おそらくは何かの記念日らしい、特別な食卓を囲む専業主婦とその夫のお話。
グルメ小説です。いやそれは言い過ぎというか軸はあくまで恋愛か人間関係のドラマ部分にあると思うのですけれど、でも食卓の描写のディティールが凄まじいことになっています。じっくりたっぷり分量を割いて、細部まで丁寧に描き出された食事の様子。その内容そのものの細やかさもあるのですが、より好きなのはそれが主人公の視点を通じて描かれていること、そしてそれゆえに読み取ることができる、微かな心の機微のようなものです。
専業主婦である主人公が、夫とふたりで囲む食卓のために、丹精込めて手ずから用意した食事。献立を考え料理する立場であるからこそ描かれる、それぞれに込められた想いやこだわりに、なによりそれを食べる夫の反応。例えば少食であることや、例え洋風のおかずでも白米を好むところなど。主人公自身はバゲットが好みなのだけれど、でもそこだけは夫の趣味を優先する——というような、これらの細かい描写によって、少しずつ肉付けされていく登場人物のリアリティ。
直接に語られているのはあくまで食卓のメニューそのもの、でもそれを通じて(あるいはそこに絡めて)人物造形や関係性をこちらに飲み込ませてくるところ。その自然さや水準の高さ、というのもたぶんあるのですけれど、でも自分にはそこまで論じられるほどの知見がないというか、単純にこの手法そのものがもうすごいです。『食』って人の個性の出やすいところではあると思うのですが、でもこうして実際にそれを文章で表現するというのは、おそらく見た目ほど簡単なものではないはずです。たぶんできる人にしかできない技術。ごはん要素って出てこない話は本当に出てこないので。
以下、ネタバレというか物語の核心部分に触れます。
その圧倒的な食事描写の末に描き出されるもの、つまりお話の軸となるドラマ部分なのですが、なるほど「ハッピーエンドはお好きですか?」という紹介文の通り……ではないです。やられました。すっかりはめられたというか、これは本当にやりきれない。
確かに主人公の中ではハッピーエンドではあるんですよ。でも読者という客観的な視点からでは悲劇にしか見えない、という。いやこの「はたから見たら悲劇」みたいな構図自体はそこまで珍しくもないと思うのですが、本作において明らかに光っていると感じたのは、その〝主観によるハッピーエンド〟の納得のさせ方です。
悲劇ってこう、あくまで他人事だから悲しめるという側面があって、つまり心のどこかで「自分ならこうはしない」という〝逃げ場〟を用意しながら読むという、いや個人的な読み方かもしれないですけどでも自分の場合はそういうところがあります。もちろんその逃げ道は実質ただの結果論というか、読者という立場で出来事の全体像を把握しているが故の後出しジャンケンでしかないのですが。でも「結果論にせよこうしていれば大丈夫だった」という、その無理矢理作った心の余裕すら、このお話は全部潰してくるんです。
例えば「ええいこんなやつに最後まで付き合う必要はない、私ならこいつだけスカッと抹殺する」と思ったところで、でも主人公自身がまだ彼のことを愛しく思っていますよと、それを理解させられてしまってはもう「じゃあそれは無しか……」と引っ込めるしかなくなってしまう。この調子でこちらの都合の良い妄想をあらかた潰して、最終的に残る唯一の選択肢がまさにこの作品の終着点であると、もう無理矢理認めさせられてしまう感じ。気持ちはまだ全然納得してないのに、でも「確かにこれはハッピーエンドでした」と、そう認めるしかないような状態。この感覚、まるで物語に力ずくでねじ伏せられるような、その「ぬわーっ!」ってなる読後感の不思議な心地よさ!
最高でした。なんというか、オセロとかでこう、「そこに置いたら次角取られて死ぬ羽目になるけどそこしか置けるところがない」状態に追い込まれたような感じ。なんだろう、どうも説明が余計にわかりにくくなってる気がしますけど、とにかく逃げ道を封じられる感覚が楽しい作品でした。