後編
二〇一八年六月一日 午前一一時五二分
愛知県羅宮凪市 負川町
羅宮凪島屈指の住民数を誇る負川町。ここは羅宮凪島の労働力の中枢であり、民家やマンションだけでなく、サービス系の企業を入れるためのビルも少なくない。
僕がガラススモーク越しに睨んでいるこの負川ビルヂングも、そのうちの一つだ。
「シエラより報告。
マンションの一室から監視しているチェルノブからの報告。直後、二十代から三十代の、一見共通点の見当たらない集団が階段を下って来た。
彼らは労働に関わる人間を守る会が開くセミナーの参加者だ。しかし、市長候補夫人襲撃事件にはこの会が関係しているとの証言が得られていた。
つまり、僕らの行動は裁判所から許可が下りている正当な捜査なのだ。
「レッド・シックス、こちらも確認した。入った時と人数は変わらない」
「ブルー了解。作戦行動に移る」
ブルーチームの役割はセミナーを受けた人々の撮影。
例え今回の件とは無関係だとしても、重要参考人であることに変わりはない。
身元の確認が済み次第、参加者ら自宅にはあとで捜査員がやってくるだろう。
そして僕たちの仕事は、最も重要で失敗が許されないものだ。
十分後、セミナーを受けた人々の姿はもうない。
「作戦開始」
ジョンが短く告げると、SUVは急発進してビルの目前に停車した。そしてドアを蹴破らんばかりの勢いで飛び出し、階段を駆け上がる。
目的地は三階。労働に関わる人間を守る会が所有するフロアだ。
部屋は三つ、扉から入ってすぐの教室に、事務室。そして詳細不明の一部屋だ。
階段を上り終えて扉の前で停止。僕が扉のノブ側に立ち、ジョンは反対側で閃光手榴弾を握る。ポーターは僕の後ろで指示を待っていた。
扉の向こうからは生活音が聞こえてくる。奥には間違いなく、人がいる。
「
今頃、彼は屋上からロープを垂らして南側の窓の上にいるんだろう。
視線をジョンに向けると、彼は頷いた。
「突入開始!」
恐らく、この瞬間にアルトゥールは窓から内部に突入したはずだ。
こちらも扉を突破する。ポーターが僕の前に出ると、丸ノコを起動させて蝶番に押し当て破壊。続いて、錠を切断して扉を手前に投げ捨てた。今度はジョンが閃光手榴弾のピンを抜き、アンダースローで投入。
炸裂を確認すると、僕は盾を突き出しながら内部に踏み込んだ。
「特警だ! 両手を頭に置け!」
外にいた僕でさえ耳鳴りであやふやなのに、彼らに聞こえているかは怪しいものだが、とにかく内部の人間に向けて叫ぶ。
教室の容疑者の制圧を二人に任せ、僕は事務室の窓から突入したアルトゥールと合流し、目を覆って立ち上がっている人は伏せさせ、爆音を受けて立ち呆ける人には拳銃を向けて威嚇した。
「パソコンに触るな!」
パソコンは立派な証拠品だ。データを削除されたところで復元は不可能じゃないけど、完全なデータを引き出す事が出来なくなる恐れがある。それに、パソコンに爆破装置を仕込んで物理的な破壊を企んでいる恐れもあるからだ。だから誰一人として、証拠品に近づけてはならない。
僕とアルトゥールはまだ容疑者の拘束には移れない。このビルの一室には窓が一切ない、不気味な部屋が存在するからだ。
見取り図を調べると、本来そこには窓があった。しかし、外からその周辺を見ても塗り固められた壁があるばかり。もちろん、この改築を施したのは彼らだ。
こんな手間をかけるんだから、よほど都合の悪いものが隠れている可能性が高いと見られていた。
そこへの扉は錠前のない内開きの扉。なら開けるのは難しくない。ジョンとポーターが事務室へ来たのを確認すると、アルトゥールが軽く助走をつけて蹴破った。
直後、開いた扉から銀色の筒が投げ込まれたのを見て、僕は咄嗟に叫んだ。
「
形状からして、恐らく
仲間を守るように移動し、盾のふちをしっかり地面につけ、パイプ爆弾の目前に陣取った。
僕がここで退いたら、傷つくのは仲間だけじゃない。容疑者と証拠品まで被害を受けることになる。
僕はチームの
最前線の盾が退いたら、一体誰が仲間を守るんだ。誰が任務を遂行するんだ。
