なまのこころ

天池

なまのこころ

 祈りなき言葉に言葉を重ね、言葉なき祈りに祈りを重ね、実際の感覚と記憶の上でのそれとの差異をピントのぼやけたレンズの両眼でぐっと見て、強く目を閉じ、そして祈った――どうか過去の日々が、そこに住む人達や出来事が、私をここから攫ってくれますように・と。

 飾りのない部屋は、この上なく寒々しいものだと知った。まるで部屋そのものが、強く目を閉じてそのまま眠り込んでしまったかのような不安と寂しさだった。今にもサメに食べられるかもしれない。あと数十分もしたら外圧でぺちゃんこになってしまうかもしれない。外の人達や文明は皆滅びて、私だけ最後の供物として残されているのかもしれない。私だけ、わたしだけ、何も出来ない未成熟で意気地なし、何を考えているのか自分でも分かっておらず、思慮の足りないことを知っているこの身体と過去の時間だけを与えられて、放り出されてしまった。・

 放り出されてしまった。時間の海に。

 窓に背を向けて、揺蕩う身体に頭を埋めていたが、左右に波のように茶色い光が押し寄せて来て、背中はきっともう侵食されているのだと知った。静かに巨大な目が開いて、岩塊の隙間から伸び出ている薄茶の細い草達が風に身を倒す。内臓が無残に風にあたっている。・ともかく朝が訪れたのだ。・無意味な言葉達をさっさと沈めてしまおう・私は内臓を引き連れて浮かび上がる。見覚えのない色で――白、と呼ぶのが一番近い、白はそんな色だった記憶があるから――着色され尽くした、多少見覚えのある風景へ。・パチパチ。・浮かんで沈む・浮かび上がる。

 浮かび上がったところで、何が起こる訳でもない。深さの全く予想出来ない真っ黒な色調を湛えているのに、手をくぐらせてみたら何の色も附いては来ない、それどころか触れた感じもあるのかないのかよく分からない、そんな水で一応手を洗ってみるような感覚。色んな水があるものだな、と一瞬嘲笑する。そんな気もすぐに沈んでいく。事実、この部屋にはまだ殆ど何もなかった。家電量販店の店員の言う通りに、部屋の広さに丁度釣り合うものより一段階上の明るさを放つ照明を買ったので、結界を張るように素早く電気を点けると、隅まで余すところなく一種類の色調に包まれ、結衣の新しいテリトリーの四辺を際立たせた。

 折り畳んで収納することの出来る当座のマットレスとシンプルな色の掛布団、同じ形で色違い――ピンクと水色――の枕とクッション、室内用の物干し竿、バスタオル、キッチンとシャワールームのマット、洗濯機、冷蔵庫、衣装ケース、ハンガー、ベッドサイドに置くような小さな机と椅子一脚、エアコン、売り物のように床の端に並べた本や教科書類、その横に白けた風に佇む濃緑色のキャリーケース。テリトリーに既に設置されているのはこれだけで、大きな家具は両親と改めて揃えに行く筈だった。本当なら、三か月も前に結衣の新しい船出の準備はすっかり整えられていて、白色の光の下で、きびきびしたようなでもやっぱりのろいような、知覚や創意工夫に溢れた未体験の生活が、駆け出し特有のとんとん拍子で幕を開ける筈だったのだ。――ああ、カーテン。立ち上がった結衣は恨めし気にレモン色のカーテンを振り返った。一番可愛い生地をすぐに見つけ出して指差した自分の選択は絶対に論難したりしたくないが、明るい色の大きな正方形は何だか入口みたいで少し気味が悪い。五階の部屋だが関係ない。本当に関係がない。前に向き直って、キッチンのあるところへ繋ぐベージュのドアを眺める。落ち着いた感じだが、これはこれで、ドアの形をしているのが既に嫌な気がして来る。いっそ、何もない方が良い。ある筈の物がないのだから、何も見えなくて良いのだ。・名前のない物達、思い出のない物達――。


