幕間
二〇一八年一一月二〇日
愛知県羅宮凪市 特別警備隊南詰所
午後五時六分。今頃彼女は夕食の準備を終える頃だろう。
携帯電話の電話帳から自宅を選択し、コールする。
プルルルルと四回ほど電子音が鳴ると、受話器を上げる音が聞こえた。
「もしもし?」
この声は、世界で一番大切な男の声だ。
「
「ああ、父さん。仕事は大丈夫なの?」
久々に聞く息子の声、直接会ったのは何ヶ月前だろうか。もしかしたら、丸一年会っていないかもしれない。
とにかく、こいつは今年で十歳になるはずだ。
「ああ、今は大丈夫。母さんはいるか?」
「今飯作ってる。ちょっと待ってってさ」
「そうか。じゃあ、少し僕と話さないか?」
こう言う時でもなければ、実の息子と会話する機会さえない。快斗は少し溜めると「うん」と短く頷いた。
「最近はどうだ? 学校とかでいじめられたりしてないか?」
「ないよ、別に」
「そうか」
おかしいな、言葉が出ない。ついさっきまで快斗が代わりに出たらどうするかシミュレーションを重ねていたはずなのに。電話番号を押して、受話器が取られる直前までは頭に残っていたのに。
現実に言葉を交わすと、嫌でも思い知らされる。
僕は実の息子の事を何一つ知らないのだと。
出産の時にも立ち会えなかったし、運動会を見に行ってやった事もない。授業参観や三者面談だって一度も行った事がないんだから、何も知らなくて当然だ。
「そうか」沈黙を伸ばさないように、とにかく僕は口を開いた。
せっかく何キロも離れた本州の息子と会話をしていると言うのに、このザマとは。
「出来たから今代わるね」
結局、ろくに会話を交わす事なく彼女が出た。
「ライナルト?」
「久しぶり、元気?」
「お陰様で。そっちの仕事はどう?」
僕は今、安寧警備で高層ビルの警備をしている事になっている。SIUの隊員である事は、互いの安全上の観点から秘密となっている。
「いつも通り、警備よりも雑用が多いかな。道案内とか、簡単な照明の取り替えとか……ちょっと無理すれば、抜け出してそっちへ遊びに行けそうなぐらい暇だな」
「こらこら、ダメだぞ。ちゃんと仕事しなきゃ」
「ああ、わかってるよ」
時計をチラリと見ると、五時十四分。まだ話していても大丈夫だけど、用事を済ませなければ。
「ところで、来月の話なんだけど」
「あっ、もしかして?」
「察しがいいなぁ。そう、丸一月休める事になった」
安寧警備は日本の従来の警備会社とは契約内容が違う。契約期間は丸一年だけど、業務が落ち着いていれば三ヶ月ごとに一ヶ月の休暇が許される。今年は忙しくて帰る暇がなかったけど、今回は何とかなりそうだった。
「やった!」
「それで、どこかゆっくり旅行にでも行こうかなって思ってさ」
まだどこへ行くかは決めていないけど、羅宮凪島以外なのは確かだ。
「もちろん! 快斗と旅行なんて初めて! 快斗ぉ、父さんが旅行に行こうかだって」
受話器越しに小さく、「ふーん」と快斗の声が聞こえた。
あいつにとっては不思議な気分なんだろう。もしくは、行きたくないか。
僕の父は物心つく前に死んでしまったが、ろくに顔を見せていない男が母と共に旅行へ行こうと提案したら、あまり良い気分はしない。母が認め、父と名乗ったとしても、所詮は家族ではなく他人なのだから。
もし快斗が僕と似た性格をしているのなら、そう思っているんだろう。
でも、僕は快斗に会いたい。
快斗と話したい。
快斗を知りたい。
快斗は、僕の最愛の人が産んだ実の子だから。
「また、詳しい日程が決まったら連絡する」
「わかった、楽しみにしてるぞ。……そうだ、昨日の話なんだけどさ」
「うん、なんだい?」
彼女が話し始めたその時、業務用の携帯が鳴った。着信音のリズムからして、緊急事態を知らせる連絡だ。
大音量で流れた着信音は、受話器越しの彼女にも聞こえたらしい。
「いいよ、私は。行ってきて」
「でも……」
「いいから。では」
プツリと一方的に通話は打ち切られた。もしかしたら、僕の仕事はお見通しなのかもしれない。
私用の携帯電話を机にしまうと、僕は望み通り会議室へと向かった。
◇ ◇ ◇
二〇一五年四月七日
愛知県名古屋市 中村区
愛知県、正確には中部地方の中核は名古屋市だ。名古屋市無くして中部は成り立たない。
横暴な話に聞こえるが、残念ながら事実だ。名古屋駅には、愛知県のほぼすべての交通手段が繋がっている。道路から鉄道、空港から港まで。愛知各地に存在する工場を経営する会社も、大体は事務所を名古屋に置いている。
名駅周辺に人が集中するのは当然だ。
「普通の仕事じゃ、家族を養うことが出来ない」
そんな愛知県屈指の一等地に建つオフィスビルの一室。僕は古い時代の上司と対面していた。
かつて裏切者と呼ばれた男、田村俊夫。自身の経歴を営業から宣伝まで、使えるところは余すことなく利用し、一代にして日本最大の警備会社を築き上げた男だ。