だから僕は退かなかった。自分の装備を信じ、覚悟を決める。
この状況に、一歩たりとも怯まないように。
強烈な圧力が盾越しに襲い掛かった。覗き窓は破片が当たったのか亀裂が入り、爆音は強烈な耳鳴りと頭痛を引き起こす。
だけど、まだ気を緩めてはいけない。爆圧で舞い散った埃の向こうで人影が蠢く。
直後、閃光。再び盾が衝撃に揺れ、腕に痺れが走る。この衝撃は銃弾によるもの。長年の経験からそう確信した。
「特警だ! 武器を捨てろ!」
自分自身でさえうまく聞こえていない警告。だけど向こうは警告を受けていることぐらいわかっているはずだ。
それでもなお敵意を向けるなら、その結果だってわかっているはず。
「
耳鳴りに混じって、ジョンの叫びが聞こえた。もう、容赦はしない。
盾の陰に隠した右腕と拳銃を出し、銃撃。三発撃って絶叫が聞こえた。
制圧が終わるまで止まってはいけない。前進し、再び扉の前に立つと、ジョンが僕の背後に立って肩を叩く。
「右頼む」
「了解」
ジョンには僕の背中を守ってもらいつつ、突入した。
秘密の部屋は大きな棚によって二つに分断されている。そのほか、大手通販サイト『Nile』の大きな段ボールが積み重ねられている。
死角は大きいが少ない、といったところだろう。
部屋に突入した僕の眼下には弾を浴びせた男がうずくまっている。この様子なら、もう行動不能だろう。
倒れる男をまたいで前進。すると背後で正確な
彼の射撃は恐ろしく正確かつ素早い。セミオートの拳銃をまるで機関銃のように連射しながら、すべて的のど真ん中に当ててみせる。
背中を任せられる相手として、これ以上の人間はほとんどいない。
死角を警戒しつつ部屋を進み、制圧を進める。
棚が終わり、大きな死角へと差し掛かる。罠を警戒しつつも素早く歩き、棚の陰を窓越しに覗き込む。
黒点。それを見た瞬間、僕は咄嗟に下がった。直後、爆音と共に盾の上部が一部弾け飛んだ。
ライフル、あれはAKか。
七・六二ミリ弾を連射できる極めて危険な武器だ。防弾盾でさえ、一番装甲の厚い中央部分以外では耐えられない。普通の建物の壁なんて、やすやすと貫通してしまう。
だけど、相手が素人で助かった。銃撃の反動は容易いものではない。ましてや、連射すればなおのこと。引き金を引きっぱなしにしたのか銃弾が天井に穴を開けると、ほどなくして発砲が止まり、カチカチと金属音が聞こえた。
「敵、弾倉交換中!」
この場合、僕よりも彼の方が確実だ。敵の状況を叫ぶと、銃声と共に現場に静寂が戻った。
◇ ◇ ◇
二〇一八年六月三日
愛知県羅宮凪市 SIUオフィス
想定外のサプライズがあったけれど、作戦は無事完了した。
今回の作戦でやましい事は何もない。あったままの事実を司法側の人間に伝え終わると、無事拘束は解かれた。
その日のシフト終了後、ベカエール指揮官は僕たちを招集した。
これは作戦後毎度行われる、彼の日課のようなものだ。
「今回の作戦、見事な手際だった。スタッフの報告によると、君たちの制圧が五秒遅ければフロア一つを吹き飛ばせる量の
僕が抱いていた、用いていた爆薬が黒色火薬であるという想像は少し楽観的過ぎたようだ。
TATP。イスラム系のテロリストが自爆テロに使う事で有名な代物で、日本でも簡単に製造できる爆薬としては最上級に危険な物質だ。
確か三年ほど前、日本でも実際に製造して逮捕された例があったはずだ。もっとも、この例は本人に使う意思があったかどうかは怪しいが。
しかし、そんな感覚でも作ろうと思えば作れるものである事に違いはない。
「だが、この事件はまだ終わっていない。あの施設に保管されていた二十キロのTATPのうち、五キロが持ち出されていることが発覚した」
「実行役の手に渡ったと?」
「わからん。管理と製造を担当していた羽田容疑者……AKを乱射した男は、既にこの世にいないからな」
射殺したのは間違いなくジョンだったが、彼が悪びれることはないし、僕たちも責めるつもりはない。あの状況下で逮捕するというのは極めて困難。射殺は最終手段ではあるが、命を賭けて逮捕しなければならないほど容疑者の証言は重くない。