 りんごをまるごと齧る、というのをやってみた。おばあちゃんの作る玉子焼きは本当に柔らかかったなあ、とぼんやり思いながら。そのまま、お父さんとお母さんは毎朝どんなものを食べているんだろう、と結衣はまた、自分自身が支えを欠いた一枚の鉄板になるようにして、水銀然とした想像の分泌液を奥へ外部へと流す。今口にしたばかりのりんごのかけらが、滑らかな液体になってそのまま脳から出て行くような奇妙な感覚だ。両方の目から同時に涙が出たら、止まらなくなった。シンクにカーテンの色によく似たりんごの果汁とわたしの涙が一緒になってぼたぼたと落ちていく。少なくとも、この涙に意味はない。脳から迸る分泌液や涙になってすぐにまた出て行ってしまうのなら、このりんごにだって何の意味もない。――じゃあこの手は? ・危険だ、と思って結衣は言葉をシンクにぶちまけた。どろどろの左手の甲でレバーを上げ、水を流す。涙は止まりそうもないし、水はそうやっていつまでも流れ続ければ良い。よく噛みもせず、結衣はりんごを食べる速度を速めた。惨めな気分だった。

 結衣の祖母は園芸名人だった。室内と庭の違いが曖昧に思えて来るくらい、居間の窓際は緑やその他の色彩に溢れていた。水遣りのじょうろも幾つか種類があって、どれもおばあちゃんの服装や手先の肌によく馴染んでいるような気がした。室内用のは赤じその色で、管の部分がすごく長い。庭で使うのは大胆に水を排出する、ちょっとガソリンタンクみたいな迫力のある青色のものと、優しい雨のような、木漏れ日のような水をしなしなと降らせる薄いよもぎ色のものだ。赤じそとよもぎのネーミングは祖母によるもので、結衣にはとてもしっくり来た。育てているのはもっぱら鑑賞用の植物で、自家製の食材が食卓に並ぶということはなかったが、おばあちゃんの作るものは何でも美味しかった。一緒に住むことになって一日目の、これからしばらく自分が使うことになるお茶碗を両手に持った感じからもう美味しかった。その感覚さえ、飽きが来ることはなかった。

 おばあちゃんの町の夜はかなり暗くて、しかも家はその殆ど一番端だったから、少し歩くと山に入ってしまって、するとすぐ近くの木と足元の道がうっすら見えるだけになり、頭頂から靴の下まですっぽりと闇が纏わり付いて、結衣は毎回、生まれて初めて夜を見た気がするのだった。しかしカエルやヘビが恐ろしいから、夜に散歩みたいなことはよくしたけれどあまり山の方へは踏み込まなかった。夏が近づくと星空が澄みやかに賑わい始め、夏の大三角の存在感には圧倒された。部屋の窓からでも山側の広い空がよく見えたので、夜じゅう自らの意思でそこに留まるかのような星々に囲まれながら、押し寄せて来る程の黒の質量に浮かんでいつでも美しい光を放つ月の満ち欠けも完璧に把握出来た。それは大きな楽しみだった。寝室は真っ暗にしていたけれど、部屋のカーテンは一度も閉じなかった。

 昼間には、おばあちゃんと山の中へ入って行ったこともある。整備はあまりなされていないがさほど急ではない山道をしばらく進み、少し開けた場所に辿り着いて回り込むと、踏み分け道と土の領域との境目を覗き込むような、鈍い灰色の煉瓦を整然と組み上げて作られたアーチ状の構造物に出逢った。立ち入ることの出来るスペースが中にほんの少しあって、その部分は緩やかな下りの斜面になっているが、その先は扉の付いた木製の頑丈な板のようなもので塞がれている。

