよ!」

 隣で聞こえた叫びに従い、咄嗟に俺は地面に伏せた。後頭部のすぐ後ろを銃弾が通過し、頭上のコンクリートが弾ける。そして悲鳴すら聞こえる間もなく、どさどさと人の倒れる気配があった。

 こういう時の基本は、他人からいいと言われるまで頭を上げない事だ。少しでも敵意があると判断されれば、撃たれても文句は言えない。

 少しして銃撃が止み、歩行の振動を感じた。銃撃、死体に撃ち込んでいるのか。

 ようやく、俺を立たせる存在が現れた。

「アルトゥール・ソウザ警部補だな?」

 BOPEベレーを被った男が俺に問いかける。どうやら、身辺さえも調査済みだったらしい。

 恐らく、しらを切っても無駄だろう。これは天罰みたいなものだ。せめて、最後くらいは潔く捕まろう。

「その通りです」

「君について調べさせてもらった。まあ、とにかく続きは中で話そう」

 ベレー帽の男は署を指差す。

 とても、いやですと断れる状況じゃなかった。


◇ ◇ ◇


 見慣れた署内には見慣れない武装集団が集っていた。

 彼ら曰く、サンゲの切り札は既に把握済み。事前に警察署に張っていれば間違いなく現れると踏んでいたらしい。さすが、この国を代表する特殊部隊。サンゲも善戦したとはいえ、所詮は単なる武装ギャング集団のリーダー。国を相手に正面切って戦えるほど狡猾ではなかったという訳か。

「俺はどうなるんです?」

「調査中に見つけたんだが、君の奥さんから過去に警察へ通報があったそうだ。夫がギャングに脅迫されている、とな」

「そんなまさか」

「既に裏は取ってるんだ、シラを切る必要はない。どっちにしろ、君が汚職に手を染めているのは承知済みだが、丁度いいと考えている。もはや、我々の戦いは真正面から撃ち合うだけでは終わらない。敵を内側から切り崩してくれる人間が必要だ」

「俺にスパイをやれと?」

「その通り。こちらの協力者も、君を強く推薦していたからな」

 言われてケンタを見ると、表情はいつものニヤケ面に戻っていた。どうやら奴は単なる売人ではなく、ギャングの情報を軍警察に流す命知らずだったようだ。何が命知らずかって、勘付かれれば、ボスの家族であろうと死ぬよりも酷い目に遭わされる。

 よほど足を洗いたい人間か、異常なまでの正義感がなければ出来ない事だ。

「そうやすやすと信用していいのか? そっちが俺をどう見てるかは知らねえけど、仮にも汚職警官だぜ?」

「だが、同時にギャングたちに顔が利く。立場上、どんなことに首を突っ込んでも怪しまれない。もし裏切ったらその時は……覚悟してもらう。ただし、我々はギャングじゃない。殺すことになるとしても、死ぬのはお前だけだ」

「そんならしいこと言っても、俺がNOと言ったら捕まえるんだろ?」

「当然だ」

 選択肢はない。今度からギャングの監視ではなく国家権力からの監視を受けることになる。もちろん、俺が刑務所ムショに入る気になればまた話は別だが。

 だが、向こうにとってだけじゃない、俺にとってもこの話はちょうどよかった。

 連中のやり方には飽き飽きしていたところだ。

「俺の潜入がバレたら?」

「出来る限り助けよう。……聞くということは、肯定と受け取っていいんだな?」

「ムショよりはマシだ」

 ガキを使って好き勝手するクズどもを指咥えて見るよりマシだ。

「それはよかった。私はフェルナンデス中尉だ。君の身分証を用意することは出来ないが、まず最初の仕事がある」

 そう言うとまず、中尉は俺に手錠を突きつけた。

「あー、ムショの潜入捜査?」

「違う。ケンタ・サラザールの逮捕だ」

「どうして? 協力者のはずだ」 

「奴が我々と州知事の情報を流そうとした直後にサンゲが死んだ。ただでさえ怪しいのに、どこからか今の接触を見られていたら決定的だ。君が余所者のケンタを売ったことにすれば自然だし、ギャングからも信用されるだろう。それに、元からそういう契約だったからな」

「契約?」

 自分からムショに入りたがる奴はそう多くない。自殺志願者か、本物の被虐を求めるマゾヒストか。まともな国で薬を抜く目的だったり、報復から逃れるために自分から収監される野郎はいるそうだが、生憎この国のムショにはその手の誘惑や暴力は掃いて他国に投棄したいほどある。

 ついさっき重役が死んだコマンド・ルースも、元はムショを支配していた組織の派閥の一つが独立したもの。塀の内側の方が連中は元気だ。

 この国じゃ、金とリスペクトさえあればムショも殺風景なホテルと変わらん。

「なあに、ムショに入るのはヤク中で自分の名前もわからなくなったような奴だ。俺は日本に行って、日本国籍を取得して真っ当なビジネスをするつもりだ。二世までは国籍取得簡単だからな」

「おいおい、こんなこと許していいのか? 法的に問題あるだろ」

「よその国に興味はない。それに、この男はそれだけこちらに貢献した。法に背く連中を駆除するには、正攻法ではままならん事もある」

「報酬も、相手と似たようなものにするって訳か」

「それに見合う働きをすればな」

 どんな事情があろうと、俺はあのチンピラどもの言いなりになって、イイ思いをしていたのは事実だ。誰も俺の事を信じないだろう。

 でもそれでいい。少なくとも、この裏切りに後ろめたさはないのだから。

「ほら、両手出せ」

 手錠を受け取ると、ケンタの両腕を後ろに回す。

 この逮捕こそ、俺の人生第二のスタートだ。そう確信している。

 ケンタが売った薬物が何人の人生を破滅させたのかは知らない。知りようがないし、興味もないし、救済も不可能だ。ケンタがこの世から消えたところで、クスリの売人はこの国にごまんといる。

 ある意味、この国がまともになるには売人全員がケンタのに、暴力と堕落を捨ててまともな商売を求めなくちゃいけないんだろう。といっても、こいつを聖人やら善人だと思うことはない。ただ、他よりはマシなだけだ。本来なら本人をパクって、本人をムショにぶち込むべきだ。

 だが、今こいつをムショに放り込む余裕もスペースもない。やるべきなのは搾取とクスリしか頭にないクズどもの排除だ。

「こちら側へようこそ、お巡りさん」

 今思えば、日本で再会した時に背中を思いっきり蹴飛ばしてしまったのは、裏切られたと内心思っていたからかもしれない。

 結局、奴は日本でもまともな商売が出来なかったからな。

 そんなクズ野郎でも恩人だ。ケンタがいなければ今の俺はないから、今でも時々後悔する。

 もう少し優しくしてやるべきだったと。


◇ ◇ ◇


 まあ、BOPEに協力し始めた後にも色々あった。ギャングに内通がバレて報復されたり、BOPEの選抜試験を受けたり……色々な。

 でもまあ、一々話すと長くなりすぎる。続きはまたの機会に、ってことにしよう。

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