もちろん、逮捕が最高であることには異論や考察の余地はないが。
「君たちが巡回中にも、爆破テロに遭遇するかもしれない。毎度言っていることだが、一層の注意を払って職務にあたるように。以上、解散」
ぞろぞろと隊員たちは散っていき、ほどなくしてチームスリーのオフィスは僕一人だけが残された。
所詮は職場だ、特別ここに愛着があるわけではない。ただ、独り寝るためだけの部屋よりはここの方が気分がよかっただけだ。
もしくは、訪問者が来るのを待ちわびていただけなのかもしれない。
時間潰しにコンピューターで動画サイトを眺めていると、不意にオフィスの扉が開かれた。
「おい、長谷川はおるけ?」
余所のオフィスだというのに、そいつはずかずかと入り込んで来て、僕の隣のデスク、ポーターの椅子に座り込んだ。
「なんだおめぇ、始末書でも書いとるのか」
「そんなところだ」
ブラウザを閉じると、旧友を気取ったような態度の
彼は警察でも特別警備隊でもない、特別警備隊が使用する装備を整備・販売を行う企業、村岡装備開発に所属するエンジニアだ。部外者のはずなのにこの詰所に顔を出せるのは、特別警備隊の隊員は支給品以外は自費購入の場合が多く、フィードバック目的半分で詰所に出店して顔を知られているからだ。
LIP拠点強制捜査の際に持っていった防弾盾は村岡装備開発が販売しているもので、阿久間はその盾の開発主任でもある。
「破損した盾について聞きに来たのか?」
「まあ、そんなところだわな。そのついでにどっか飲みに行かんか?」
「最初からそれが目的だな?」
「それは知らん。で、行くのけ?」
僕の知る限り、阿久間に友人はいない。わざとらしい名古屋弁か、それとも性格からか。詳しくは知らないけど、同郷で同い年というぐらいで馴れ馴れしいのだから、両方かもしれない。
「行くよ」
でも、その馴れ馴れしさが今はありがたい気もする。
◇ ◇ ◇
装備の破損について話を聞くという名目で阿久間が案内したのは、名気屋町北区にある小さな居酒屋だった。
小さなビル一階に収まっている店内はカウンター席だけが並んでおり、軒下に置かれている手書きの黒板にはおすすめのメニューが書かれている。このメニュー表を見る限り、見てくれは洋風ではあるが、中身は昔ながらの居酒屋のようだ。
阿久間を先頭に店に入る。
「邪魔するぞ。今日は、やけに空いとるな」
「ああ、いらっしゃい」
中年男性の店主と思わしき人物が軽く会釈する。店内は阿久間の言う通り、季節外れのコートを着た一人の客を除いて空席だった。
「なんだ、口コミサァトに悪口でも書かれたのけ?」
「実はそうなんですよ。うさんくさい名古屋弁の客がうるさいって書かれましてね」
「へっへっへっ、客相手になかなか言うなぅこいつ。俺はいつもので、このデカブツには、まあ適当に見繕ってやってな」
「あい。あすかさん、生二つお願い」
「はい」
そう言われて裏から出てきた女性には見覚えがあった。これでも元警官、人の顔を覚えるのは得意だ。彼女は河内邸でメイドとして働いていた女性だ。
彼女も僕の顔を見るなり気付いたらしく、軽く会釈した。
だが、この阿久間は妙なところで目ざとい。
「なんだぁ? お前さんら、知り合いなのけ?」
「いや、知らないな」
知り合いなのは事実だが、職務で知ったことが広まるのはよろしくない。僕がしらを切ると、彼女の方も「気のせいなんじゃないですか?」と合わせてくれた。
「おぉん? すまんな。今さっき、会釈しとったように見えたんだわ。あすかちゃん、無愛想さんだでな」
目ざといとはいえ、あまりしつこい性格ではない。即座に会話の対象を僕に切り替えた。
「ところで、こないだの仕事であの盾、ぶっこわけたって聞いとるんだわ。念のため、口頭でいろいろ話してくれんかえ?」
「まあ。最初は手榴弾の爆発を至近距離で防いだ。破片が複数、うち一つが覗き窓に当たった」
「ほぉほぉ、手榴弾一発。まあ、俺様が作っとるんだから当然だわな」