 山は戦後になって閉山した銅山で、この空間は坑道の入口の一つなのだった。その短い坂の一番低いところには素焼きの鉢が幾つも並んで、なんとも不思議な植物達が――似ているようで、よく見ると形はそれぞれ全然違う――植えられていた。誕生直後の全く異なる惑星達がそれぞれの地表を形づくるのを俯瞰するような、とても静かでどこか実験室然とした光景が広がっているのを初めて目にしたときには結衣も面食らった。祖母と自分の二人の影が長く伸びて植物と触れ合うその場所は、少し後ずさりすれば頭から山道に戻ってしまう奥行きのない空間ではあったのだが、訪れる者それぞれに特別な言葉を求める神聖さがある、と結衣は思った。ここがおばあちゃんにとって大切な場所なのだということがすぐに分かった。

 結衣は涙が出尽くしても銀色のシンクの底が全く姿を変えないのに苛立ち、その中で恐怖して、最大限齧り終えたりんごの芯を可能な限り無心にぽいと投げた。途端に、排水溝のところまで軽々と水に流されて視界の中心から消えた。泣きはらした目、をしているだろう自分の実在と汚れた手とが同時に最大限嫌になり、最大限の力で水道のバーを殴りつけて下ろした。全てが逆流して来るようだった。でも・何も・変わりはしないのだ、と知っていた。可能な限り無心に、・別にキッチンなんていらない。そのまま洗面台へ手を洗いに行った。

 鏡に映った自分の顔は酷かった。初めて見る顔をしていた。手を入念に洗って、目をぎゅっと閉じてから水で顔も洗った。そうすると大分落ち着いたが、薄いゴムの被り物をつけたような気持ち悪さもあって何度か鏡を見たまま首を振った。頭の下から肩にかけて随分凝っているのが分かった。分かっていることと知っていることが多過ぎて振り払う、振り払い続けていると首が凝るものだ。鼻でため息を吐いてからふかふかのバスタオルで顔を拭いた。カーテンと同じレモン色のバスタオルは無臭で、光を遮断せず、純粋な水しか吸い取ってはくれない。ちょっと安心するようで、ちょっと憎らしくもあった。何かに纏わり付かれることを心の底から拒絶しつつ、それを切に求めていた。匂う程の暗さが欲しかったし、可愛いものは全身全霊でそう思いたかった。安心は目一杯抱きしめたかった。凝り固まった首筋を感じながら洗面所を出ると、ふらついた。途端に言葉が背後や左右から爆発的に押し寄せ、処理する間もなくリビングまで走ってドアを閉めた。そのままへなへなと情けなく座り込んで、カーテンを巨大スクリーンでも見上げるように眺めた。向こうにあるのは夏だろうか、と殆ど無心に零してからまた目を閉じた。


 生物には環世界というのがあって、時間も空間も景色もそれぞれの主体が要素を受け取って自分の中で造り上げる情報として存在しているのだと聞いた。しかし目を閉じてこうしてうなだれている間にも、通りの人の往来のように外部の世界は着々と進行していって、七月三十一日までには、つまりあと五日間の内に結衣はレポートを三つ書き上げなければならない。選択外国語のフランス語は短い動画を毎週視聴する他は音声教材とワークブックによる自習が主で、あとはこの間あった先生と一対一で画面越しに行う簡単な会話テストがあるだけであり、本格的な運用能力の構築は次の学期に行うということだったが、おばあちゃんの家の二階の部屋でエアコンの風にあたりながらカリカリとワークを進めていくと、秋学期に行う予定のものも含めての初級文法は難なく理解出来た。秋にやるの、これの発展みたいなこと? と思ったら肩透かしな感じだった。面白い授業もあった。環世界とものの見え方について扱う授業がまさにそうだ。芸術と自然、をテーマに進められた西洋哲学の授業では、最後の方に出て来たアール・ブリュットという概念が興味深かった。芸術的な創作の技術を他人に教わることなく、また誰に見せることも目的とせずにカリカリと自分の世界を、ときにとんでもなく巨大なものを創出していく人達のアート。冷涼で透明な空気を繰り返し体内に送り込みながら、新しい情報が自分の中で結び合わさっていくなにか壮大な作業を感じた。山の脇の小部屋に居ながらにして、遠くの方から連続して運ばれて来る新しい情報を軽やかにキャッチしていくような、空間的にとても広い充足感を覚えた。