彼は警視庁配属だったから直接顔を合わせたことはなかったが、それでも噂を耳にできるほど、彼は有名人だった。
「自己アピール文を読ませてもらったが、長谷川君は妻帯者だね?」
「ええ。息子も小学校に」
「今のご時世、育ち盛りの子供を育てていくのは大変だ。うちの社員も、同じ苦悩を抱えているよ」
警察を辞めさせられてから一年、僕は出来る仕事を探し続けた。
建設作業員、コンビニ、警備員……どれも家族を養うには給料が安すぎた。何よりも、三十代間近の人間をまともな給料で雇おうとする場所がなかったというべきかもしれない。
国家の治安を守る警察官から一転、社会からの爪弾き者にされたわけだ。
「で、ここからが肝心なんだが……君は、例の部隊に?」
「ええ、その通りです」
例の部隊。日本で隊員の所属が秘匿される部隊は少ない。片手で十分数えられる。
自衛隊の特殊作戦群、特別警備隊。警察では、日本で一番有名だと確信できる
僕はかつて、SATにいた。だけど、履歴書にはいつも警察にいたと書いた。SAT隊員は現役であろうが引退した者であろうが、この隊にいたことは家族にすら秘匿しなければならない。上司から度々、破った者には犯罪として処罰を受けるという訓示を受けたものだ。
今までの履歴書にだって、僕は単なる警備部の警官だったと書いている。一度たりとも、就職の為にSATを名乗ったことはなかった。
そう、なかったのだ。
「念のため、こちらの情報網を使って調べさせてもらったわけだが、確認はとれているんだ。よくぞ決心してくれた。社員のプライバシーは秘匿するから、万が一にも罰せられることはない。安心してくれ」
「ありがとうございます」
例え僕が元SATを公表したところで、マニアから注目を受けるぐらいで処罰は受けないだろう。事実、目の前の男は元SATを公表しても御咎めはなかったのだから。
「じゃあまあ、詳しい話に移ろうか。こっちの業務は理解しているかな?」
「ええ。主に警備とか……」
「隠さずに言うなら、我が社は民間軍事会社、紛争地帯とかに兵士を派遣する仕事だ。気取った言い方をするなら、PMCか。どっちみち、やる事に変わりはないがね」
日本最大の警備会社にして、唯一のPMC。それが安寧警備と言う会社の素顔だ。
所属する人間は日本人はもちろん、東アジアだけでなく東南アジアからの軍や警察出身者を採用している。業界的には中堅で、比較的礼儀正しいのが特徴のようだ。
「君は僕と同じく警察出身だから、治安維持系の仕事がよさそうだな。となると……」
日本の会社とは言え、日本では僕の能力が活かせる場は少ない。せいぜい中東やアフリカの紛争地帯か、南米の民間警察系組織に送られるだろう。
そう覚悟していた。
「実は立場上、こっちにいろんな話が入って来てね」
「はぁ」
「日本にも、民間の警察が出来るって話があるわけだよ」
「この国にも、ですか?」
なるほど。これは、いよいよ日本も危なくなってきたな。
民間警察は
ただし、発展途上国に分類されるような国での話であり、先進国じゃ前代未聞だ。
なぜ、そういう事に関しては時代の最先端を行こうというのか。
「凄いぞ。なにせ普通の制服警官だけじゃなく、SATと同レベルの特殊部隊を編成するって話なんだ」
「殉職者と発表せずに済むからですか?」
「そう。だから気軽に突入命令が下され、危険な状況にも投入されるだろう」
戦後日本が経験した初めての戦争。あの戦争は、日本と言う国のあり方を変えた。マスコミは昔よりも静かになり、公権側は横暴な姿が見られるようになった。
そして、何よりも企業に優しくなった。世界中のどの企業に対してもだ。
これは日本に限った話じゃない。途上国だけじゃなくアメリカやドイツのような先進国でも。
世界中が企業を中心に回り始めていると、みんなが感じていた。
民営化はその確信を強める要素の一つに過ぎない。
「……その、契約の方は?」
「おっと、そっちの方が重要だな。まず一番気になるであろう給料だが、四カ月で百五十万。土日の休みはないけど、一ヵ月間の休暇が年三回ある。まあ、詳しくは契約書に目を通してくれ」
そう言って、田村俊夫は一枚の紙を僕に差し出した。
契約書。これに自分の名前を書けば、晴れて新入社員となる。
「僕が君を騙したりしないことは約束しよう。だが、読みたければ好きなだけ読んでくれ。これも立派な権利だ」
言われなくとも、出された書類に目を通さず名前を書くほど愚かではない。
彼の発言と内容に齟齬がない事を確認し……思った通り、福利厚生の類がほとんどない事も覚悟している。
しかし、この一年で僕は強く自覚していた。
僕には結局、
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