「次に拳銃弾を中心部に二発」
「まぁ、それなら余裕だわ。ど真ん中なら、NATO弾ブッ飛ばされてもカチカチ受け止めるでな」
「AKの七・六二ミリ弾一発、それで上半分が弾けた」
ここまで来て、ようやく阿久間の表情が曇った。
「AKなぁ、さすがにバッチリと作った俺様のシールドも、至近距離のライフル弾は隅っこ怖いでな」
「でも、これ以上固くするのは難しいんだろう?」
「ほうだなぁ。お前さんでも、これ以上重くなったら辛ぇだろう?」
「確かにな」
僕が使っている盾は防弾ガラスの覗き窓があり、上部の左右は拳銃を構えやすいようにくぼみがあるものだ。つまり、CTUで多く使われている一般的な防弾盾だ。
しかし、阿久間が開発した物は機動隊が使っていた大盾ほど広さがある上、他の防弾盾と同等の防御力と重量を持っている。
従来品に比べて大幅な減量に成功しているということだ。
「そっちはいいお客さんだでな。買い直す時はお安くしといたる」
「それはどうも」
安寧警備のオペレーターは装備の購入に関しては基本的に自費だ。だけどSIUに選ばれるような人間は例外で、費用の三割を負担してくれる。家族に関する事で出費の多い僕にはありがたい話だった。
「そういや、お前さんらがやっとった事、
「へえ、どんな風に?」
「そりゃもう、捜査した場所が場所だでな。右も左もアフィも大盛り上がりだわ。俺様の副業も繁盛しとる」
そう言えば、こいつは前に軍事関係のアフィリエイトサイトを経営していると言っていた記憶がある。なるほど、こうやってセコく稼いでいるわけか。
そんな事を考えていると、遠くから複数の違法改造されているであろうバイクのエンジン音が聞こえてきた。
羅宮凪名物、日本全土で絶滅危惧種に指定されている暴走族だ。九十年代頃は自警団の標的にされ、現代でも時折襲撃を受けているというのに、健気な連中だ。
残念ながら今の僕は非番で乗り物も持っていない上、ビールと枝豆を胃に入れていた。例え車があったとしても乗るのは危険だ。対処は他の警察官か特警隊員に任せるとしよう。
徐々に車列の気配が近づき、航空機が真上を通過しているかのような騒音に達した。
無意味にふかされるエンジン、エンジン音に負けないスピーカーからの音楽。
近くを通り過ぎるだけならまだいいだろう。だけど騒音源が二、三近くで止まった。
間もなくして店の扉が乱暴に開かれた。お客さんではなさそうだ。
「失礼しまーっす」
不躾な挨拶、あまり畏まった態度は好きじゃないけど、こっちは子供に悪影響を及ぼしそうで嫌いだ。
「マスター、とりあえずビール頂戴!」
店主はチンピラを一瞥すると、口を開いた。
「お客さん、バイクに乗ってきました?」
「それがなに?」
「うちは運転手にアルコールを飲ませません。余所へ行ってください」
「は?」
チンピラが店主に詰め寄る。特警の隊員として止めなければと思った直後、何者かが物音ひとつたてずに背後を通過。手に持った一升瓶をチンピラの頭部に叩き付けた。
何が起こったのか気付けなかったのだろう。殴られたチンピラは表情一つ変えず、そのまま床に崩れ落ちた。
今のは一体何だ? 移動から攻撃まで、文字通り瞬き一つする暇がなかった。
あの速さ、まさに縮地。今のは一体どんな武術の達人なんだ。一拍子遅れて肝が冷えた。
「うっるせえぞクソガキィ!」
彼が叫んだ直後、むせ返るようなアルコールの臭いが店内に充満した。
まさか、あんな体捌きが出来る人間が酔っ払い? 思わず自分の正気を疑った。
「なんだ、てめぇは!」
「黙れクソガキ! ここで死ね!」
再び一升瓶を掲げるのを見て、僕は確信した。この男、放っておけば本当に殺しかねない。咄嗟に武器の一升瓶を掴んだ。
「おい待て、落ち着け!」
「黙れ! 俺様の時間を汚す奴は何人たりとも許さん!」
なんて自己中心的で面倒くさそうな奴なんだ。
自分以上に取り乱している人間がいると、かえって落ち着くという話を聞いたことがある。まさにこの状況だ。僕の頭はすっかり冷えて冷静になっていた。
「店主さん、110番!」