 初めてレポートを書くのが楽しみでならなかった。どんな言葉で私のこの驚きと喜びが表現出来るだろう? 風が吹けば飛んでいきそうなその場しのぎのものではなくて、その奥の木々の風景そのもののような、自分の脚だけで辿り着いた旅先で、感じたことを即座に書き留めるような、その発明、しかし今、結衣はもう、言葉を結び付けることなんて出来そうもなかった。持ち上げた瞬間に崩れ去ったり、ぐにゃぐにゃした不気味な代物に姿を変えたりしてしまう材料を視界から外れた脇に置いて、何が造り上げられると言えよう。書き始めてしまったらおかしな言葉がインクの瓶をこぼしたみたいに溢れ出て取り返しがつかなくなってしまうという確信があった。・取り返し? 取り返しなんて、もう……・。

 纏わり付かれるのも抱きしめるのも、どれもちょっと違う、わたしが欲しいのは、もっとわたしとは無関係に進行して、それでいて私を含み込んでくれるようなものだ。時間や美味しさや声、月の満ち欠け、顔、・大切にされている場所を共有した後の無言の時間、玉子焼き、運転してもらう車の中の時間。どれも手触りや肌触りではないのに、皮膚の寒々しさに絶え間なく勝手に還元されてしまう。底も天井も無くて、どこかへうんと離れていくような言葉だけが在るが、そのどれもが実体を持つことが出来ずに目の先で、或いは水中の浅いところで死滅していく。おばあちゃんはいつも笑顔だったな、と思うと、笑顔すら皮膚に少し前まで張り付いていた気がして来る。

 信じられないけれど、そこに在る。考えてみれば、そもそも信じられないものばかりだった。結衣の大学入学と一人暮らしの開始を期にアメリカへ仕事の拠点を移すことにした父は、母と一緒に新しい家の準備に行ったきり、帰って来られなくなった。父母が移住する予定の州で発生した新種のウイルスは瞬く間に拡大し、国じゅうがパニックに陥って、州の空港はただちに閉鎖されたばかりか、住民や滞在者には外出規制がかけられた。二週間の内に新しい感染症は日本でも広がっていることが確認され、その後数日で東京では既に百人を超える感染者が出ていることが公表された。入学式を目前にして大学は急遽全ての予定の延期とキャンパスの封鎖を発表し、ニュースやSNSのトレンドも新型ウイルス一色になった。

「おばあちゃんの家に戻りなさい。新幹線は一個前で降りて、そこから栞さんに車出してもらうようにするから。お父さんと家に篭って何とかやってるから、こっちのことは心配しないで」

 お母さんから電話でそう言われて、結衣はびっくりした。少し物の減った、慣れ親しんだ家での一人の生活は、カップラーメンやスーパーのお弁当に頼り切りではあったものの、一人暮らしの練習みたいに捉えていたし、全ては一時的な措置で、またすぐに予定された通りの道筋に戻っていくものだと思っていたからだ。だけど、すごく安心した。

