第九話 フランス人民

「あれ? 日野原くん?」


 秀雄が観念したのと、柚香が近寄ってきて声をかけてきたのとは同時だった。


「こんにちは、月岡先生」


 柚香は、純粋にちょっとした興味から声をかけただけだった。


 というのも、入ってくるなりお目当ての「スーパードゥーパー」パフェが目に飛び込んできて、つい目をとられたら、その前に、ちょうど見知った顔、どちらかといえば一度見れば忘れないくらいには小っちゃなオッサン顔の生徒が鎮座ましましていたからだ。


 なぜ、ウチの生徒が大学部の食堂に? ところが、そのちょっとした疑問は思わぬ波及効果をもたらした。その男子生徒には連れがいたのだ。


「あ、先生……」


 くるみは驚きのあまり挨拶も出ない。


 柚香を、いけない現場を目撃してしまったかのような居心地の悪さが襲った。まさか、この二人?


「あ、あら。水沢さんも一緒なの? こんなところで偶然ね」


 柚香にはそうとしか言いようがない。いくら思春期の高校生でも、たまたま男女が二人でいたからって、まさか、ねえ。


 秀雄は頭を抱えていた。くるみにクラスでのことをしゃべらせないためには、どうするか。ええい、ままよ。


「いやあ、困ったところを見られてしまいましたね。先生、ここでぼくたちを見たことはみんなには内緒ですよ?」


 秀雄は、いかにもカサノヴァらしく言った。もっとも、本家カサノヴァとかけ離れた外見ではあったろう。カップルを装おう。安直だが、話は逸らせる。水沢にはキモがられるだろうし、嫌われれば、今後の情報収集が困難になるが、先生に相談されてイジメがエスカレートするほうが厄介だ。水沢、早く帰れ。


 ところが、くるみは黙ったまま俯いている。聞こえていなかったのか?


「みずさ……くるみちゃん、ぼくたちのこと先生にバレちゃったよ。どうしよう」


 秀雄の本来のキャラではない。うう、われながらキモい。


「……」


 くるみは黙っている。怒らせすぎたか?


 柚香は、おろおろしている。なにしろ、クラスに不穏をもたらしたはずの男子(それもチビデブハゲ)が、なぜかすでに女子とカップリング成立といった趣なのだ。


 すると突然、くるみが顔を上げた。真っ赤だ。


「日野原くんが、そこまで言うなら……いいよ」


 秀雄は理解できない。ぼくが何をどこまで言ったというのか。ん……?


「美女と野獣ってことでいいよ……!」


 くるみは、柚香の前で高らかに宣言した。待てよ。誰が野獣だよ。おまえは家畜だろ。


「あらあら。日野原くん。なんの話をしてたのかしら?」


 柚香は取り繕った。秀雄にも何がなんだかわからない。だが、それに乗るしかない。


「もちろん、フランス文学の話に決まってるじゃないですか。ヴィルヌーヴ夫人版とボーモン夫人版の違いについて語りあかしていていたところですよ。ねえ、くるみちゃん」


 くるみは、び、びにーる? などとモゴモゴ言っている。くるみも混乱しているようだ。


「へ、へー。そうなんだ。先生は、アニメ映画くらいしか知らないなあ」


 せめて似たような話が収録されてるグリム童話くらい読めよ、と秀雄は思ったが、もちろん口には出さない。


「あー、あの、有名俳優が声優をしているヤツですね。ぼくも好きですよ。特に村人たちが野獣の城に押し入るところ。屈指の名シーンですよね」


 そう、みな狂気にとりつかれたまなざしで野獣の城を目指す。おれたちは理解できないものが嫌いだ、おれたちは間違いなんて冒さない、と絶叫しながら。まるでぼくのクラスメイトみたいだよな?


 くるみも柚香もぽかんとして顔を見合わせた。


「そこはお城で二人で踊るシーンじゃないかしら?」

と、くるみ。


「わたしも好きでよく見てるけど、そのシーンで流れる歌声がシブいわよね」

「ですよねー」


 女子は二人で盛り上がっている。フー。なんとか話を逸らせた、のか?


「それはそうと。今から帰って門限ギリギリじゃないの? 二人とも。盛り上がるのは結構だけど」


 柚香は、そう言って秀雄とくるみを軽く睨んだ。いや、盛り上がっていたのはあんたです、先生。


「早く帰りなさいね」


 そう言い置いて、柚香は「スーパードゥーパー」パフェを注文するためにカウンターに向かった。潮時だ。見られたのが先生でまだよかったと考えるべきだろう。


 秀雄は、そそくさとくるみの分まで食器を返却棚に戻すと(もちろん、そうしたほうが早く席を立てるからだ)、くるみに言った。


「じゃ、水沢さん、帰ろっか」


 何気なく言った一言だったが、くるみの何かに触ったようだ。くるみは秀雄を睨みながら言った。


「日野原くん。いくらなんでも女子寮まで一緒に帰ったりなんかしないよ」


 そりゃそうだろ。


「はは。ごめんごめん。調子に乗りすぎたね。あと、くるみちゃんなんて言ってごめんね。先生に見られて、気が動転しちゃったんだ」


 秀雄は、我ながらなぜ動転して女子を名前呼びするのかよくわからないな、と思いながらとりあえずごまかそうとしてみた。


「……それはいいよ」


 秀雄は少し驚いた。それはいいのか? まあ、牛がどう呼ばれたいのかまで気は回らない。


 秀雄がどうしたものかと思案していると、くるみは席から立ち上がった。


「先生、カウンターから戻ってくるかも」


 そのくるみの一言に、秀雄も慌ててくたびれたカバンを手に持った。


「ここから出たら、わたしたち、赤の他人だからね?」


 そう言って、くるみはいたずらっぽく微笑んだ。


「そ、そうだね。こんなところみんなに見られたら、どうなるか、だね」


 秀雄は調子を合わせた。牛がみんなにハブられようが、知ったこっちゃないのだが。


「メッセージのID交換しよ」


 くるみはいきなり携帯端末を取り出した。先生が戻ってくるっつったのはおまえだろ、と秀雄は内心つっこんだが、言い争っている時間こそない。秀雄は、くるみの携帯を手に取ると、自分のIDを登録した。いったいなんなんだ?


「今度は、きちんと連絡するね、秀雄くん」


 そう言うと、くるみは振り返らずに出口から去っていった。


 秀雄はその後ろ姿を呆然と見送った。

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