「ええ」
チンピラ共もそうだが、この男を大人しくさせるには僕と阿久間の二人がかりでも難しい。至急、応援が来なければ人死にが起きてしまう。
さすがにそれを見過ごすことは出来なかった。
三分後、暴走族の対応を行っていたと思わしきパトカーと救急車が現場に到着。問題を起こしていたチンピラはもちろん、酔っ払いも乗せられていった。
チンピラは放心状態で逃げるのも忘れて固まっていた。多分、その決断は正解だろう。その場から消えていたとしても、あの男は追いかけていただろうし、僕も手を放していたかもしれないからだ。
しかし驚いたのは、コートの男は連行される時には大人しくなったことだ。てっきり、銃の出番が必要になるほど暴れるかと身構えていたというのに。
一応、証言が必要と言うことで阿久間と店主が署に同行した。
阿久間は、「おめぇは仕事で疲れとるんだろう? ほんならまぁ、俺様が代わりに行ったる。感謝しろよ」とパトカーに乗りながら言った。
相変わらず気が利くのか利かないのか、よくわからない男だ。
と言うわけで、事情聴取が終わるまでの間、河内邸のメイドさんこと、明日香さんと店内に残された。
店内は沈黙に包まれていた。テレビが発する音は、残念ながらこの空間の沈黙を際立たせるばかり。バラエティ番組のばかばかしい雰囲気は、気まずい空気を浄化するには足りないようだ。
少し酔いの回った手つきでスマートフォンの画像を漁る。と言っても、あるのは遠い本州に住む妻と息子の写真だけ。写真を眺めて湧いてくるのは、過去の記憶と存在しない妄想ばかり。
あまり気分のいいものではないけれど、こうするしかやる事がなかった。
「奥さんと息子さん、ですか?」
少し飲み過ぎたらしい。明日香さんが背後に回っているのに気付けなかった。
「ええまあ、そうです」
「息子さんはおいくつですか?」
「十歳です」
彼女を振り返って、ふと思う。改めて間近で見ると、明日香さんは妙齢の美人だ。
……柄にもない事を考えてしまった。
ばつが悪くてどうしようと思ったけれど、幸いにも彼女はまだ言いたいことがあるようだった。
「私も息子がいるんです。まだ五歳ですけど」
「二度目の大変な時期だと妻に聞きました。言葉を覚え始めて、動きも早くなって……」
「腕白で大変ですよ本当。でも、とってもかわいいです」
「確かに」
まさに異論はない。特に女性の場合、自分の腹を痛めてでも産んだ子だ。愛着もひとしおだろう。
恐らく、ご主人の話を聞くのは得策ではないだろう。少なくとも、余裕のある母親はこんな時間、子供のそばではなく職場にいることはまずないからだ。
離婚か、それとも死別か。あるいは僕のように遠くで働いているのか。今の時代、単身赴任でも給料が安いのは珍しい話じゃない。
僕の給料は、世界中でもかなり恵まれている方だ。
「……怖くないですか? 仕事で、もし自分が死んでしまったらと考えたら」
彼女から笑顔は消え、真剣な面持ちで尋ねた。
難しい質問だった。言うまでもない事だが、僕の答えはYesだ。
僕が死んだら、二人はどうなるんだ。どうなってしまうんだ。
そう考えずに済んだ日はないし、これからも考えずに済む日はないだろう。
だけど、仲間と僕一人の命。二つを天秤にかければ恐らく、僕は自分の命を投げ捨てる。
故に、怖い。自分は他者の命を奪い、場合によっては自分を捨てられる化け物になっていることを自覚してしまうからだ。
しかし、僕はその心の内を言葉にしてはいけない。
盾は退いてしまったら、何も守れない役立たずになってしまうから。
「怖くありません。何かを守るためであるなら」
だから僕は嘘を答えた。すると、明日香さんは凄く微妙な表情を浮かべた。
安堵したような、困ったような。でも、最後には「そうなんですか」と短く答えた。
その後、彼女と言葉を交わすことはなかった。
◇ ◇ ◇
二〇一八年六月十日
愛知県羅宮凪市 黒壁町
障害は消えた。結局、労働に関わる人間を守る会とLIPの関係は『組織を騙る者が行った暴走の結果』として処理された。