 結衣の高校は高三の三学期は授業がなくて、学校に行かなくても良いカリキュラムになっていた。受験期だが、冬はどこかに通う予定はなかったので、父の仕事と物件探しの為に両親がアメリカへ行っている間、おばあちゃんの家で過ごすことに何の抵抗もなかった。むしろ、すごく勉強が捗りそうな感じがした。家が遠くてあんまり会うこともないおばあちゃんだったけれど、甘やかしてもらった思い出は沢山あって、顔や声の記憶は全然褪せていなかった。十二月の終わり頃、キャリーケースを積んだ車で半日以上を費やして向こうへ移動した。両親は翌日の午前中からまた半日以上かけて帰って行った。おばあちゃんの家はびっくりするくらい清潔だった。居間の箪笥の上には松の盆栽と海藻みたいにうねうねと前後左右に寄り道をしながら緑色の葉を伸ばしている謎の植物が並んで置かれていた。壁には掛軸も絵もあった。それから遺影もあった。でも物はあまり多くなかった。すいすいと二階に案内されると、結衣の使うことになる部屋もやはり整頓されていてものすごく綺麗だった。「昨日掃除したの」とおばあちゃんは笑いながら言った。数日して隣県からお父さんの姉にあたる栞さんの家族が車でやって来て、正月を賑やかに過ごした。植物達が当たり前に座を占めている奇妙な空間で、お餅やおせちを大量に食べた。やがて栞さん達は帰って行って、数週間して結衣も両親の戻った家へ帰った。今度はバスと電車と新幹線を使った。大きな駅に着いてからはすぐだった。寝ていたら地元の風景に戻されていた。

 この際、東京へ行ってしまうことも出来た。状況が良い方へ変わりそうになかったら、ぱっと旅立ってしまうつもりだった。区切りのはっきりしない感じは思っていたのと随分違うけれど、それもまた自由だと思った。けれども、おばあちゃんの家でのあの生活もまた、自由に相違なかった。しかも今度は、少なくとも大学から何らかのお達しがあるまでは、部屋に篭って勉強する必要もない。結衣は鼓動の高鳴りを感じた。おばあちゃんに会いたい、という気持ちが迫り上がって来て、そわそわした体温に包まれた。その日の内に準備を整えて、キャリーケースと共に眠り、食べ、二日後に家を出た。あっという間に栞さんのところへ辿り着いて、快適な車でまたあの家へ運ばれた。二階の部屋はやっぱりものすごく綺麗に保たれていた。

 園芸の手伝いは随分させてもらった。おばあちゃんは四六時中草花の手入れをしていたので、近くで話そうと思うと自然とそうなった。間近で見ると、どの葉やがくも瑞々しく、どの花弁もいつまでも眺めていられる程美しかった。おばあちゃんは一つ一つ名前を教えてくれた。しかし大抵はカタカナの不思議な響きの名前をしていて、教科書を貰わないと覚えられそうになかった。初めて聞いた植物の名前で、唯一忘れずにいられたのがコノフィツムだった。


 ドアを塞ぐようにして寄り掛かったまま、眠ることも出来ずに、またしばらく他人達の時間が流れた。無性に麦茶が飲みたくなって来た。頭痛薬も欲しい。それからシャンプーとリンスとボディーソープと歯ブラシと……、ああ、あとご飯。静かに目を開けて、無心にレモン色と対峙し、意を決して立ち上がる。ふらついては駄目、ここでふらついては全部台無し、――考えてはいけない。考えてはいけない。


 今、あの壮大な異星達の畑で、道を回り込んで覗き込まれない限り隠されている神聖な祭殿で、コノフィツム達は何も知らずに眠っているのだろう。夏に眠って、秋になると脱皮して再生するという、地に密着した命。空気と光を身体一杯に吸い込むように恥じらいもなく顔を出し、水を蓄えたその組織の真ん中から黄色やピンクの花を咲かせていた植物。おばあちゃんは「生きる宝石」と言って、歯を見せて笑っていた。昼咲きのものもあれば夜咲きのものもあると教えてもらったが、夜に見に行ったことはなかった。けれど結衣は、おばあちゃんが夜中たまに起き出して、一人で山へ入って行くことを知っていた。室内や庭の植物の世話は手伝ったが、なんとなく遠慮して、山へ同行したのは初めの一回だけだった。おばあちゃんは杖も使わなかったし、重い青色のじょうろも難なく使いこなしていたから、少しも心配しなかった。一人で見に行ったことも二、三回あるが、それすらどこか背徳的な感じがして、気分転換の散歩がてらちょっと寄ってみただけです、という顔をしてそそくさと頭から出て行くのだった。どっしり構えたカラミ煉瓦を背に、少し頬を赤らめて――