証拠品も二者を繋ぐ線は発見できなかったが、SIUの強制捜査によって生じた戦闘は新野の評判をガタ落ちさせるには十分な破壊力があった。
事前調査では、こちらが大きく上回っている。負けることはまずないだろう。
あとは、投票日を待つだけ。河内拓也は悠々と自室のソファで足を伸ばした。
市長になれば自分の地位は確たるものとなる。奴らの傀儡となるのは不本意だが、まあ裏切りさえしなければ益こそあれど害はないのだから、その程度はお安いものだ。
今日、河内は自宅でゆっくりするつもりだった。なにせ、久々に妻がいないのだから自由にできると言うものだ。
携帯電話で明日香を呼び出すと、すぐにリビングに現れた。
彼女は洗濯物を干す直前だったらしく、洗濯籠を抱えていた。
「なにか、ご用でしょうか?」
何かを言うまでもない。彼女は拓也の愛人なのだから、チャックを下ろせば伝えるべきことは伝わる。
明日香が歩み寄り、拓也の目前で跪いた。
その時、不意に玄関の扉が開かれた。
「あなた!」
聞きたくない声が大音量で反響する。慌てて拓也はチャックを戻すも、決定的瞬間は目視されていた。
「あなた、明日香さんに何をさせようとしていたの?」
「ただ、床にゴミが落ちていたから」
「匿名でね、ネタは上がっているんです。あなた、明日香さんに浮気してたんでしょう!」
匿名の通報? 思わぬ言葉に拓也の頬が引きつった。なぜ、よりによって妻に伝えるんだ。自分に大ダメージを与えたいのなら、週刊誌や地元新聞社で十分だ。
一体、誰がどうやって知ったというのか。
ふと明日香の方を見ると、彼女の姿が消えていた。
「どこを見ているの!? 説明しなさい!」
探そうにも、怒り狂った夫人が詰め寄ってその隙を与えようとしない。
「明日香が、明日香がいない!」
「あとにしなさい! それよりも説明!」
一度こうなった女性はなかなか手が付けられない。
どうしよう、どうしようとオロオロしていると、足元に置かれた明日香が持ってきていたであろう洗濯籠が目に入った。
危険な雰囲気を感じ取って逃げ出したんだろう。それよりも、目の前の脅威だ。
拓也はこの危機的状況を打破するための選択を頭に思い浮かべた。
1、誠心誠意謝ってこの場はしのぐ
2、自分の非を認めて多額の賠償金を支払う
三つ目を考え始めたところで、拓也の意識はプツリと途絶えた。
◇ ◇ ◇
市長候補者の死。そのニュースは大々的に報じられた。
ニュースが過熱したのはそのタイミングもあるが、死因が最も反響を呼んだ原因だろう。
河内拓也の死因は、至近距離で炸裂した爆弾による爆死。遺体は歯の一部と頭蓋骨の欠片が発見されたのみで、残りは爆圧によって夫人共々消し飛んでいた。
使用された爆薬はTATP。労働に関わる人間を守る会の施設で発見された爆薬である可能性が極めて高いと愛知県警は判断し、捜査は続いている。
同日、暗殺犯は爆発の直前に消息を絶った桐山明日香と発表した。
後に捜査の結果、彼女の夫は河内拓也が経営する会社に勤めていたが、二年前に心筋梗塞で死亡していた。明日香さんはこれを過労死であるとして労働基準監督署に訴えたが、日頃の業務に関係のない不摂生が原因であるとして却下されていた。これが彼女の動機だとされている。
なぜ彼女が河内拓也の家にメイドとして入り込めたのか。どういった経緯でLIPと関係を持ったのか。彼女は今、息子を放り出してどこにいるのか。
彼女が見つかっていない現状、知る術はない。
海外に飛んだのか、日本のどこかに未だ潜んでいるのか、あるいはひと気のないところでひっそりと命を絶ったのか。
それを想像することさえできないほど、僕は彼女を知らない。
だけど、今でも僕は気に病むことはある。
あの時、僕があの質問に本心を答えていたら、彼女は躊躇ってくれたのだろうか。
暗殺を諦めて、息子の為に生きてくれたのだろうか。
多分これも、答えなんて出ないんだろう。
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