 供物を求める素振りなど見せない優雅な姿のコノフィツム達は、祭司のいなくなった秘密の祠でいつか目を覚ます。けれど今はまだ眠っている・。私の代わりに眠っている。

 雨がまばらに降っていた。傘を持っていなかったのでそのまま外階段で一階まで降りた。前方の視界は向かい側の建物にすぐ阻まれ、結衣の空間は帯状に左右へ広がる。薄い墨汁の色をした空気が黄昏を覆い隠しながら道路まで降りて来ていた。ドラッグストアもスーパーも同じ方向の筈である。等間隔に並木のある、広さの割に人通りの少ない道を、どうかふらふらしないようにと心の奥で念じながらゆっくり歩いた。電線の撤去が進んでいるようで、そんなところにまで寂しさを覚えたが、その分空が広かった。川みたいな空の下を東へ歩いて行く。灰色が太陽のかたみを押し流していくようだった。雨粒が自分の頭や木の葉や建物に何度も当たりつつも全体としては一番下へ落ちて見えなくなっていくのが言葉のようだと思った。認識の有無を問わず、自分に纏わり付いていたものが、太陽に吸い取られて去って行く感じだった。それを無感動に近い状態で受け止めながら歩を進めることが出来た。内臓はわたしに引っ付いているから大丈夫だった。頭痛に引きずられるようにして歩き続けた。

 そのとき、結衣は自分とよもぎ色の木漏れ日の水を浴びるコノフィツムの姿とが重なる奇妙な錯覚に攫われた。


 雨は止まなかった。傘を買った方が良いかな、と一瞬思ったが、今じゃなくて良いと思い直した。余計なものを連れ帰りはしない。私は部屋に結界を張るのだ。ビニール袋に入ったお箸付きの冷めたお弁当を冷蔵庫の上に置き、がらんどうの内部に600ミリリットルの麦茶を入れてから、すぐにシャワーを浴びた。悩んだ挙句、ボディーソープは薔薇の香りのするやつにした。

 髪を乾かす前に麦茶を取り出して、リビングの椅子に座って小さな机で頭痛薬を飲んだ。部屋に帰って来たときには取りに戻れない忘れ物の気配のようなどんよりした空気が滞留しているのを感じずにはいられなかったが、今は全然そんな気はしない。両手で口と鼻を覆ってカーテンを一瞥する。薔薇の匂いが身体の底の方へゆっくりと下がって行く。煙のようにうねって、私は煉瓦よりも小さくなる。――アーチ状の入口を板で閉ざす。囁きのような寝息が方々から聞こえて来る。少しだけ離れて地に身を密着させる……。

 静かに手を下ろす。スマホで時間を確認すると、八時前だった。スマホを麦茶の横に置いて洗面台のところへ戻り、髪を乾かしてからまた、見逃せないものを捉えようとする人のように急いで着席した。わたしは栞さんに電話を掛けなければならない。きっとまだ間に合う。静かに電話帳の名前をタップする。――洞窟の中に反響するようなコール音。白い明かりとレモン色。

――結衣? どうしたの

――うんとね、一つ訊きたいことがあって

――何? 何か忘れ物でもした?

――そうじゃなくて、山の中の坑道のことなんだけど

 栞さんは合点がいっていない様子だった。忘れ物、という言葉がスマホ越しに飛び出して来て、喉に張り付いたような感じがした。

――おばあちゃんの家の植物達ってさ、どうするの?

――引き取っても育て方なんて分からないし、困っているところなの。小さくて珍しそうなものはオークションとか出してみようかと思うけど、ひとまず後回し

――実はさ、山の中にも、あるんだよね、おばあちゃんの植物

――山の中?

――そう。坑道の跡地、あるでしょ。入ってちょっと行ったところに。そこにさ、おばあちゃん、植木鉢いっぱい並べててさ

――うそ、あの人たまに山行くのってそういうことだったの? 全然知らなかった

 山に自生してる花に水でもあげに行ってるのかと思ってた、と栞さんが言って、何それ、と少し笑った。


                 ***


 麦茶を飲み干してから、ペットボトルを置いたまま立ち上がってカーテンに手を掛け、窓越しの街を眺めた。雨の音はもうしない。窓を開けてみると、やはり止んでいる。灰色は幻影に姿を変えながら、西へ去って行ったのだ。湿った風が上下に積み重なるように吹いて去る。何も侵入しては来ない、緩やかな解放感と対面する。窓の外は内見のときにも確認したが、一人で見ると全然違うんだな、と思う。

 ご飯を食べたら少し歩こうと決めてキッチンへお弁当を取りに行くと、シンクの排水溝のところにちっぽけな姿のりんごの芯を見つけたが、見て見ぬふりをした。でもお弁当を食べ終わったら、ちゃんと拾ってその空き容器に入れ込み、ビニール袋で密閉した。ゴミ箱を買っていなかったのが痛恨の極みであるが、不動産屋に貰った案内によれば燃えるゴミの日は明後日らしいので、ひとまず後回しの精神で問題ない。この部屋だって、新しい生活が始まったばかりなのだから、そんなに多くのことを抱え込む必要はない。私の結界であってくれればそれで良い。それで良いんだよ。

 結衣は大通りまでまた東向きに歩き、偶然信号が青に変わったというだけの理由で右に曲がり、やがてもっと大きな通りに辿り着いて、今度はスクランブル式の信号だった為斜め左に曲がり、高速の下を過ぎ、川に出て、坂を上り、階段を下って、自在に歩き続けた。階段の上から望む家並みが綺麗だった。Tシャツに汗が滲んだ。川の流れる音が幽かに漂って来るある通りでふと立ち止まり、家はどっちの方だったっけと左右を見回していると、道の真ん中に狭い感覚で並んでいる大きな樹木が目に入った。信号が変わるのを待って真ん中まで行き、上を向いてみる。一本の太い幹から伸びたすべらかな枝達は段々広がっていき、更に分岐を重ね、結衣の頭上までをびっしりと覆う無数の葉を生やしていた。それがずっと先まで、横断歩道に遮られつつ続いているようだった。木は街の一部であり、街でない。街が街であったときには往来の背景であり続けたのだろうが、今は木としてそこにあるだけだ。それ等の木も最初は全部、植木鉢に乗って水のシャワーを浴びているような小さな苗だった筈だ。

 決してその場所を動かずに、硬い樹皮に包まれながら今なお成長を続けている木の過ごした途方もなく長い時間を想った。結局目の前の、結衣を包み込むこの緑色の空間が、時間そのものなのだった。誰がそんなことを知るだろう。横断歩道を人が通る度、この木は時間そのものになって、彼等の頭に覆い被さっていたのだ。――

 おばあちゃんの世界が終わった。一つの時間が突然消え去ってしまった。もうそれはどこにもなくて、わたしの目に映すことは出来ない。横断歩道の真ん中で、結衣は幾筋か涙を流した。生きているわたしの身体は、乾けば潤いを求める。風に吹かれもすれば、雨にあたりもする。結衣は、わたしがわたしであるということの結界的な意味を、そのとき初めて理解するに至った。ちっぽけな身体で大きな樹木の一つになったような、巨人の嗅ぐ空の匂いを嗅ぎ尽くし、結衣は横断歩道のもう半分を渡った。

 コノフィツムよ存分に眠るが良い。そして起きるが良い。わたしの世界は宝石を守り抜くようにここにあり、生のままだ。

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なまのこころ 天池 @say_ware_michael

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